「おかえり」
カノコタウンの自宅に戻った私を、キッチンに立っていたトウヤは笑顔で出迎えてくれた。
「どうだった?楽しかったかい?」
「まさか!町の人は私のことを「イッシュを救った英雄」だなんて、大層な装飾を付けて見ているし、知り合いのジムリーダーは私に英雄であることを強制するし……。
おまけに、一番会いたくなかったチャンピオンとも顔を合わせたのよ?散々な旅だったわ」
私はそんな愚痴を吐きながら、家のソファに勢いよく飛び込んだ。柔らかいソファが私の体重を受けてぐにゃりと沈んでいく。懐かしい感覚に思わずクスクスと笑う。
アイスコーヒー、飲む?角砂糖は2つ入れてね。太るぞ?あんたと違って動き回っているから問題ないわ。
そんないつもの遣り取りを交わしながら、その「いつも」さえ懐かしく思われて、また笑う。
「そうか、二度目の旅も散々だったか。でもまあそりゃあそうだろうな、やっぱり俺と居る方が楽しいもんな」
「相変わらずの自信ね。でも残念でした。私はこれからシンオウ地方へ行くのよ」
「へえ、気を付けて……って、え、シンオウ!?」
その衝撃にグラスを取り落としたらしく、一呼吸おいて「ガシャン」と鋭い音がトウヤの足元から聞こえてきた。
2階で掃除をしていた母がそれを聞きつけて「あらあら」と言いながら駆け下りてくる。
私も掃除機を取り出しながら、「ごめん」と笑いつつ母に謝罪をしているトウヤを見て肩を竦める。
素手でガラスの破片を拾おうとする彼に「指を切っちゃうわよ」という忠告と共に手袋を投げつけてから、掃除機のプラグをコンセントに勢いよく突き刺す。
「それより母さん、トウコが今度はシンオウ地方に行くなんて言い出したんだ!母さんからも止めてくれよ!」
「あらあら、シンオウ地方に行くのね。あそこは寒いから、トウヤのトレンチコートを羽織っていきなさい」
「理解のあるお母様を持ってトウコは幸せです」
大仰な調子でそう言えば、益々トウヤは焦ったように言葉を連ねる。
「ちょっと待ってよ、それだけ?心配じゃないの?」
「トウヤったら、可愛い妹がまた家を空けて寂しいのは分かるけれど、あまり無理を言っちゃ駄目よ。
そうだ、そんなにトウコと一緒に居たいなら、トウヤも体力を付けて旅に出ればいいじゃない。今日から毎日野菜ジュースを作ってあげようか?」
「冗談じゃない!あんな緑色の毒液を飲むくらいなら俺は一生引きこもりの道を選ぶ!」
緑黄色野菜がこの世の何よりも嫌いらしい彼は、顔を真っ青にしてぶんぶんと首を激しく振り、母の提案を拒んでいる。
ただでさえ青白い顔色をしているのに、と、私は双子の兄の健康を少しばかり案じた。
割れたグラスを皆で片付け終え、トウヤが淹れ直してくれたコーヒーを飲みながら、私は今回の旅のことを2人に報告した。
シロナさんと戦ったことをトウヤに伝えると、彼は目を輝かせて詳細を聞きたがった。
どうやら彼はシロナさんのファンらしく、彼女のポケモンが繰り出す技のことなどを詳細に把握していて、
自分はポケモンバトルをしないくせに、トレーナー顔負けの知識を持ち合わせているんだなあ、と私は妙に感心したのだった。
ポケモンリーグには挑戦しなかったのね、と母に尋ねられ、「うん、顔も合わせたくないくらい大嫌いな人がチャンピオンをやっているからね」と返して、笑った。
「それにしても、トウコは変わったわね。前は何が嫌いだとか、誰が気に食わないとか、そういうこと、口にする子じゃなかったのに」
「そうね、もう誰かに嫌な顔をされたり、嫌いになられたりすることが怖くなくなったから」
Nに本当の自分を知られてしまい、それが彼に受け入れられてから、私はそうした、人に嫌われるリスクのある言動を、恐れながらも思い切って行えるようになっていた。
それはちょっとした悪ふざけであったり、私の心からの思いだったりした。
それらを押し殺して無難に生き続け、周りの理解と肯定を得てきた今までとは比べ物にならない程に、気が楽になった。
私が変わったきっかけなら、思い当たることが沢山ある。
先ず、私の世界は旅をして大きく広がった。カノコタウンの中でしか成立していなかった小さな人間関係は、しかし旅に出て信じられない程に大きく膨らんだ。
もう、誰かに嫌われることが私の孤独を意味することはない。きっと私はもう、一人にならなくていい。
次に、私は旅をして多くのことを経験した。
何もしていないのに、いきなり変な青年におかしなことをまくし立てられたり、道端のポケモントレーナーが、こちらの都合も聞かずにポケモンバトルを仕掛けてきたり、
狡い大人達によってとんでもない役割を押し付けられたり、恐ろしく利己的な考えで多くの人を束ねる人間と対峙したり。
