12:ラムスデンの上でワルツを

母親が船頭に連絡を取ったらしく、彼はすぐに戻ってきた。
「満月島に行くのなら、俺が船を出すしかないなあ」と嬉しそうに告げて、勇んで船の準備をしてくれた。ゲンと少女はすぐに船へと乗り込んだ。
小さなチャンピオンは「私はこっちでダークライを探してみることにするよ」と、子供らしくない穏やかさでそう告げた。
踵を返して軽快に駆けていくその小さな背中を見送ってから、船はゆっくりとミオの船着き場を離れ始めた。
ゆりかごのような心地いい船の揺れに身を任せる。先に口を開いたのは少女の方であった。

「貴方は村に迷い込んだポケモンを落ち着かせて、森に返してあげることがとても得意でしたよね」

「君はポケモンの怯えや人の懐疑を拾い上げて、相手の求めている言葉を選び差し出すことがとても上手だったように記憶しているよ」

「……貴方なら、クレセリアを呼ぶことだってできますよね」

「……君なら、クレセリアの気配を拾うことだってできるのだろう?」

それじゃあ、やっぱり二人で探すしかないですね。
それを口にしたのはどちらだったのだろう。ゲンが口にしたのかもしれない。少女だったのかもしれない。
あるいは双方が同時に発言したのかもしれないし、どちらもそのようなことなど口にしていなかったのかもしれない。構わなかった。
真実が何処に在ったにせよ、二人がそうしていよいよ呼吸を揃え始めていたことに変わりはなかったからだ。少女は勇敢を貫き通していた。ゲンは躊躇を忘れ始めていた。

『……とても心地いい波が聞こえます。此処からずっと北の方角には何かあるんですか?』
2か月前、鋼鉄島の別荘に少女を迎えた日のことをゲンは思い出していた。
あの時の彼女が口にしていた「心地いい波」は、もしかしたらクレセリアが発していた感情、ないし思念の波動であったのかもしれなかった。
どのような姿なのか、どれくらいの大きさなのか、全く分からない。そんなポケモンを見つけ出すことなど普通なら不可能だ。途方もない話だ。
けれど彼女は「あの心地いい思念を放つ生き物がクレセリアである」と確信しているようであった。彼女は迷っていない。故にゲンが躊躇う理由も、ある筈がない。

満月島に辿り着くまでに、随分と時間を要した。ミオからの直線距離はそれ程ない筈であったが、想像していたよりもずっと小さな島であったため、見つけるまでが大変であったのだ。
隅々まで巡ったとして、1時間と掛からないのではないか。そう思える程にその島はささやかな存在感しか放っていない。
本当にクレセリアが此処にいるのだろうかとゲンは不安になりかけたが、彼の懐疑を振り払うように少女は勢いよく島へと足を着けた。
彼女には、クレセリアが此処にいるという確信があるようだった。言葉などなくとも、その表情が何よりも雄弁に語っていた。

「湿地の奥から何か聴こえます、子守歌のような……。ポケモンって歌を歌ったりもするんですね」

新しいことを発見したかのように少女はふわりと微笑むが、その「歌」はおそらく彼女にしか聞こえていない。
ゲンが「そうだね」と相槌を打ったところで、ゲンの耳にその歌が聴こえるようになる訳では決してない。
けれど、それでも彼は同意した。それが自らの真実と合致していないことであったとしても、ゲンは彼女の真実を肯定していたかったのだ。
ゲンにとってこの少女はそうした存在だったのだから、当然のことだった。

ゲンが波動を飛ばしてクレセリアを呼んだ。少女がクレセリアの波動を感じ取り、位置をゲンに伝えた。
まるで見えない相手と隠れ鬼をしている心地であった。波動の存在を信じている者しか遊ぶ権利を有さないその神秘的な隠れ鬼も、しかし終わりに近付こうとしていた。
波動の形ではなく、明らかに鼓膜の方を震わせる「声」が、湿地の奥から聞こえてきたからである。

ゲンが息を飲んだ。少女もおそらく息を飲んでいた。

月の色をした美しい生き物が、まるで「母」のような眼差しで二人を真っ直ぐに見据えている。
その身体は月のようにふわふわと浮かんでいる。澄み切った水溜まりは三日月の形を作っている。
どうしてこの生き物を「クレセリア」ではないとすることができただろう?このポケモンだ、とゲンは確信した。強烈な安堵の嵐がゲンの脳内に吹き付けた。
アイラ、と彼女の名前を呼ぼうとして、その美しいポケモンから視線を少女へと移して、

「……」

三日月型の水溜まりに膝を折った少女が、その華奢な肩を震わせて泣き始めていたことに、ようやく気付いた。

「よかった、本当によかった」

「……アイラ、」

「クレセリア、貴方に会いたかったんです。貴方の縄張りを荒らしてごめんなさい。でも私、どうしても貴方に会いたくて、貴方を見つけたくて……。
貴方を見つけられなかったら、あの子を助けてあげられなかったら、この力を使いこなせなかったら、私、本当にもう、」

もう、怪物になってしまうしかないのかと、思って。

『貴方が、あの村で育った貴方自身のことをよく思っていないことは、恥じるべき存在だと考えているということは、分かります。恐れていることも、分かります。』
『でも、私は怖くありません。私は波動の力を使うことを躊躇いません。私は、酷い人であることを隠しません。』
『……私達の牙は、誰かを傷付けたり貶めたりするものじゃなくて、誰かを助けるものとしても使える筈です。私達は、怪物に甘んじなくてもいい筈です。私は、挑んでみたい!』
『私はあの村に生まれてよかったと思っています。80℃でよかったんです。貴方にも、80℃でよかったって思わせてみせます!』

