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先程も申し上げましたが、女性という名前をした身体のことについて、私は全くの無知でした。
けれど彼女の場合、人間という名前をした身体のことに関しても、無知を極めていたのです。
当時、彼女は15歳だったのですが、青白い蝋のような肌の下に「血」というものが流れているのだということを、彼女は解っていませんでした。
彼女が暮らしていた場所というのは、生まれてこの方、出血するような怪我を起こさないままに過ごしてこられるような、あまりにも異常なところだったのです。

住まいの異常なまでの閉鎖性、それが彼女への迫害であり、虐めのようなものであったとしたら、私も憤ることができたのですが、どうもそうではないようでした。
世界を嫌う両親の手によって、彼女はあまりにも大切に育てられ、その結果、金銭感覚も、生物的な知識も、何も得ることなく大きくなってしまったのです。
そういった具合でしたので、私は彼女の無知を叱ることができませんでした。
彼女の怠慢が働いたことであれば、いつかのように「この痴れ者が!!」と怒鳴れたのですが……。

「貴方が美しくなかったことなど、ただの一度もありませんでしたよ」

このように私は、彼女のひどい無知を慰めることしかできませんでした。
ここまで閉鎖的に生きてきてしまったなんて、なんといたわしいことだろう、と確かに私は心を痛めていましたが、
それと同じくらい、その閉鎖的な環境と徹底的な無知こそが、彼女の異質さを鮮やかに際立たせ、その姿を美しく見せしめているのだと、そういう風にも考えていました。

身体を傷付ければ血が出る。人間の体内には血管があり、その中を血が流れている。
たったそれだけのことを知らずに育ってきた彼女の体内には、血ではなく、もっと純度の高い美しいものが巡っているのではないかと、
そのような馬鹿げたことを考えてしまうのも、おそらくは芸術家というものの性であったのでしょう。

……もっとも、私の場合、そうした空想が「馬鹿げている」ということを心得ているのですが、彼女の場合は本気でそのようなことを口にしているようでした。
彼女は本気で、自らの中に流れる血が、水のように透き通っている淡い青であればどんなに素敵だろう、などということを呟いていました。
空想と現実の狭間にピンと張られた糸の上を、足元を見ることなく軽やかに歩いている。彼女にはそうしたところがありました。
それでいて彼女の「現実」というのも、ひどく遁世めいた閉鎖的な代物だったのですから、やはり彼女は、私達の生きる現実の世界には馴染めなかったのでしょう。

一人でこちらの現実とかいうものに飛び込めば、すぐさま世間という荒波に飲まれてしまい、呼吸を奪われていたに違いありません。
誰かが、彼女の手を引き続けていなければいけませんでした。溺れないように、導かなければいけませんでした。
その役をずっと私が担っていられればよかったのですが、残念なことに私の身体は一つしかありませんでしたので、
私が家を空けている間、家で私の帰りを待ってくれていた彼女には、いつも悲しい思いをさせてしまったように思います。
……ああ、少し話が飛びましたね。申し訳ありません。

空想と現実の区別がついていない、という意味においても、真に芸術の呼び声を聞いていたのは、やはり私ではなく彼女の方だったように思われてなりません。
娘は「二人の時はずっと止まっているのね」と、からかうようによく口にしていましたが、おそらく私の時は僅かながら、動いていたような気がします。
少なくとも彼女よりは、私は世間のことを知っていたつもりです。蛍光灯の取り換え方を知らずとも、包丁で指を切れば血が出ることくらいは、解っていましたから。
真に時を凍らせる力を持っていたのは、彼女だけでした。私は彼女ほど、純度の高い存在にはなれませんでした。

私は彼女に焦がれていた。
恋をしていた、という言い方よりも、こちらの方が私には親和性が高いように思います。

蝋のように白い肌に、上品な言葉遣いに、ナイフとフォークを動かす優雅な手つきに、私の名前を呼ぶ声に、純度を高めすぎた無垢と無知に、私は焦がれていました。
彼女のように生きられたならどんなに美しいことだろう、と私は何度考えたかしれません。
けれどこのような純度の高い存在は、外の世界では生きていかれないだろう、という現実的なことも理解していました。

彼女のように生きたい、という空想と、そのような美しい姿では生きていかれない、という現実。
世界というものはかくもままならないものかと、私は初めて苦悩というものを覚えました。
けれども同時に、少なくとも彼女よりは低純度の人間として、無垢と無知を極めた彼女にあらゆることを教えられるということを、私は誇りに思っていました。

彼女にいろんなことを教えてあげられる私でよかった。彼女の手を引ける私でよかった。
もし私が彼女のような純度の高い存在であれば、二人して道に迷うことになっていたでしょう。
共に暮らすようになってから今まで、私が立派に彼女の手を引けていたかといえば、そうとも言えないところは確かにあったのですが、
それでも、私は申し訳程度に持ち合わせていた常識と知識を駆使して、彼女よりも少し前のところを歩くことができていました。

しかしその役割は、私などよりも、やがて生まれてくる娘の方が、ずっと上手にこなしていたのですよ。
あの子は随分と幼い段階で、彼女や私の前にひょいと飛び出し、私達を力強く導くまでになっていました。
この話は、また別の機会にさせていただきます。

