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出会った頃は随分と人見知りであったような彼女は、けれど数年をかけて、徐々にお喋り好きになっていたようでした。
といっても、私が自分の話を料理とポケモンバトルのことについてしかできないように、
閉鎖的な空間で育てられてきた彼女もまた、そう多くの話題を持っている訳ではありませんでした。
彼女がする話は大抵の場合、次の二つのどちらかでした。フレア団という組織のことと、ピアノのことです。前者は私を青ざめさせ、後者は私を高揚させました。
……そうですね。順番に話した方がいいかもしれません。

先ずはフレア団の話についてですが、彼女はどうやら、セキタイタウンの地下にあるフレア団の基地でずっと暮らしていたようでした。
真っ赤なスーツを身に纏った彼等のことを、私も少しは聞いていました。
その頃はまだ、彼等が特に大きな問題を起こすようなこともなかったのですが、カロスに住む人の多くは彼等を不気味がっていました。
彼等が「何」をしているのか、まるで見えてこなかったからです。悪いことをしている様子も、良いことをしている様子も、何も、見つけることができなかったからです。
団員の身に纏っている真っ赤なスーツも、町では随分と目立っていました。彼等は明らかに異質な様相を称えながら、けれども荒波を全く立てず、ミアレを堂々と歩いていたのです。

彼女がそのような組織の構成員であることに、私は驚き、青ざめました。
もしかしたら、フレア団というものは子供を地下に軟禁して、おかしな教育を施しているのではないか、
だから彼女の肌はこんなにも青白く、彼女の頭にはこの世界の何もかもが入っていないのではないか、などという悪い想像を働かせたりもしたものです。
けれども、彼女の両親も彼女自身も、危険なことを口にしたことはありませんでした。少なくとも私の目には、彼等に「害」を見ることはできませんでした。
それ故に私は、フレア団という得体の知れない組織を警戒しながらも、結局、全てが終わるまで何もしなかった、などという怠慢を働いてしまいました。

組織の地下でずっと育てられてきた彼女は、外の世界に関してあまりにも無知でした。5歳の児童でも解るようなことでも、首を捻ることが多々ありました。
そういう意味で、彼女は確かに危うい人間でした。けれど危険な人間ではありませんでした。
ですから私は、変わらず月に2回、料理の値段を何度も何度も誤魔化して、彼女に会い続けていたのです。

後者の話ですが、美しさを極めた彼女にも、やはり夢中になれるものというのがあったようで、それが、物心ついたときから彼女の自室にあったピアノでした。
白と黒の鍵盤で構成された楽器を「お友達」と呼び、彼女はその友人との生活について、とても楽しそうにしてくれました。
父親から貰った楽譜のこと、それらをもう弾き飽きてしまったこと、自分で曲を作るようになったこと、ピアノの調律をしてもらったこと……。

「赤い色を見ているのが辛くなったら、鍵盤とお喋りをするの。ピアノには白と黒しかないから。弾いている間は赤を見なくて済むから」

赤色を激しく主張する組織において、赤色でないものこそ彼女を安心させていたようでした。
少なくとも彼女の暮らす地下では、ピアノと向き合い続けること以外に、赤色から逃れる手段がなかったのでしょう。
長く引き続けていれば当然のように上達します。与えられた楽譜を全て弾きこなしてしまった彼女は、次の楽譜を求めるのではなく、自ら曲を作り出すということを選びました。
私はそれを、彼女の芸術家気質の為せる偉業だと思っていたのですが、どうやら彼女は単に「何かを求める」ということを知らないだけであったようです。
引きこなしていた楽譜も、父のおさがりであったようでした。ピアノだって彼女が求めた訳ではありませんでした。ただそこにあったから、触れていただけだったのです。

そういった具合で、同じ芸術の世界に身を置いているにもかかわらず、私の在り方と彼女の在り方は、この点において決定的に異なっていました。
私にとって芸術は目的であり生きる意味とも呼べるものでしたが、彼女にとって芸術はただの副産物でした。
現実から逃れるために愛した鍵盤が、結果として芸術になったという、それだけの話でした。

さて、彼女は赤色から逃れるためにピアノを弾き続けていた、と言いましたね。
このように、彼女の「赤嫌い」は相当なもののようでしたが、パプリカやラディッシュといった食材の赤に関しては、特に恐れることなく食べることができていました。
フレア団のスーツと同じくらい、パプリカやラディッシュは鮮やかな赤色をしていました。そういう鮮やかなものを好んで私は仕入れていました。
けれども彼女は一度も、食材の赤を嫌ったことがありませんでした。綺麗な赤色、と目を細めて紡いだことさえあったのです。

「だってこのお料理が赤いから、あなたは赤くならずに済んでいるのでしょう?あなたの青を守ってくださっているパプリカやラディッシュの赤を、嫌いになんてなれないわ」

「パプリカやラディッシュが、私の青を守っている……?」

「前に、言っていたじゃない。お野菜が鮮やかだから満たされているんだって。お野菜が赤いから、あなたは赤を纏わなくてもいいんだって」

彼女が口にした「前」の指すところに思い至るまで、私は随分と長い時間を要しました。
彼女の歌うようなその言葉は、私を、彼女と初めて出会った日まで勢いよく引き戻すに至ったのです。