この少女は勇敢であった。この少女は聡明であった。
臆病などとは無縁であるように振る舞いながら、毅然とした足取りでゲンの半歩前を歩いていた。握られずとも、彼女の背中は確かにゲンを呼んでいた。
私に付いてきてください、私を見てくださいと、その少女らしい背中が叫んでいた。彼女は、笑っていた。

愚かなことに、ゲンはそれが彼女の全てであると信じて疑わなかったのだ。
自分が「普通ではない」こと。自分が「普通ではない場所に生まれてしまった」こと。それ故に「怪物に成り下がるしかない」のだということ。
その残酷な事実に、15歳の少女の心が揺れない筈がなかったのだ。彼女だってきっと、泣きたかった。恐れたかった。そうしなかったのは他でもない、ゲンがいたからである。
彼女はずっと不安であった。けれどその不安に嘘を吐いていたのだ。

波動を恐れていたのも、力を使うことを躊躇いたかったのも、酷い人であることを隠したかったのも、怪物に甘んじるしかないと考えていたのも、80℃を悉く悲しんでいたのも、
全て、全て、彼女の方だったのだ。

「……クレセリア。私達は悪夢に苦しんでいる男の子を助けたい。そのために君の力が必要だ。私達を、信じてくれないだろうか?」

喉元を言葉ではなく嗚咽で塞いでしまった少女の代わりに、ゲンは慎重に言葉を紡いだ。
これ以上、彼女に虚勢を張らせまいと、今度は彼の方が勇気を振り絞る番であったのだ。
……もっとも、この「数年間、誰も姿を見たことがない」という存在が二人の前に現れてくれた段階で、クレセリアは二人を「危険な人物」としては見ていないのだろう。
二人がこのポケモンに会えた段階で、あの男の子が悪夢から覚めることは約束されているようなものだった。
それでもゲンは驕らなかった。安堵は彼を傲慢になどしなかった。

クレセリアは美しい声で一鳴きすると、流れ星のような光をゲンの手元に落とした。
細長く平たく、あまりにも軽いそれが「三日月の羽」であることに、ゲンは暫く気付くことができずにいた。
三日月、とするにはあまりにも眩しかった。羽、であることさえ感じられない程にその質量はないに等しかった。
悪夢を見ていないゲンがそれを両手でそっと包み込むだけで、彼の心は嘘のように凪いでいった。先程までの緊張、衝撃、そうした何もかもを忘れさせる穏やかな心地であった。
でも、ああ、違う。これは彼女が持つべきなのではなかったか。この羽の恩恵を受けるべきは、ゲンではなくこの少女の方なのではなかったか。

「……ありがとう、クレセリア。貴方の厚意を無駄にはしないよ」

すると少女がはっと顔を上げた。クレセリアもゲンの方ではなく少女を見ており、その二者の間には少女にしか見ることの叶わない「何か」が映っていたに違いなかった。

「私達のことを、呆れているんですか?……え、そうじゃなくて?」
「……もしかして、貴方はダークライのことを知っているんですか?」
「……ふふ、なあんだ。今回に限ったことじゃなかったんですね。いつも、貴方とダークライはそうやって生きてきたんですね」
「貴方と同じように、ダークライのことを探している女の子がいるんです。その子を連れて、また、此処に来てもいいですか?」

いつの間にか彼女の涙は止み、代わりにクスクスと愉快な笑い声さえその細い喉から零れていた。
ポケモンは人の言語を理解できる。少女はクレセリアの感情を読み取ることができる。故に二者は確かに会話をしており、そこに人とポケモンの境などありはしなかった。
それはこの、波動の概念のない外の世界では悉く「異常」なことであった筈なのに、
少女とクレセリアの姿を見ていると、まるでこちらが「普通」のことであるようにさえ思えてきてしまうから、不思議だ。

一陣の風が恣意的に満月島の木々を揺らし、枯れ葉の嵐が小さく巻き起こる。
ゲンと少女はおそらく同時に目を閉じた。そして再び目蓋を上げれば、クレセリアの姿は見えなくなっていた。
少女は目を閉じてクレセリアの気配を追っていたようだが、暫くしてふっと肩の力を抜き、「行ってしまいましたね」と少しだけ寂しそうに笑った。

「ダークライが悪さをする度に、クレセリアは呆れながらも悪夢に苦しむ人やポケモンのことを助けてきたそうです。いつものことだから気にしていない、という風でしたよ。
ダークライもそうしなければ生きていかれない。でも人やポケモンがそのために苦しむのは本意ではない。そのために自分がいるのだと、そうした気概に溢れていました」

「……ちなみにそのクレセリアの波動は、何色だったんだい?」

「え?……ふふ、何色だったと思いますか?」

少女はくるりと踵を返して三日月型の水溜まりに背を向ける。
ゲンを真っ直ぐに見上げて微笑みながら手を差し出す、それは紛うことなき人の形をしていた。怪物ではなかった。よしんば怪物であったとしても、彼女でなければいけなかった。
だからゲンはその手を強く握った。どういう訳だか泣きそうになったので、ぐいと歩幅を大きくして少女の手を引く形を取った。
少女は笑いながら、そうしたゲンのささやかな人間らしさを祝福した。


2017.3.11

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