10:D.S.「ナイフ」

海の音がちゃぷちゃぷと船着き場を濡らしていた。
彼女は目を閉じて耳を澄ませていた。ただそれだけの動作がやはり「波動」を連想させ、ゲンはいよいよ居た堪れなくなって目を逸らした。
けれど彼女は握った手の力を強くして、「逸らさないで」と乞うように彼を見上げる。黒曜石の瞳はどこまでも明るく、瞬いていた。
眩しい黒、というものは確かに存在しているのだと、ゲンは彼女の目を見て初めて、知った。

「あの村にいた頃は、貴方の方がずっと勇敢で偉大だったのに、外に出ると私の方が躊躇なくこの力を使ってしまうことになるなんて、なんだか少し、おかしいですね」

陽気な声でそう語るこの少女は、自分がどれだけ致命的なことをしてしまったのか解っていない。
おそらくゲンが説いたところでこの優しく残酷な少女はそうしたことを理解しようとすらしないだろう。
それでも、止まらなかった。ゲンは彼女を責める言葉を、最愛の女性を咎める言葉を紡いだ。

アイラ、頼むから軽率なことをしないでくれ。私達はもう普通の人間なんだ。波動の力なんてあってはいけないんだよ」

「……ゲンさん、貴方は何を恐れているんですか?この世界の人達はとても優しいですよ。
私達が不思議な力を持っていることを打ち合けたとして、少なくともミオにいる皆さんやあの女の子は、私達を排斥したり、気味悪がったりしませんよ」

そんなこと、貴方だってよく解っているでしょう?言外にそう集約して彼女は真っ直ぐにゲンを見上げる。
その通りだ、外の世界の住人は、きっとゲンや少女の力を知ったところで彼等を排斥したりなどしないだろう。
けれど、違う。外の世界を恐れている訳ではないのだ。彼が恐れているのは常にあの村のことであり、その村で生まれ育った自身のことであった。

「そうだね、そうなのだろう。正しいことを言っているのは、君なのだろう。でも私が耐えられないんだ。私はもう、あの村を思い出させる一切のものが恐ろしいんだ。
人はああまで残酷に、利己的になれるのだと、私もそうした人間の一人なのだと、思い出すことがどうにも苦しい。辛いんだ」

ゲンとて、あの村の人間だ。一人前と認められ、飲酒を許されてしまった人間だ。あの村が何のためにあるのかを知ってしまった人間だ。怪物になることを強要された人間だ。
この黒曜石の色をした髪が、あまりにも雄弁にその事実を示している。ゲンは人間であって人間ではない。
ゲンはあの村の血を確かに宿した人間であった。人間ではなく怪物になるために育てられた人間であった。ゲンにはそれがどうしても耐えられなかった。


「私達には怪物の血が流れているんだよ。怪物という秘密は、隠されなければいけないんだ」


ずっと、否定していたかった事実を口にするゲンの手は、震えていた。少女は驚きに息を飲み、そして思わず手を伸べた。
ゲンの手よりもずっと小さくずっと温かいその手は、彼の目元にぴたりと触れた。どうしたんだい、と尋ねれば、少女は困ったように笑ってみせた。

「此処から水が溢れてしまいそうだったから、零れる前に私が拭わなくちゃ、と思って」

「……私は、君の前で泣いたことなどただの一度もなかった筈だよ」

そう、この少女の前で涙を見せたことなど、ただの一度もなかった筈だ。一度も泣かなかった、とは言えないが、少なくとも彼女の前ではそうした姿を見せないようにしていた。
けれど彼女はふわりと笑みを作って「でも、泣いていたでしょう?」などとゲンの心を容易く読んでみせる。
彼女はいつだって健気で、懸命で、美しかった。波動の力などなくとも、彼女は十分に素敵な少女であった。

「貴方の言う「酷い人」がそんなにも重い意味を持っていたなんて、知りませんでした。貴方は昔から、大事なことを難しい比喩に溶かして誤魔化すのがとても得意でしたね」

「……」

「私は貴方のように頭が良い訳ではないから、貴方の苦しみを完全に理解することができないけれど、
それでも貴方が、あの村で育った貴方自身のことをよく思っていないことは、恥じるべき存在だと考えているということは、分かります。恐れていることも、分かります」

分かります、と紡ぎながら、その後ろに「でも」という逆説が控えていることだって、ゲンにはとてもよく解っている。
だから今の彼にはこの少女さえ恐ろしい。この、自分と同じ色の髪をした少女から、どのような怪物めいた言葉が飛び出すのかと、考えただけで眩暈がする。
息苦しい、と思った。やめてくれ、と思った。そうして彼の予感というものはやはり、悉く当たってしまうのだった。

「でも、私は怖くありません。私は波動の力を使うことを躊躇いません。私は、酷い人であることを隠しません。
だって、男の子が苦しんでいるんです。私なら、その原因が分かるかもしれないんです。それに今、貴方の思いを聞いてしまったから、尚更、引く訳にはいきません」

