その小さなお客様は、1か月に一度、私の修行場所であるレストランにやって来るようになりました。
見習いの身であった私は、常に厨房でシェフの手先を見ている訳にはいかず、ロビーで受付をしたり、配膳をしたりといったことも日常的に行っていました。
故に1か月後、私はロビーの受付ですぐに彼女を見つけることができました。彼女も私のことを覚えていたらしく、緊張をふわりと解いて小さく手を振ってくれました。
さて、私と彼女の時間というのはそれだけで終わる筈だったのですが、そのあと私はすぐに、彼女とその両親が食事をする個室に呼ばれました。
彼女が「この前の人に作ってほしい」と言ったからです。
繰り返しますが私は見習いの身でした。私よりも場数を踏んだ料理人はこのレストランに大勢いました。
子供の嗜好と味覚に合った料理を即興で作ることなど、彼等であれば容易いことだったでしょう。
おそらく私以外の誰が厨房に立ったとしても、私が作るものよりは確実に美味しい料理が出来上がっていた筈です。彼女だって、より満足することができた筈です。
それ程に当時の私は駆け出しの人間でした。「貴方でなければいけないのだ」と言われるような何物をも持っていない人間でした。
それでも彼女は、他の誰でもなく私を指名したのです。
後になって分かったことですが、彼女は幼い頃から決まりきった食事しか食べたことがなかったようです。
与えられたものを食べるだけの生活に慣れ過ぎた彼女にとって、美味しい、という感覚は悉く馴染まないものでした。
私が作ったビーンズローフ、あれこそが彼女の初めての「美味しい」であったようでした。
私にとって、料理を振る舞う初めてのお客様が彼女であったように、彼女にとっても、美味しい料理を提供した初めての相手が私であったのです。
「美味しいということがどういうことなのか、わたしはこのお料理で知ったのよ」
今でもビーンズローフのレシピだけは、改良を加えることなくそのままにしてありますが、彼女はことあるごとにこう繰り返してくれるのです。
ですから私はその度に、こう言い返すことにしています。「料理を作るとはどういうことなのか、私は貴方の「美味しい」に教えられたのですよ」と。
そういった具合でしたから、彼女が私を指名したのは、彼女にとっては私こそが「最も美味しい料理を作る人」であったからでした。
たとえ世間一般的に見た真実がそうでなかったとしても、たった10歳の幼い少女からすれば、私の料理こそが最上であったのです。それが彼女の真実であったのです。
両親はあのレストランで最も高い料理を毎回、注文なさる方で、彼女を連れてくる前からも、両親だけで数か月に一度はお越しになっていた、所謂「お得意様」でした。
そんな彼等の娘の要望を、たとえ10歳の子供の言葉であろうとも、無視する訳にはいかなかったのでしょう。
以来、私はその一家がやって来る日だけ、自分で考えた料理を、自分で一から作り、自分で彼女のもとへ配膳する、ということを許されるようになりました。
まだ見習いであった私には、本来なら受け取ることなど毛頭叶わない、とんでもない優遇でした。そういう意味でも私は、彼女との出会いに心から感謝しています。
両親の贅沢なお金の使い方を見るに、彼女はおそらく裕福な家の下に生まれていたのでしょう。
けれどもお金があることは、彼女を幸福にしている訳ではなさそうでした。
日に全く焼けていない、蝋のように白い肌や、上品でゆったりとした言葉遣い、そしてあまりにも美しい食器の使い方……。
そうした姿から、彼女がとても厳しく閉鎖的な環境で育っているのだろう、ということを私は早い段階で推し測っていました。
彼女がこのレストランで異常な行動をしたことはただの一度もなく、彼女を「おかしい」とすることはあまりにも早計だったのですが、
けれどもミアレシティの大通りを競うように駆けている、10代の子供達とは、何かが決定的に違っている、という感覚は、私の中にずっとあったように思います。
けれども両親の前で、彼女自身のこと、彼女が育った家のこと、それらをあれこれと尋ねる、というのが失礼であることくらい、流石の私にも解っています。
そして失礼ということ以前の問題として、お客様のプライバシーをあれこれと尋ねることはかたく禁じられていましたから、
彼女のことを深く知る術など、私の勝手な想像の他には何もない、という有様でした。
ただ、知らずとも、彼女は私をとても慕ってくれていました。私の名前を覚え、レストランに訪れた際には必ず私のことを呼びました。
堂々と厨房に立てる機会を与えてくれた彼女に、勿論私は感謝していました。
そしてそれだけでなく、毎回のように紡がれる「美味しい」という言葉の温度に絆され始めているところでもありました。
この、ひどく閉鎖的な環境で育ってきた、まるで彼岸に咲く花のように儚い様相を呈した彼女に、鮮やかな料理を届けられていることが、どうにも嬉しかったのです。
いつからだったかはもう思い出せないのですが、私は彼女の「美味しい」を聞くために、彼女が再びレストランを訪れる1か月の間、ずっと料理の修行を続けていたように思います。
何を食べても「美味しい」と言ってくれることは解っていたのですが、それでも私は妥協したくありませんでした。
いつだって、その時の私の持てる全力を、皿の上に彩っておきたかったのです。
「何を食べても美味しくないの。あなたの料理だけが美味しいから、他のものを食べることがとても苦痛で、うんざりしてしまって……」
ある日、すっかり痩せてしまった彼女がぽつりとそう零しました。彼女がレストランを訪れるようになってから、およそ1年が経過した頃であったように思います。
料理に全く手を付けない、などという愚行を続けていたらしい彼女に、私はつい激昂してしまったのですが、私の怒声を受けても尚、彼女はこんなことを言ってくれたのです。
