温かい光がわたしの背中に突き刺さっていました。天井はひどく青ざめていて、煙のようなものが一つ、二つと不自然にその青へと貼り付いていました。
赤いサングラスをかけていない人が、黒いスーツや白いシャツを着て忙しなく歩いていました。見たこともないポケモンを連れた子供達が、競うように走っていました。
今まで、夜にしか「世界」に出て来たことのなかったわたしは、お日様の光も、空の青さも、何も知らなかったのです。
唐突に開けた新しい「世界」にわたしは戸惑いました。
背中に刺さる熱がどうにも痛くて、周りの人の大きな歩幅がどうにも恐ろしくて、高すぎる天井が果てしなくて、どれもわたしの知らないものばかりで、涙が出そうでした。
これが、お父様とお母様が望んだ新しい「世界」なのかもしれません。
あの静かな暗闇から、この眩しすぎる光に、「世界」は作り変えられてしまったのかもしれません。わたしはそのような想像を働かせていました。
昼も夜も当然のように訪れるもので、それは「世界」が作り変えられたことを示すものなどではなく、これまでもこれからもずっとそうであるのだと、
フレア団という組織は「世界」を作り変えることなどできなかったのだと、その目論見は、たった一人の少女によって阻止されてしまったのだと、
そうしたことにわたしは気が付くことができず、ただ新しい「世界」に、新しいと思い込んでいた「世界」に、怯えていたのでした。
それでもなんとか、彼のいるレストランに駆け込みました。
「世界」が作り変えられてしまっても、レストランが変わらず同じ場所にあることだけが、わたしを安堵させていたのです。彼がいる、彼に会えると、信じ切っていたのです。
けれど受付の男性は、わたしを見るなりとても驚いた表情になりました。そして困ったように笑いながら、静かに、残酷なことを告げたのです。
「アルミナさん、今日は予約をされていませんよね。本日、副料理長であるズミの予定は全て埋まっておりまして、貴方のための時間をお作りすることはできないのです」
わたしは狼狽えました。いつも此処に来るときにはするようにと言われていた「予約」を、していなかったことにその時ようやく気が付いたのです。
どうすればいいか分からず、頭の中が真っ白になりました。
お父様からお借りした電話で予約を入れて、お母様からお借りしたケーシィで此処までテレポートして、お母様が下さったお金で彼に会って……。
そうした、どこまでも両親に依存した方法でしか「世界」に出てきていなかったわたしは、その一つでも欠けてしまうと、最早どうすることもできなかったのです。
「また日を改めてお越しください。よけれは今、予約を入れましょうか?」
けれど、その男性が助け船を出してくださったので、わたしは縋るようにカウンターへと手を置いて、大きく頷きました。
いつがよろしいですか、と尋ねてくださったその男性に、わたしは震える声で告げました。
「一番早く会える日を、お願いします」
「それでしたら、明日の午後5時から7時が空いておりますよ」
わたしは大きく頷いて、困ったように笑う男性に頭を下げて、そして再び店の外へ出たけれど、やはりどうにも天井が高すぎて、青すぎて、眩しすぎて、
歩くことさえままならなくなってきて、やっとのことでケーシィにテレポートをお願いしたのでした。
白い壁と天井に囲まれた空間、わたしにとっての故郷、馴染みのあり過ぎる落ち着いた場所。
そこへ戻って来られたことにわたしはとても安心していたのですが、やはりこの基地は静まり返っていて、蛍光灯が頼りなげにチカチカと瞬くだけでした。
午後6時になっても、わたしの部屋をノックする人は誰もいませんでした。料理を作ってくれる男性も、寝る前に髪をとかしてくださる女性も、此処にはいませんでした。
わたしは今までずっと一人だと思っていたのですが、それは間違いだったのだと、この日ようやく気が付いたのです。
一人、とは本当はこういうことだったのです。あの男性がいないとわたしは料理を食べることができません。あの女性がいないとわたしは上手く髪をとくことができません。
食べるものが何処にあるのかも分からないし、鏡でわたしの後頭部を見ることはとても難しいことでした。
手探りで櫛を頭の上において、女性がいつもしてくださっていたのを思い出しながら、髪をとかそうとしたのですが、どうにも引っかかって、上手くいかないのでした。
毛玉のように絡まってしまった髪を解くことができず、力任せに引っ張れば益々ひどいことになってしまって、痛くて悲しくて情けなくて、わたしは一人、泣きました。
ぽろぽろと涙を零しながら、わたしは自室のピアノを開けました。
白と黒の無機質な鍵盤はわたしの指にそっと吸い付いて、全く離してくれなかったものですから、わたしはそのままずっと、時間を忘れてピアノを弾き続けていました。
壁に掛けられた時計が10を示し、12を示しても、わたしはずっと弾いていました。わたしが10本の指で語り掛ければ、ピアノはちゃんと答えてくれたのでした。
それがどうにも嬉しくて、けれど何時間弾いていてもわたしの部屋をノックする人は誰も現れなくて、わたしはどうしても一人なのだと思い知らされました。
お腹が空いていることにも、眠くなっていることにも気付かずに、わたしは弾き続けていました。いつまでもいつまでもそうしていました。
白と黒の無機質な世界に癒されていた筈なのに、いつの間にかわたしはその鍵盤をはっきりと見ることができなくなっていました。
ぽろぽろと溢れ続ける大粒の涙が、わたしの視界をひどく歪めていたからなのでした。
ああ、わたしは一人では生きていかれないのです。本当にそうだったのです。
このような苦しい思いをしてまで生きたいとは、どうしても思えなかったのです。
ようやく鍵盤から指を離す勇気が持てた頃には、もう時計の針は4を示していました。
あと3時間で本来なら、いつもの男性が朝食を運んできてくださるのですが、もう此処には誰もいません。わたしは生きていかれません。
