11:勇者の立てる波紋

「二人はそんな力を持っているんだね。いいなあ、私も欲しいなあ」

小さなチャンピオンと男の子の母親は、あまりにもあっさりと「波動」の話を信じた。
存在を知らない、見たことも聞いたこともないその力を、いきなり話題に出されたところで受け入れることはひどく難しいだろうと、ゲンも少女も考えていた。
半信半疑になることはもっともであったし、「ふざけたことを言わないで」と憤られてしまうことまである程度想定していたのだ。
けれど女の子と母親は、そうした二人の危惧をあまりにもいい形で裏切った。

「だってポケモンも「ひのこ」や「かぜおこし」を使うもの。そういうことをできる人がいても、それはおかしいことじゃないと思うけれど……違うのかなあ?」

『昔は人もポケモンも同じだったから普通のことだった。』
ゲンはミオの図書館にある本の一節を思い出していた。
人もポケモンも同じような存在だった。そのように昔は捉えられていた。女の子の理解はあの教えを根本にしているのかもしれなかった。

……それとも、子供というのはとても柔軟な生き物だから、常識では在り得ないことでも「そういうものだ」と受け入れる力に長けているのかもしれない。
とりわけこの子はシンオウリーグのチャンピオンだ。これまでもシンオウの各地を巡って来たのだろう。
異なる文化、異なる人、異なるポケモンとの出会い、またそれらを受け入れる力に富んでいたとして、何の不自然もないことだったのだ。
二人が初めてその秘密を開示する相手が、偶然にもこの女の子であったことにゲンは心から感謝していた。よかった、と本当にそう思えたのだ。

「話しづらいことを打ち明けてくださり、本当にありがとうございます」と、男の子の母親は深々と頭を下げた。
けれどそのすぐ後でクスクスとその女性らしい肩を震わせながら、「でも」と付け足し少女らしい笑みを浮かべてみせた。

「実は私も、あまり驚いていないんです。お二人には普段から、何か特別なものを感じていましたから」

ゲンが頑なに隠そうとしていた筈の「異質」を、この女性は鋭く感じ取っていた。
その事実はゲンをかなり驚かせたが、少女の方は「そうですよね」と困ったように笑うだけで、特にショックを受けている様子はなかった。
それはひとえに、少女がゲンよりもずっと年下であることに起因しているのだろう。

幼いチャンピオンの女の子はこの上なく柔軟であった。少女もまたゲンよりは随分と若く幼く、それ故に彼よりもずっと「受け入れる力」に長けているように思われた。
彼女は、村の中と外が違い過ぎていることを、中の人間と外の人間とを同じに見ることなどできないのだということを、とうの昔に、受け入れてしまっていたのかもしれない。
ゲンが「溶け込めた振り」をし続けていた間に、少女は「溶け込めない」ということを受け入れる準備を、もうすっかり整えてしまっていたのかもしれなかった。
認めること、諦めることもまた勇気なのだと、ゲンはまた一つ、この世界の重要な理を知った。

アイラ、今も男の子にその影は見えるのかい?」

「はい、見えます。……ただ、男の子は苦しそうな波動を出しているけれど、それがこの部屋に満ちていないんです。まるで彼の波動が何処か別のところに吸い込まれているみたいに、」

その瞬間、あっと声を上げたのはチャンピオンの女の子だった。
どうしたんだい、とゲンが問う前に、彼女はピンク色の鞄の中に手を差し入れ、赤い電子機器を引っ張り出してきた。

「ねえアイラさん、その影ってこの子に似ていたりしないかなあ?」

女の子は慣れた手つきでその電子機器を操作し、明るくなった液晶画面を二人の方へと差し出した。
少女は驚いたように目を見開き、何度も頷く。ゲンは彼女の肯定に驚きつつ、その液晶画面に映る黒いポケモンに目を凝らしてみる。
「ダークライ」という名前を見たのは、ゲンも少女もこれが初めてであった。
村で毎日のように見ていたあのポケモン図鑑には、ギラティナもダークライも描かれていなかったのだ。おそらく、あの紙の図鑑は随分と古いものだったのだろう。

チャンピオンの女の子は、その画面に映るダークライの姿に指でそっと触れながら、ひどく懐かしそうにその目を細めて微笑み、とんでもないことを口にした。

「半年くらい前まで私のところにいたの。私のポケモンだったんだよ」

「え……?」

「私が元気じゃなかったとき、ずっと、私に素敵な夢を見せてくれていたの。私の大好きな人が一緒にいる夢。嬉しくて、私、眠ってばかりいたんだよ。
……でも、いなくなっちゃった。私が元気になったから、夢じゃなくても大好きな人に会えるようになったから、私に夢を見せることに飽きちゃったのかもしれない」

この無邪気で快活な女の子に「元気じゃなかったとき」があったとはにわかには信じ難かったのだが、彼女が嘘を言っているようにはとても思えなかった。
改めて女の子のポケモン図鑑に視線を落とせば、「周りの人やポケモンに悪夢を見せる」「新月の夜に活動する」といったことが書かれていた。
女の子とダークライはずっと一緒にいた。ダークライというポケモンは彼女に悪夢を見せていた。にもかかわらず、女の子は「嬉しくて」ずっと眠ることを選んでいた。