そういった具合で、私は月に2回、彼女のための料理を作り続けていました。
彼女が13歳になった頃には、正式な料理人して厨房に立つことが許されていたので、私の料理を食べるお客様が彼女だけ、といった状況ではなくなっていました。
それでも月に2回、私は彼女との時間を作りたいがために、僅かな「休日」を全てその日のディナータイムに当てて、
その、本来なら休日である筈の時間を使って、調理、配膳、料理の説明、会計、お見送り、その全てを行うという、今思えば随分破天荒なことを、何年も続けていたのです。

料理人の中には、私のように「お得意様」を持つのはそう珍しいことでもなかったのですが、
それでも「休日返上」ということまでして、そのお得意様のために尽くすようなことをしていたのは、私くらいのものでした。
けれどもこういう時に「変人」の肩書きはとても役に立ちます。奇怪なことをしても、「あいつは変わっているから」という優しい笑いで済ましてくれるのですから。
休日でも厨房に立つ私の姿は、最早このレストランの名物となっていましたから、誰も私のことを訝しんだりはしませんでした。

ただ、私が彼女から5千円しか受け取っていないことを知ったベテランのシェフには、随分と苦い顔をされてしまいましたね。

「あの子のために自腹で料理を作ることが、君のためになるとはとても思えない。折角の有休なのだから、もっと有意義なことに使ってはどうだい?」

彼の指摘はもっともなことでした。
料理の腕を上げるだけなら、厨房に立ち続けていた方がいいに決まっています。そのようなこと、当時の私にだって分かり切っていたことでした。
真に私の料理の腕の向上を思ってくれていた上司だからこそ、紡ぐことの叶った、厳しくも優しい言葉であったこと、理解していたつもりです。

「ええ、そうですね。ですが私の唯一の息抜きと散財なのです。見逃していただけないでしょうか?」

けれども私は押し通しました。随分と上手くなった嘘を巧みに使って、私はそれからも、月に2回の休日を貰い続けました。
彼女のために作る料理が「息抜き」である筈がありません。寧ろそれは、私が最も緊張する時間である筈でした。
美味しくない、などと彼女が言ったことはなく、多少失敗があったとしても彼女は美味しいと言ってくれたのでしょう。
けれども私が耐えられそうにありませんでした。彼女のことにおける妥協の一切が許せませんでした。

料理を振る舞うということは、私の「呼吸」を他者に捧げるということである。

当時20歳だった私にそれを教えてくれたのは、他の誰でもない、彼女でした。私は自らの息吹を削るようにして、彼女に会っていました。
それが、大切なことを教えてくれた彼女への、無垢と無知を極めた彼女への、感謝と忠誠になるような気がしていたのです。

……別に、彼女に仕えよう、などと考えていた訳ではありません。
けれども私はこれから先、彼女が困ってしまった時には一番に駆け寄り、手を差し伸べることのできる人でありたいと願っていました。
私が教えることの叶う全てを、彼女に捧げたいと思っていました。
彼女がたった一つ教えてくれた、料理における決定的な理のお礼を、私は私の全てをもってしたいと考えていました。

もっとも、そうした誓いを抜きにしても、彼女のために料理を作るという喜び、彼女の「美味しい」を聞くことの叶うという至福は、何物にも代え難いものでした。
彼女は真にかけがえがありませんでした。そうした存在に会いたいと望むのに、果たして理由というものは必要だったのでしょうか。
だとすれば、その理由を説明できない私というのは、当時からひどく歪な人間だったということになってしまいますね。
それとも、誰かを強く想い過ぎてしまうと、人はまともではいられなくなってしまうのでしょうか?

……ああ、そうだ。ポケモンリーグの四天王に招かれたという話をしなければいけませんね。
といっても、こちらには特に大きなドラマがあった訳ではないのです。
バトルシャトーに訪れた当時の四天王の一人、パキラが、ポケモンリーグの欠員を知らせてくれたので、
私はそれに食らい付くようにしてポケモンリーグを訪れ、四天王就任を果たしたという、それだけのことだったのですよ。
私にとってポケモンバトルも料理も等しく芸術でしたから、それらで成果を収めることが叶うというのは、やはり嬉しいものでしたね。

四天王という仕事が今のレストランでの業務に支障を与えないか、それだけが気掛かりだったのですが、先程話したように、こちらの仕事はそう忙しいものではありませんでした。
四天王やチャンピオンの中には、別の仕事をしながら、ポケモンリーグに席を置き続けている、という人が複数名いて、
私を勧誘してくれたパキラも、当時はカロスのニュースキャスターとして活躍していた方だったようです。
チャンピオンのカルネさんも、女優業の傍ら、チャンピオンの座を守り続けていましたね。
そういった具合でしたから、二つの役を同時に担うことはそれ程難しくなく、月に2回の休日も作ることができていました。

相変わらず、私は蛍光灯を取り換えることもできないような人間でしたが、それでも、毎日が充実していたように思います。
少なくとも私は、この時までただの一度も「生きていたって辛いだけ」「生きなければいい」などと考えたことはありませんでした。自殺など考える人の気がしれませんでした。

……ですからその2年後、彼女の口からその言葉が出てきたときには、流石に愕然としてしまいましたね。
とても自己本位な恥ずかしい話ですが、私にはその言葉が、私への手酷い裏切りのようにさえ思われてしまったのですよ。


2017.4.28
(16:26)

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