ヒウンアイスの列に並ぶこと、1時間。
「お待たせしました」
前回の旅では慌てて通り過ぎたこの町を、今度はゆっくりと観光する。そこで目に留まったのがヒウンアイスの行列だった。
こんなに昼夜問わず行列の絶えない店だ。きっとさぞかし美味しいに違いない。
念願のそれを、長い待ち時間の末にようやく手にしたが、私の心は晴れなかった。
理由は明白だ。ボールの中でバニプッチが暴れているからだ。同じ色、形のアイスに同族意識を感じているらしい。
彼の気持ちも解らないではないが、早く食べないと、この暑さではすぐ溶けてしまうだろう。
私は心を鬼にした。
「いただきます!」
ボールの中かられいとうビームを繰り出さんかのような勢いのバニプッチを視界に入れまいと目を瞑り、アイスを口に運ぼうとした。
しかし。
「……!?」
あると思ったアイスの上部分が消失している。私の顔は一気に青ざめた。
食べ物の「一口目」を奪うなどという最低な所業をやらかした犯人を捜すべく、私は目に睨みを効かせてぐいと周囲を見渡そうとした。
けれど私が辺りを見渡すまでもなく、その犯人は私の隣でにこやかに微笑んでいた。
「やあ、トウコちゃん」
口の周りをカラフルなハンカチで拭きながら、ジムリーダーのアーティさんが私の名前を口にする。
こんな真昼から出歩くなんて、どうやら彼は余程の暇人らしい。ジムの管理をしていなくてもいいのだろうか。
私は自分のことを棚に上げ、微笑み返した後でボールに手を掛ける。
「ランプラー、私のアイスを奪った極悪人の髪の毛に「はじけるほのお」!」
「ちょ、ちょっと待って!」
ボールから出てきたランプラーは、人間に対する指示に躊躇ったものの、私の眼が本気であることを察したのか、彼から僅かにピントを外して炎を飛ばした。
アーティさんの髪の先が少しだけ縮れている。
本音を言えば人体発火くらいの騒ぎを起こしたかったのだけれど、ただの威嚇にそこまでする訳にはいかないだろうと思い直した。
「あうん。髪が焦げちゃったじゃないか。どうしてくれるんだい」
ランプラーにお礼を言いつつボールの中に仕舞ってから、私はこの最低な大人を睨み上げた。
もっとも、アーティさんが私のアイスを奪わなくとも、私の中で彼はやはり「最低な大人」には違いなかったのだけれど。
ヒウンアイスの代わりに、ヒウンジムに連れ込まれ、何故かバトルを申し込まれた。あの暑い中、再びあの行列に並ぶのだけは彼も避けたかったらしい。
「君はバトルが好きだろう?」と楽しそうに笑った彼に、バトルが好きなのはあんたの方だろう、と思いつつ、目を逸らしてあからさまな溜め息を吐いた。
私を盛大なバトルマニアだと思っているのならそれは間違いだ。私はバトルサブウェイのシングルトレインに乗ったことも、あれからポケモンリーグに挑んだこともない。
更に言えば、あの春の旅が終わってから、ポケモンバトルをしたことはこれまで一度もなかったのだ。
そんなブランクがあったにも拘わらず、ランプラーやダイケンキは完璧な活躍をしてくれた。
ヒウンアイスの大半を食べられたという、その怒りの念を込めて完膚なきまでに叩きのめした。
ハハコモリをボールに仕舞ったアーティさんは、しかし釈然としない笑みを湛えて首を捻り、私に尋ねた。
「手持ちが随分変わっているね、ダイケンキはかろうじて居るけれど。……他の子はどうしたの?」
「え、どうだっていいじゃないですか」
旅をした他の手持ちなら、カノコタウンの自宅で留守番をしている。今頃はトウヤと一緒に、冷房の効いた部屋で遊んでいる筈だ。
私は残してきた仲間を思ってくすりと笑ったが、アーティさんはその反応が気に食わなかったらしく、その目に鋭い色を宿して口を開いた。
「君のポリシーがどうであろうと、ボクには関係のないことだけれど、でも君はもう少し周りに気を遣ったほうがいいよ。
君はイッシュを救った英雄だ。君が連れているポケモンをころころと変えていれば、周りのトレーナー達は君を疑ってしまうよ。まさか昔のポケモンを「解放」したのか、ってね」
「……だから?」
「あのね、ポケモンと一緒に居ることを選んだ君は、それなりの振る舞いをする義務があるんだよ。……君だってもう子供じゃないんだから、解るよね?」
その顔には生々しい軽蔑の眼差しを見ることができた。
私が最も恐れていたその色は、確かに私を鋭く抉っていく筈だった。期待された役割から逸れることを、私はずっと避けてきた筈だった。
