「貴方にとっての希望とは何ですか」
「何をせずとも、何も言わずとも、ただそこに在るだけで価値のあるものよ」
「その場合の価値とは、何ですか」
「あたしが、あたしのままでよかったと思わせてくれるような喜びのことよ」
ポケモンにいる世界の主人公たちには基本的にこのスタンスで通したいんですよね。「私が私のままでよかったと思わせてくれるような喜び」を書きたい。許していく過程を夢見ていたいと思っているので先んじて希望が来る。だから足掻いて足掻いて最終的に誰かの足を引っ張ったり傷付けることになったとしてもみっともなく生きていってほしいし、そういう話を書き続けていたいなと思っていました。
じゃあ絶望が先んじて来るのってどんな状況かと言えば「私のままではどう足掻いてもよかったなどと思えやしない」ような時であり、そうした状況に置かれたらもう手っ取り早く死んでいくに限るんですよね。木犀のシェリー然り、マーキュリーロードのミヅキ然り、冷たい羽のコトネ然り、実行者も未遂者もそれぞれ「もう私では駄目だ」と思って死に飛び出していく。ツイステってそういう状況の宝庫だから、1週間前の私が妄想を膨らませる分にはそれはそれは楽しかった。いろんな「主人公」を夢見て、それぞれに思いを馳せながら楽しそうに死んでいく様を思い浮かべるのはとても楽しかった。こういう夢の味方もあるじゃないか最高じゃないかと思っていて、実際、妄想の中では6人くらいバタバタ死んでいって、いやぁ楽しかったなあという感じ。「もう私では駄目だ」という状況に見切りを付ける様を(私の主観で)鮮やかに書いて満足できるならそれが一番いいよね。もうこの年になってしまうと緩慢であろうが急速であろうが自殺なんてことできっこないのだから。
でも、……でも? でも何だ、ごめんちょっと分からなくなってきたな。とにかく「死への喜び」から足を突っ込んで散々妄想の中で楽しんだツイステを今度は「生きる苦しみ」として頑張って生きていくための前向きな糧として見ようとしている、その都合のいい私の頭がちょっと許せないという話に持って行きたかったのですが迷子になってしまったぞ、こういうこと最近よくある、いけないわとてもいけない。だってそんな話書いたら気持ち悪いものばっか出来ちゃうだろうがポケモンみたいに。