「ダークライは、人と一緒にいちゃいけないんだって。ダークライは悪夢を見せるから。その悪夢を食べてダークライは生きているから。一緒にいても、悲しくなるだけだから」

悪夢に苦しむ人やポケモンの想いがダークライのエネルギーになる。ダークライというポケモンは、他者に悪夢を見せなければ生きていかれない種族である。
ゲンはその影のポケモンに妙な親近感を抱き始めていた。ああ、お前も怪物なのかと、何故か笑いたくなってしまったのだ。

「……でも、私は一緒にいられたんだよ。起きていても悲しいだけだったから、眠っているときの方がずっと、ずっと楽しかった。嬉しかったの。
私は一度も、ダークライに悪夢を見せられたことなんかなかったよ」

ダークライの見せる悪夢は、女の子にとっては悪夢などではなかった。
ダークライが見せる悪夢はこの女の子において幸福の様相を呈しており、その夢を食べてダークライもまた、己の命を繋ぐことができていた。
女の子とダークライの利害関係は完全に一致していた。それを彼女は喜んでいたし、おそらくダークライも喜んでいたことだろう。
何せ、初めて「悪夢に苦しまない生き物」と出会うことができたのだから。

そこまで考えてゲンはいよいよ笑った。おそらく少女もまた同じことを考えたのだろう、一拍遅れて彼女もクスクスと笑い始めた。
どうしたの、と不思議そうに首を傾げる女の子の頭を、そのニット帽の上からそっと撫でて少女は笑った。

「ダークライは貴方のことが大好きだったのね」

「……どうして、そう思うの?」

「貴方のことが嫌いなら、ダークライは貴方にそのまま悪夢を見せ続けていたと思うわ。
貴方が元気になったから、「悲しくなくなった」貴方を自らの悪夢でまた悲しませたくなかったから、ダークライはいなくなったんじゃないかしら」

その「ダークライ」という悲しいポケモンは、自分が生きることよりも、自分の悪夢に喜んでいたこの少女が心から笑えるようになることを願ったのだ。
だから彼女のモンスターボールから出て行った。そうしてエネルギーを得るために、飢餓を逃れるために、シンオウ地方の各地であらゆる人やポケモンに悪夢を見せ続けているのだ。
今回、この男の子が選ばれてしまったのは全くの偶然だろう。全てはダークライが生きるためだった。そのような業を背負ったポケモンであった。故に、どうしようもなかったのだ。

「……ではそのダークライを見つけて、彼に説得を試みれば、男の子は目を覚ますのかい?」

「ううん、ダークライはわざと悪夢を見せている訳じゃないみたい。ダークライ自身もコントロールできない力らしいの。
だからダークライには「悪夢から目覚めさせる力」はないんだよ。でも、クレセリアならできるかもしれない」

そうして女の子はまた、聞いたことのない生き物の名前を出した。少女とゲンは同時に顔を見合わせ、首を捻る。
クレセリアもまた、あの紙媒体のポケモン図鑑では見つけることのできなかったポケモンであった。おそらく、とても珍しいポケモンなのだろう。
けれどその「クレセリア」の存在を知っていたのは、ポケモンに明るいこの女の子だけではなかった。
「クレセリアの話なら、ミオシティでは有名ですよ」と、男の子の母親が口を開いたのだ。

「病や悪夢に苦しむ子供の手に三日月の羽を握らせると、たちまち顔色が良くなり、ぐっすり眠れるようになった……という言い伝えが、この町には昔からあったんです。
その「三日月の羽」こそ、クレセリアから授かることのできる特別なものです」

「そのクレセリアというポケモンは、このシンオウ地方にいるのかい?」

「はい。クレセリアは鋼鉄島から更に北にある、満月島を住処にしていると言われています。
けれどここ数年、誰もその姿を見たことがないんですよ。もしかしたらもう既に、いなくなっているのかも、」

いよいよ困り果てたようにそう告げる母親の懸念を吹き飛ばさんとするかのように、少女の「大丈夫です!」が大音量で紡がれた。
驚きに目を見開く母親に、少女は毅然とした声音であまりにも堂々と言い放つ。その姿にゲンはくらくらと眩暈を覚える。

「クレセリアはいます。姿が見えなくても、探すことはできます。会いに行きます」

ああ、この姿こそ「波動使い」なのではなかったか。
怪物は、あの村は、私は、本当は「こう」在らなければならないのではなかったか。

「ゲンさん、私と一緒に来てくれますか?私だけではクレセリアに会えないと思うから」

彼に、頷く以外の選択肢が残されている筈もなかった。
大きく頷けば、少女のみならず、チャンピオンや母親も安堵したように微笑んだ。ベッドの上で苦しそうに呻いている男の子の表情さえ、和らいだように思われたのだ。


2017.3.10

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