私には私の考えがあり、相容れないことだって確かにあるのだと、誰もが誰もに受け入れられる訳ではないのだと、私はこの旅で知ったのだ。
……だから、彼の理に叶ったその言い分に、私はどうしても賛同する訳にはいかなかったのだ。
『多くの価値観が混じり合い、世界は灰色になっていく。僕にはそれが許せない。』
彼はそうやって私に、私が生きようとする世界に、真っ向から勇敢な警鐘を鳴らした。
あの時はそれが何を意味するのか解らなかった。いや今も、彼の意味するところは解っていないのかもしれない。
けれど、今の世界をその言葉に当て嵌めてみた時、何かとても悲しいものが見えた気がしたのだ。
私は私のものだ。他の誰のものでもない。
英雄だなんて祭り上げられ、ゼクロムだなんて大層なポケモンを託され、勝手に皆の願いを背負ったことにされて。
でも、それでも私はそんな大層な人間ではない。ただの、ポケモンが大好きな一人のトレーナーだ。
ただ少しだけバトルが強くて、ただ少しだけ彼と多く関わって、ただ少しだけプラズマ団が許せなかった。それだけの人間であった筈だ。
皆が私に何を託しているのかは知っていた。しかし気付いていない振りをした。
私は皆のことなんか知らない。ただ私の為に戦うのだと、その為の旅なのだと、そう言い聞かせてきた。
しかし、皆はそれを許してはくれないらしい。あの戦いが終わった後も、彼等は私に英雄であることを強いている。皆は私に、灰色でいることを許さない。
……ただ、私は違う。私は彼等のものではない。私は、私のものだ。
だから私は、解らない振りをした。解りたくない、と突っぱねることを選んだのだ。
「さあ?解らないですね。そんな生き方、私には解らないし、解りたくもありません。
私はもう英雄を止めたんですよ。貴方を初めとするイッシュの皆さんが一刻も早く、私を忘れてくれることを願っています」
「そんなこと、」
「私は知らない誰かの為に戦ったんじゃないわ。私の為に戦ったのよ。あんた達に私を縛る権利なんかない。
一番大事なところを私に任せきりにしたくせに、たった一人に押し付けたくせに、今更偉そうな口を利かないで!」
私はくるりと踵を返し、ヒウンジムを飛び出した。
夏の日差しが容赦なく降り注いだ。道行く人が私を見ては何かを囁いているのが分かって、益々うんざりした。
ヒウンアイスの行列に並んでいた時にはそれ程感じなかった周りの視線や声は、今になって私の背中に、暴力的な粘度でまとわりついた。
どうして見知らぬ人が私を知っているのだろう。
その事実だけでも吐き気がしそうだったのに、私を見る眼差しが間違いなく「英雄」に向けられるそれだったものだから、私の望まない賞賛のかたちをしていたものだから、
私はそれらを振り払うようにして、熱いアスファルトを蹴って乱暴に駆け出す他になかったのだ。
嫌いだ。皆、大嫌い。
狡い大人も、中途半端な力しか持っていないジムリーダーも、あいつを止められなかったチャンピオンも、勝手な先入観を押し付ける幼馴染も、皆、大嫌いだ。
私はそんな嫌いな皆に利用されていただけだったとでもいうのだろうか。私が選んだ筈だったその道のりは、皆の思惑によって敷かれたものだったのだろうか。
『君のその思いを認めてあげる。』
私の足は、その記憶と共に止まる。
『ボクを止めてごらん。』
違う。あれは私の旅だった。私はあいつと対峙しているときだけは、余計なものの一切を背負わずに「私」として戦うことができていた。
今、此処にあいつがいない。ぶっ飛んだ言動とおかしな理論で、私の背中にまとわりつく何もかもを取り払ってくれる彼がいない。
だから、だからこんなにも辛いのだ。だから、私は彼の名残に縋るように旅に出たのだ。
再び始めたこの旅は、私の旅を私だけのものにする筈だったこの旅は、きっと彼との記憶を追う為の旅だったのだと、気付く。
だって、それ以外の理由が見つからないのだ。旅は私に多くのものを与えたけれど、イッシュという土地はとても素敵なところだけれど、私はこの場所も、此処に住む人も嫌いだ。
それなのに私は、こうして旅を続けている。それはきっと彼のせいだ。
そうした結論を出し、自分の嫌いなものを全て脳内から排斥することで、ようやく私は冷静になれたのだ。
私は酷く我が儘で、それでいてとても愚かだった。
2014.11.1