9:熱に溶ける爪

凍り付いてしまった少女の代わりに、ゲンはその扉を押し開いた。

「……」

現れたポケモンは、全長にして5m程であったのだろう。
洞窟で見かけるイワークの方が余程大きいように思われた。そして事実「5m」という数字よりも、そのポケモンはずっと小さく見えた。
おそらく、その体躯が夜の色をしているからだ。日の照りつける真昼の頃には、このポケモンは全く似合わなかった。その夜色は太陽の迫力に押されている。負けている。

今が夜であったなら、その身体の夜は黒い空に溶け、もっとずっと大きく見えたのだろう。
それこそ「怪物」と表現するに相応しい、禍々しさと恐ろしさをその身に宿すに至っていたのだろう。
けれど、今は昼だった。故に彼は小さかった。このギラティナは、ポケモンでしかなかった。それだけのことだったのだ。

「どうしたの?」

二人の驚愕の意味するところに辿り着けずにいるチャンピオンは、こてんと首を傾げてその理由を問う。その小さな手には、見たこともない紫色のボールが握り締められている。
早く立ち直ったのは、意外にもゲンではなく少女の方であった。「このポケモンの名前が、ギラティナなの?」と、縋るような、祈るような声音で女の子に尋ねたのだ。

「そうだよ、自慢のポケモンなんだ。不思議な世界で出会って、それからずっと一緒にいるの。海を泳ぐことも、空を飛ぶこともできるんだよ。バトルだってとっても強いんだから!」

「……このギラティナは、お酒を飲む?」

「お酒?飲まないよ。この子はミックスオレが好きなの。そうだよね、ギラティナ!」

大きく咆哮して同意の意を示したギラティナを、少女は呆気に取られた様子でただ、見つめていた。
小さなチャンピオンは慣れた様子で、ひょいとその夜色の背中へと飛び乗る。「怖くないよ」と笑いながら伸べられた手を、恐る恐る少女は握る。
彼女が無事、その背中に乗ったのを見届けてから、ゲンは「失礼するよ」とギラティナに一声かけて背中に乗った。

そのポケモンの温度は人肌よりもずっと冷たく、それこそまるで夜のようだと思ってしまった。少し、他のポケモンとは何かが根本的に違っている気がした。
けれど当然のことながら、その背中はただ、三人分の体重を受け止めて悠然とそこに佇んでいるばかりで、
村からの脱走者であるゲンと少女に牙を剥けることも、二人を傷付けることも、まるでしなかったのだ。

「お姉さん、ギラティナのこと、嫌い?」

「ううん、そんなことないわ。優しくて強くて、素敵なポケモンなのね」

そうですよね、と同意を求めて少女は振り向く。ゲンは大きな頷きと共に「ああ、そうだね」と求められた通りの言葉を紡ぐ。
女の子は安心したように微笑んで、ギラティナに指示を出した。
大きな夜色の体躯はゆっくりと、重力を忘れたように浮かび上がり、強い潮風の一切を拒むように悠々と空を泳ぎ始めた。
まるで風の方がギラティナを避けているかのような動きであった。羽を必死に羽ばたかせずとも、軽く一度動かすだけでその身体はあっという間に鋼鉄島から遠ざかっていった。

「……私も、ギラティナのこと好きよ」

そう呟いた彼女の言葉の本当の意味を、おそらくはゲンだけが知っていた。

「ギラティナ」とはあの村の人間にとって、自らをあの狭い場所へと閉じ込める「檻」であり、その檻から脱走しようとするものに容赦なく牙を剥く「怪物」であり、
……故にゲンも少女も、長く、本当に長くあの村から飛び出すことを恐れ、あまりにも長い時間を無駄にしていた筈であった。
だからもし、外の世界で「ギラティナ」という名前のものに遭遇することがあるとすれば、
それを見上げる二人の視線というのは、憎悪と殺意にどす黒く染まっていてもおかしくない筈であった。
それ程にゲンはあの村を憎んでいた。それ程に少女は、あの村と外の世界との乖離に苦しんでいた。

その「ギラティナ」が目の前にいる。にもかかわらず、少女はとても穏やかに、嬉しそうに微笑んでいる。
彼女はもう、あの村のことを許しているのだろうか?だからこんなにも美しく笑うことができているのだろうか?
ゲンにはまだできない。ゲンはまだ、同じ名前のこのポケモンを快く思うことができない。
このギラティナに罪など全くないのだと、解っていながらどうにも、彼女のように笑うことができない。

『ゲンさんは物知りだから』
小さなチャンピオンは、ゲンを「物知り」と称した。もっとも、そうした見方は彼女に限ったことではない。
ゲンを知るミオシティの住民の多くが、鋼鉄島という辺鄙な場所に住む彼のことを「博識」「物知り」という風に見ていたのだ。
確かに彼は物知りであった。自由に学べることがいかに尊いことであるのかを知っていたから、知識の収集や思考の展開に関して、彼は怠惰の姿勢を頑として見せなかったのだ。
大きな図書館のあるミオシティという場所を、彼は誰よりも上手く活用していた。その結果、住人からそのような評価を得るに至っていた。