「……私は君に、今回のことに関わるのをやめてほしいと思っているんだよ」

そうですよね、解っています。歌うようにそう告げる彼女には余裕がある。ゲンはとてもではないが、彼女のように微笑むことなどできない。
海がちゃぷ、とゲンの代わりに相槌を打つ。ひらひらとカーテンのようにはためく波は、しかし馴染みのある深い青を呈してはいなかった。
成る程、春の海は緑なのかと、ゲンはこの世界の不思議な理をまた一つ、知る。

「私達はナイフを持っているのかもしれない。でもそれをどう使うかは私達の自由です。私達はナイフで人を斬ることもできるけれど、林檎を剥いて誰かにあげることもできます。
……私達の牙は、誰かを傷付けたり貶めたりするものじゃなくて、誰かを助けるものとしても使える筈です。私達は、怪物に甘んじなくてもいい筈です。私は、挑んでみたい!」

……彼女は「落ちこぼれ」だった。あの波動の村において「武器」となる波動を持たない者の地位はとても低かったのだ。
彼女が村で受けた処遇は、ゲンのそれよりもずっと酷なものであった。あの村に敷かれた下らない価値基準のせいで、彼女が被ることになった害は計り知れなかった。
そうした彼女だからこそ、ゲンよりもずっと強く、深く、あの村を恨んで然るべきだと考えていた。
事実、彼女は一度、パンケーキを食べながら、村への恨みを、村に生まれたことへの絶望を吐き出すように、泣いたことさえあったのだ。

「もし貴方が酷い人だったとしても、怪物だったとしても、その力のせいでまた寂しくなってしまったとしても、私がいます。
私も、酷い人なんです。怪物なんです。だから貴方を独りになんてさせてあげません。悲しくても、独りでさえなければ生きていけるんです」

だから、優秀とされていたゲンよりも、落ちこぼれとされていたこの少女の方がずっと、波動を使いたくなかった筈で、波動のことなど忘れたくて仕方なかった筈で、
語ることも嫌だ、一刻も早く忘れたい、という、そうした拒絶を呈して然るべきであって。
……それなのに、彼女はゲンのように波動を拒まない。あんなもの、となかったことにしようとしない。波動を使うことを躊躇わない。波動を語ることを、やめない。

「私はあの村に生まれてよかったと思っています。80℃でよかったんです。貴方にも、80℃でよかったって思わせてみせます!」

「……君は、」

アイラ、君の方がずっと、ずっと苦しかったのではないのかい?
それなのに、どうしてそんなことが言えるんだ。どうしてそんなにも真っ直ぐに村を、波動を、私達のことを語れるんだ。どうしてまだ、この呪われた力を信じられるんだ。
君にも私と同じ、怪物の血が流れている筈なのに、どうしてそんなにも。

「君はいつからこんなに綺麗になったんだい?まるで人間みたいだ」

彼女は楽しそうに声を上げて笑う。
ほら、今だってゲンの方は平静を保つことが難しくなる程にいよいよ感極まり始めているというのに、彼女は至って、悉くいつも通りなのだ。
まるで明日の夕食の献立を考えているような瞳なのだ。これからもずっと「明日」があるのだと、本当は何処にもそんな保障などないのに悉く確信しているような声音なのだ。

「私が綺麗かどうかを、私は判断することができないけれど、もしそう見えているのだとしたら、きっと貴方のせいですよ。貴方のことばかり考えていたから、こうなったんです」

「……」

「自由になった筈なのに、不自由そうな貴方をずっと見てきたから、苦しそうな貴方の傍にずっといたから、心から笑ってほしいと思ってしまったから、
この波動の力に希望を見てほしくて、素敵な力だと言ってほしくて、また、あの頃のように私を呼んでほしくて、……それで、随分と生意気になってしまったのだと思います」

この少女を「妹」とするには、ゲンはあまりにも成長しすぎていた。かといって「娘」とするには、ゲンはやはりあまりにも若すぎた。
けれどどちらにせよ、どちらでもなかったにせよ、この少女はゲンよりも一回り以上幼いのだ。
彼よりも小さな力しか持たず、それ故に彼よりもずっとあの村で苦しんできた筈の、人間なのだ。

「貴方に会うために、随分走り回りました。貴方の声を聞くために、いつも耳の代わりに心を済ませていました。貴方の笑顔を見るために、私は今からもう一度、波動を使います。
私をこうしたのは貴方です。綺麗なのは私じゃない、貴方です」

そんな彼女が、おそらくはゲンよりもずっと恨んで然るべきであった筈の村を、そして「波動」を、もう一度手に取ろうとしている。
他の誰でもない、ゲンのためにその小さな力を、あの村ではちっとも役に立たないとされていた筈の力を奮おうとしている。
怪物の力をもって、二人の足元に伸びる怪物の影を、人のそれに変えようとしている。

「君のしたいようにするといい。私は何があっても君の味方だ」

それなのにどうして、彼がこれ以上目を逸らし続けることができただろう?
できる筈がなかった。この健気で懸命な少女を独りにしておける筈がなかったのだ。


2017.3.7

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