世の中には、私と同じ基準の常識を持っている人間ばかりではないことを、私は身をもって経験していた。
そんな人に対して気を遣い、私の神経を擦り減らすなんて馬鹿げた話だ。だから私は無難な言葉を選ぶことを、まっとうな敬意を示すことをやめた。
それから、私が初めて「嫌われるかもしれない」というリスクを冒した相手について。
私はあいつのことが嫌いだったし、それ故に嫌われたところで平気だった。だからこそ私は彼に対して粗暴な言葉を投げた。そうすれば、彼は私から離れていく筈だった。
けれどもそれに反して彼との距離は縮まり、私は初めて、他人に知られ、他人を知る、という踏み込んだコミュニケーションを経験するに至った。
幾度も彼と出会い、そうした粗暴な、けれどもどこか温かい遣り取りを続けていくに従い、
私はずっと蓋をしていた「本当の自分」というものが、受け入れられる場合もあるのだということをを、知った。
そして「誰も本当の私を知らない」ということは、「私は誰のことも知らない」ということと同義であること、
「誰かに私を知ってほしい」と踏み出すことと、「誰かのことを知りたい」と求めることもまた、同じ意味を持つのだということを知った。
私は確かに変わった。そこには紛れもなく、彼の存在が大きく関わっていたのだ。
「どう?こんな私は嫌い?」
表面上は愉快そうに、けれど内心では恐れながらそう尋ねると、母は朗らかに、しかし少しだけ呆れたように笑った。
「どうして?私は貴方の母親なのよ?何があっても貴方のことを嫌いになったりしないわ」
トウヤも少しマシになった顔色で、母の言葉に大きく頷いた。
「そうだよな、トウコは何もかもを重く考えすぎなんだよ。俺だって、トウコがどう在ろうが変わりなく、いつだってトウコのことが好きだぜ?」
「何よ、それ。いきなり気持ち悪いことを言わないでくれる?」
私は苦笑しながらそんな言葉を絞り出した。
心臓が弾けそうな程に大きな音を立てて揺れていた。世界が大きな音を立てて変わりつつあることを感じていた。
……こんな私が、受け入れられている。誰かの悪口を言ったり、旅の愚痴を零したり、粗暴な物言いをしたりする私を、母とトウヤは笑って受け入れてくれている。
それはきっと今に始まったことではないのかもしれない。彼等はきっといつだって、どんな私でも受け入れてくれようとしていたのかもしれない。
ただ、私が酷く臆病だっただけ。狭い世界で、嫌われて、独りになることを極端に恐れただけ。
そして、それはきっと、トウヤや母に限ったことではなく、きっとチェレンやベルや、私の嫌った狡い大人にも言えることであったのだろう。
……ただ、彼等は今回の旅で、私とはまた別の種類の葛藤を抱き、それを乗り越えている最中だ。彼等と打ち解けるために一歩を踏み出すのは、もう少し先の話になるだろう。
だからそれまで、私は彼等のことを嫌っておくことにした。嫌ってもいいのだと考えれば、随分と気が楽になった。
*
トウヤのトレンチコートを探している間に、私は国際警察のハンサムさんに連絡を取り、イッシュを離れる旨を伝えていた。
実はイッシュ地方を一番道路から順番に巡ったのには、もう一つ目的があったのだ。
ハンサムさんに頼まれた、七賢人の捜索。彼等はイッシュの至るところに潜んでいたが、私はゲーチス以外の6人を見つけ出すことに成功していた。
彼等は一様に意味深な言葉を残し、英雄としての私に向けて何かを託していった。
『……イッシュの建国伝説は、ポケモンと人の力を合わせて世界を変えた!ただそれだけのシンプルで、故に力強いメッセージだな。
世界を変えるのが英雄なら、人は誰でも英雄になれる。それぞれを変えれば、おのずと世界は変わるのだからな。』
その内の一人が私に紡いだ言葉は、私の心をとても軽くした。
私はイッシュの人々にとっての英雄になることを拒んだけれど、きっと私は英雄になってしまっていたのだろう。
しかしそれは、私だけのものだ。私が変えた世界は、他の誰のものでもない私の世界なのだから。
「トウヤ、まだトレンチコート見つからないの?」
「俺でさえまだ着たことのないコートの場所を俺が覚えている訳ないだろ?」
「ふふ、トウヤはトウコと違って外に出ないものね。誕生日プレゼントにしたのは失敗だったかしら」
「あれ、誕生日プレゼントだったっけ?ごめんね、本人よりも先に着ることになっちゃって」
私は笑いながら、彼のトレンチコートを探すのを手伝う為に2階への階段を駆け上がる。
トウヤの誕生日プレゼントを先んじて着る私を、けれどもトウヤも母も嫌わない。それで十分だった。ただそれだけのことが、嬉しかったのだ。
2014.11.4