私はひどく驚きました。驚いて、そして嬉しくなりました。
彼女の「美味しい」は、お世辞でもなんでもなく、彼女の真実としてこれまでもずっと此処にあったのだと気付いてしまったからです。
私のつまらない話に愛想笑いを浮かべてくれる同僚の言葉と、彼女の拙くも嘘のない真っ直ぐな言葉。
どちらが私の心臓を大きく揺らしたのかは、もう語るまでもないことです。嬉しかったのです。
人と関わることは必ずしも苦痛で窮屈なものではないのだと、そういうことだって、嘘を吐くことを知らないこの少女が教えてくれたのです。
いつも使っているドレッシングをワインボトルに注いで、サラダにかけて食べるようにと告げて渡しました。
試作していたチョコレートを急いで包み、紙袋に入れて差し出しました。きちんと食事を摂ることができた日にだけ、一粒ずつ食べるようにと言い聞かせました。
子供騙しのような方法でしたが、彼女には十分な効果を発揮しました。ものの数か月もすれば彼女の身体の線は、針金細工のような様相ではなくなっていました。
それでもやはり同じ年頃の子供と比べると、随分な細さであったような気がします。けれども彼女の頬はもうこけていなかったので、もう大丈夫だ、と思いました。
……ただ、それからも私は、チョコレート菓子とドレッシングを彼女に渡し続けていました。
ドレッシングはともかくとして、30粒のチョコレート菓子を作るのにはそれなりの金額を必要としたのですが、それは私のポケットマネーからこっそりと出していました。
デザートの試作にまで手を伸ばした私を、腕利きのシェフは高く評価してくれましたが、……少々、気まずい気持ちになりましたね。
30粒のチョコレートは、私の個人的な「願掛け」の意味を多分に含んでいましたから。
これを渡せば彼女は食べてくれる。これが全てなくなった頃に彼女はまた来てくれる。
そうしたささやかな、まるで子供のような願掛けでした。
彼女は幾つになってもまるで子供のような挙動をしていますが、私のそれも、きっと私の実年齢よりずっと幼く拙いところにあったのでしょう。
「二人はまるで子供のようだわ。夢を見なければ生きていかれない体つきをしているもの」
そういえばつい先日、娘にこのようなことを言われました。
夢を見なければ生きていかれない体つき、とは、随分な表現だと思わず感心してしまいました。
娘は料理にもピアノにも長らく興味を示していませんでしたが、確かに私と彼女の血を引いているようです。
そうした、少し大仰な表現を好むところなど、私にも彼女にもとてもよく似ていますよ。
……けれどもあの子はどうやら、嘘を吐くことができないようです。その点、私には全く似ていませんね。
私はずっと、彼女に嘘を吐き続けていましたから。私が彼女に会いたかったがために、料理の値段を過少に報告していましたから。何年も、彼女を騙していましたから。
私が22の頃だったと思います。彼女がワンピースのポケットに一万円札を握り締めて、一人でレストランにやって来たのです。
今までずっと、両親に連れられてくる形での来店でしたら、私はとても驚きましたが、彼女がついに自由に外を出歩けるようになったのではないかと、喜んでしまったのです。
そんな矢先に差し出されたお金でした。金銭感覚を著しく欠いた彼女は、一万円札で何が買えるのか、いつもの料理の値段がどれくらいであるのかを、まるで解っていませんでした。
「けれどお母様は少し多めにお金を用意していたようだ。これだけあれば、このズミの料理を2回食べることができますよ」
その嘘によって、私は彼女と月に2回、会うことができるようになったのです。
この頃には既に、彼女に来店してもらうということへの目的が、「堂々と厨房に立って料理をすること」ではなく「彼女に会うこと」にすり替わっていました。
勿論、厨房に立つことの叶う頻度が倍になるということも勿論、喜ばしいことでした。けれどもそれ以上に私は、彼女の不在を苦痛に思い始めていました。
それは、彼女が他の料理を食べても美味しくないと感じていたのと、同じようなことであったのかもしれません。
私はこの頃には、既にシェフの手伝いをしたり前菜を作ったりする仕事を任されるようになっていたため、彼女以外のお客様からも「美味しい」と言われることが増えました。
けれど誰の「美味しい」よりも、やはり彼女の拙く幼い言葉が胸に響くのでした。
その理由を説明するための術を私は持ちません。しいて言うならば、もしかしたら、恋だとか愛だとかいうものであったのかもしれません。
ただ、その時の私は、語り得ぬものについてそのような、便利な単語を当て嵌めることに強い抵抗がありましたから、
仮にあの頃の心理が、恋や愛というものの為したことであったとして、そのようなことを、私はきっと認めることができなかったでしょう。
しかし、確実に言えることがあるとすれば、彼女と私はその性質においてとても似ていた、ということです。
無知という、生きるために致命的となり得るその状態を、けれども私は彼女との「お揃い」という言葉に溶かしていよいよ楽しみ始めていました。構うものか、と思っていました。
ただ、その無知によって私は随分な恥をかいてしまったことがあるのですが……。
いえ、止めておきましょう。随分とグロテスクな話になってしまいますから。詳しく知りたければ彼女に訊いてください。
結論だけお話しするなら、私は女性という名前をした身体のことを何も知らなかった、ということです。
私がどれだけ常識と教養に欠ける人間であったか、貴方ならもう、お察しいただけているのではないでしょうか。
生きるとはやはり、大変なことですね。そうは思いませんか?
2017.4.27
(15:25)