『どうしてあなたは赤くないの?』

あの日、大きな目でそう尋ねた小さな女の子は、けれど7年の時を経て美しい淑女へと成長していました。
小柄ではありましたが、背は確実に伸びていましたし、顔立ちも大人びたものへと変わっていた筈です。
けれども彼女の心は、あの頃からずっと止まったままであったのです。
彼女はあの日、私が苦し紛れに紡いだ言葉を、食材への敬意と感謝を示すあの文句を、ずっと、覚えていたのです。

『この店にはトマトにパプリカ、ラディッシュなど、赤い食べ物が沢山あるのです。
彼等の赤はとても鮮やかで美しい。ですから私自身が赤を纏わずとも、私は十分に満たされているのですよ。』

私にとっては7年前の、もう忘れかけていた言葉だったのですが、彼女にとってはきっと「ついさっき」のことだったのでしょう。
時の概念の希薄が、どうにも凄まじいことになっているように思われました。私などが立ち入る隙など、時の凍り付いた世界には一ミリも残されていないような気がしました。

「貴方が、ピアノを弾いているところを見てみたいですね」

ただし、私は妥協というものができない人間で、上手な恋、というのもまるで解っていないような男でしたから、
やはりそうした彼女であったとしても、その世界に入りたい、と焦がれた身として、彼女を支えるために伸べた手が彼女に届くまで、足掻き続けようと思ってしまいました。
この美しい少女が、美しいままに生きていかれるようにしたいと思いました。そのための援助ならいくらでもするつもりでした。
そういった具合で、彼女の時が止まっていることを知ったのと、私が彼女への並々ならぬ想いを自覚するに至ったのとは、ほぼ同じ時期でした。

何かしらの変化が彼女にもたらされるまで、長い時がかかるかもしれないということは覚悟していました。
けれども彼女が私に懐いてくださっていることは、そうしたことに疎い私の目にも明らかでしたから、この時間が途絶えることなど毛頭考えていませんでした。
8年間、ずっと続いてきたのです。これからも続くだろうと確信していました。その思い上がりが故に、私は彼女とのことについて「焦る」ということを全くしていませんでした。

彼女の時が動き始めればいいと思っていました。この子と一緒に、身体も心も年を取っていければどんなにか素晴らしいだろう、と考えていました。
けれどもそれ以上に、時が動くことで彼女の芸術的な美しさが損なわれるなら、また何より彼女が時を流すことを拒むなら、止まったままでいい、とも思っていました。

今だから言えることですが、当時のこうした葛藤は非常に愚かな、思い上がったことでした。
精神の時が流れる流れないの問題として、身体の時が止まってしまえば彼女の何もかもが潰えてしまうのですから。
彼女は「辛いなら、生きなければいい」などという凄まじい爆弾を、ずっと抱え続けてきたのであって、危うかったのは精神の時の方ではなく、身体の時の方だったのですから。
精神の時が止まろうとも、身体の時が辛うじて動き続けていること自体が、彼女にとっては奇跡のようなことだったのですから。

……どうです?一般的に見て、私と彼女はちゃんと「恋人」だったのでしょうか。それとも私達の関係を形容するに相応しい、もっと生臭く、息苦しい言葉があるものなのでしょうか。
少なくとも、一般的な恋人というのは、男性の方にも女性の方にも、等しく時が流れているものなのでしょう?そうしたことくらいは解っているつもりです。
そうした意味において、やはり私達は歪な形をしていたのでしょうね。
構いません。

何はともあれ、私は随分と驕っていたのです。
これからも彼女はこのレストランに通い続けるだろうということ、これからも彼女は両親に一万円札を貰い続けるだろうということ、
これからもその生活が脅かされたりなどしないのだということ、これからも、彼女に会えるのだということ。
……そうした長い時の果てに、例えば「共に暮らす」であったりとか「結婚する」であったりとか、そうした世間一般的な愛の形があるのだろうということ。
焦らずとも、そうした時は自然にやって来るのだろうということ。

ええ、馬鹿げています。彼女の時は止まっているのだから、変化は私が起こさなければいけなかったのです。
未知のことに、臆病になっている場合ではなかったのです。たとえ私が勇敢でなかったとしても、勇敢にならなければいけなかったのです。
私自身のためでも、私の愛した芸術のためでもなく、彼女のために、彼女がこの世界で生きるために、私が彼女の手を引くために。

そして私はその「変化」を、私が想定していたよりもずっと早い段階で強いられることになりました。
フレア団が、壊滅したのです。

厨房に立っていた私にも、そのニュースは耳に飛び込んできました。
彼等はセキタイタウンの地下に埋められていた古代の最終兵器を、伝説ポケモンの力で起動させ、カロスに住む人々を一掃しようと考えていたようです。
14歳のポケモントレーナーの活躍により、その目論見は防がれましたが、兵器は軽く暴発し、セキタイタウンの地下にあった基地は崩れてしまった、とのことでした。

彼女はその揺れに飲まれてしまったのではないか。そう考えて青ざめそうになった私の元に、スタッフが知らせを持ってきてくれました。
彼女からの「予約」が入ったという、これ以上ないくらいに喜ばしい知らせでした。


2017.4.28
(18:28)

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