けれどいざ、その男の子の元へと駆け付けたとき、誰よりも先にその病を見抜いたのは彼ではなく、そんな彼に付いてきた少女の方であった。
「あ!」と思わず声を上げた彼女が、次に何を言おうとしているのかを察したゲンは、慌てたように「アイラ、やめなさい」と彼女の言葉を禁じようとした。
けれどそれより先に、小さなチャンピオンが「どうしたの?」と少女の方へと振り返るものだから、ゲンは制止のタイミングを失って息を止め、そして吸った。
それが、きっとよくなかったのだ。自らの肺に酸素を取り込むことよりも、少女の言葉を禁じることの方にもっと心を砕いていれば、きっとこのようなことにはならなかっただろう。

「この子、悪い夢に苦しんでいます。それに男の子の苦痛とはまた別の、ポケモンの悪意のようなものも見えます。もしかしたら、ポケモンが悪さをしているのかもしれません」

ゲンの目の前で、彼女はあまりにも堂々とした声音でその「力」を開示した。

彼がこの1年間、誰にも告げることなく隠し続けてきた力だった。優秀だともてはやされていたあの頃を、寧ろ恥じるように彼は生きていた。
彼の「外の世界の人間」というかたちは、実はそうした彼の緊迫したギリギリの努力でなんとか成り立っているものであったのだ。
けれどそれを彼女は理解していない。その「かたち」が壊れることを全く恐れていない。
だからこそ彼女はそのような力を開示し、ゲンがこの1年間、積み上げてきたものをあまりにも呆気なく崩すに至ったのだ。

「お姉さん、そういうことが解る人なの?」

「そんな筈がないだろう!」

ゲンにはそれがどうしても耐えられなかった。

女の子はびくりと肩を跳ねさせ、少女は愕然とした表情でゲンを見上げた。
自らの口がどれ程酷い言葉を紡ごうとしているのかをゲンはとてもよく解っていた。解っていながら止まらなかった。
そういう意味では、あの村人達とゲンは同じであった。ゲンにもまた、あの村人達と同じ血が、波動という濁った血が流れていたのだ。

アイラは普通の人間だ。そんなものが見えるなんて、きっと気のせいだ。彼女は疲れているんだよ」

声高に「私達は普通だ」「私達は化け物ではない」と繰り返す度に、誰かの言葉を更なる言葉で封じ込める度に、ゲンは自分が普通でなくなっていくような気がしていた。
否定すればする程に、自分が「そう」なっていくように思われたのだ。
けれど否定しなければ、逃げなければ、ゲンも少女もそうした「異常」のレッテルを押されてしまう身だ。どのみち、二人は普通の人間になどなれなかったのだ。
それならば、せめてそう見せようと懸命に務めたとして、二人の幸いのために心を砕いて隠し通そうとしたとして、……それはしかし、当然のことなのではないか?

何故この少女は、自ら化け物になりたがるのか?

「でもゲンさん、私は本当に、」

「私は知らない。私はこの女性の力のことも、その男の子の病気のことも、何も知らない、解らない。……さあ小さなチャンピオン、これで満足かい?」

あまりにも冷たい声音であることは理解していた。けれど止まりようがなかったのだ。
彼の口から零れ出た言葉こそ、いよいよ違う生き物に成り代わり始めていたのだ。
バリトン寄りのテノールはふわふわと遺伝子の螺旋を漂わせ、何か違う生き物の気配をその言葉に、彼に、宿し始めていたのだ。
彼の心を裏切り暴走する言葉は、彼自身にも止めることなどできそうになかった。

「……アイラ、手を離しなさい」

けれどその、彼自身にも止めようのないその残酷な言葉を、彼が人でいられるうちに施せる最大の拒絶を、この少女はその伸ばした手により容易く無下にする。
ああ、人の気も知らないで、君は悉く残酷だ。どうしようもない。君は愚かだ、君は軽率だ、君は馬鹿だ、君は……優しすぎる。

「嫌です。だって手を離したら、この臆病な人は私を置いて行ってしまうんでしょう?」

「臆病とは心外だね。私はただ、君よりもずっと慎重なだけだ」

「……ふふ、そうかもしれませんね。それじゃあ慎重なゲンさん、私の言葉を聞いてください。貴方よりもずっと軽率で無謀な私の、ささやかな勇気の話を聞いてください」

『だから波動のことはもう、忘れよう。』
この少女は、忘れてなどいなかったのだ。その事実に手酷い裏切りを見たゲンはただ沈黙して、目を伏せた。
けれどそれが裏切りであったとしても、ゲンは彼女の話を聞かなければいけなかったのだ。
彼の世界は真に彼とこの少女を中心に回っており、その世界を壊せばいよいよ彼は独りになってしまう他になかったからだ。

「私は、私が間違っているとは思いません。いいえ、間違っていたとしても構わない、助けたい」

君が私を裏切ろうとも、私は君から離れることができない。

アイラ、君は私の臆病を、依存を、弱さを、叱るだろうか?


2017.3.6

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