ふらつく足に、しっかりしてと言い聞かせて、わたしは部屋を出て、何か食べるものはないかと探しました。
ひどくはしたないことだと解っていましたら、そのようなことをしなければならない自分がとても悲しくて、惨めで、どうにも生きていたくなくなってしまって、
けれどそれでも時は流れ続けて、わたしのお腹はみっともない音を立てるのでした。
わたしは美しくもなんともない、ただの生々しい「生き物」に過ぎなかったのだということを、わたしはこの時、ようやく知るに至ったのでした。
お母様のデスクの引き出しを開けると、チョコレートが8粒、出てきました。それはわたしがいつも、彼に持たせてもらっていた手土産でした。
わたしがみっともなく泣き続けるようになってから、お母様はわたしにチョコレートを下さらなくなったので、その分がそのまま残っていたのでしょう。
一日一粒だけ、という約束をわたしはこの日、初めて破りました。金色の包み紙を次から次へと開けて、口へ放り込んだのでした。
どうにもはしたない、卑しいことのように思われて、悲しくて、悔しくて、けれどもチョコレートはとても美味しかったのです。
彼が作ってくれていたものだったのですから、美味しくない筈がなかったのです。
ああ、でもわたしはこんなものを食べる資格のない人間である筈なのに。こんな無力な、美しくないわたしなど、彼の芸術に触れる権利も、彼に会う価値もない筈なのに。
8粒あったチョコレートのうち、4粒をわたしが、残りをケーシィが食べました。
包み紙を開いてチョコレートを差し出せば、ケーシィは眠そうに少しずつ口を動かして、チョコレートを飲み込むのでした。
4粒のチョコレートでお腹を満たしたわたしは、自室に置かれたままの水を少しだけ飲んで、ベッドに倒れ込みました。
わたしは一人でした。わたしは夜通しピアノを弾いていました。わたしはお腹が空いていました。わたしは泣き疲れていました。
そういう訳でシーツに頬を押し付けるや否や、あっという間に眠ってしまって、目が覚めた頃にはもう、時計は午後4時を示していたのでした。
わたしは慌てて飛び起きて、自室にある鏡で自分の顔を見ました。
目に涙の跡が幾つも残っていて、髪も十分にとかされていなくて、……そうしたわたしの姿は、彼に会うにはみすぼらしすぎるように思われました。
顔を洗ってみたのですが、傍に掛けられたタオルが昨日と同じもののままでした。
取り換えてくださる女性がいないのですから当然のことだったのですが、わたしは昨日使ったものと同じタオルを使うことがどうにも躊躇われてしまって、
けれども新しいタオルが何処にあるのかさえも解っていませんでしたから、仕方なく、タオルの端を指で摘まんで、そっと頬の水気を拭き取る他になかったのでした。
白いワンピースは、着たまま眠ってしまったことで所々がしわになっていました。
両手で摘まんでくいと引っ張ってみたのですが、そのしわは取れてはくれませんでした。
アイロン、というものでしわを伸ばすのだということも知らなかったものですから、
わたしはどうすることもできなくて、そのしわの部分に手を当てて、不格好なところを隠すようにしてみました。
そうすれば、幾分かよくなったように思われたのでした。
わたしは再びケーシィの入ったボールを取り出して、もう一度「世界」へ連れて行ってくれるように頼みました。
「世界」は相変わらず明るくて、けれど少し、高い天井がオレンジ色になっているように思われました。青と黄色が混ざったような、複雑で禍々しい色をしていました。
それが「空」であるのだと、これは「夕方」の色であるのだと、そういうことにまだわたしは思い至っていなかったものですから、
ただそれを不気味に思って、このような大きすぎる変化を起こした「世界」は本当に壊れてしまうのではないかと恐れてしまって、
やはり泣き出しそうになりながら、震える足を引きずるようにして店に駆け込んだのです。
「いらっしゃいませ、アルミナ様。ズミはもうすぐ此処に来ると思います。先にメニューをお選びになりますか?」
受付の男性は、そう言って大きな薄い本のようなものを渡してくれました。
受け取るとずっしりと重たくて、手が痛くなってしまいそうだったのですが、わたしは男性に促されるままにそれを開きました。
彼の料理を食べ始めてもう8年が経とうとしていましたが、メニューというものを見させていただいたのはこれが初めてのことでした。
いつも、彼が口頭で料理の説明をしてくださっていたからです。わたしは彼に食べたいものを言うだけでよかったからです。いいえ、言わずとも、彼が選んでくれていたからです。
だからこのようなものを見ること自体、初めてのことで、わたしはすっかり身が竦んでしまいましたが、それでもなんとか視線をそこに落としてみました。
けれど長い沈黙を男性は不思議に思ったらしく、いつもはどのようなものを食べておられるのですか、と尋ねてくださいました。
「コース料理を出してくれていました。サラダにスープ、パスタやキッシュの付いたもので、デザートには小さなケーキとジェラートが付いていて、」
「ああ、でしたらこちらの3コースからお選びください。上から7千円、1万円、1万2千円となっております」
その言葉が信じられなくて、わたしは大きく目を見開きました。
男性が指し示してくださったメニューを見たのですが、「7000」や「10000」という数字が意味するところくらいはわたしにも解ってしまいましたから、
いよいよ狼狽えて、今まで5千円で食べさせてくださっていたものは何だったのかしらと不安になって、ポケットの中に入った五千円札を強く、強く握り締めて、深く俯きました。
わたしは彼に会えないまま死んでしまうのではないかと、そうしたことを考え始めていました。
2017.4.9
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