「おや、もう仲直りは済んだのかい?」
私達は寄り道を終え、再びミナモデパートへと向かう道を歩いていた。
すると、この灯台へ向かう時にもすれ違ったご老人の夫婦が、私達に話し掛けてきた。
「ええ、お気遣い恐れ入ります」
彼等の言う「仲直り」が何を指しているのか、私よりも先に気付いたマツブサさんは素早くそう返した。
成る程、確かに先程の私達は、限りなく大きな歩幅で、しかもお互いが神妙な顔をしたままに無言で通り過ぎて行ったのだ。
険悪な雰囲気になっているのだと、大抵の人は思うだろう。
ご老人の二人は満足そうに頷いた。
「よかったじゃないか。それにしても初々しいねえ、新婚さんかい?」
「これ、じいさん。野暮なことを聞くものじゃないよ」
二人の間で笑いが起きたが、私はそれどころではない。
一体、何をどう間違えればそんなことが起きるのか。私は慌てたが、彼は平然とした表情のままに返答した。
「そんなところです。今から準備に向かうので、失礼します」
……私の耳はついにおかしくなってしまったのかもしれない。
彼は私の手を取り、歩幅を大きくして歩き始めた。しかし私がやや駆け足で付いて来ていることが解ると、立ち止まって私の頭をそっと撫でる。
「キミの髪はこんなにも長かったのだな。いつもは一つに纏めているから気付かなかった」
「あ、はい……。いや、そうじゃなくて、さっきの言葉は一体、」
私がそう問うと、彼は私の手を握ったまま、今までに見たことのないような表情を浮かべた。
ああ、マツブサさんはそんな顔もできるんだ。
「キミに指輪を買おうと思ってね」
洗練されたデパートの2階の一角は、子供が立ち入ってはいけないような洗練された雰囲気を醸し出していた。
それなりに多くの人で賑わっている筈なのに、煩くお喋りする人も、足早に通路を駆けていく人もいない。
誰もがゆっくりとした速度で店を冷やかし、時に吟味し、時に購入する。
淑女の嗜みとして、ブランド物の鞄を一つだけ持っているが、それだって母からのお下がりだ。
自分からこんなものを買ったことなどないし、こんな店に立ち入ったこともない。そもそも、まだ16歳の自分には踏み入る機会のない場所だと思っていたのだから。
そんな場所に、彼は何の躊躇いも見せずに私を引き連れて歩く。私の手を取ったまま、一つの店舗の前で足を止める。
女性のスタッフを呼んだ彼は、「彼女に贈る指輪を探しているのだが」と、ストレートに切り出した。
彼女はマツブサさんの隣で固まっている私の指をチラリと一瞥し、「6号くらいかもしれませんね」と瞬時にサイズを見抜いてみせる。
私は圧倒されていた。洗練されている、洗練され過ぎている。明らかに、此処は16歳の子供が足を踏み入れていい空間ではない筈だ。
しかしそれは同時に、この場所へ私を連れて来たマツブサさんが、私をそうした「子供」として見ていないのだということに繋がる。
16歳の私を、マツブサさんより一回り以上年下である筈の私を、子供だとしないならば、一人の女性とするならば、それは一体、何を意味するというのだろう。
そもそもそれ以前の問題として、何とも思っていない人間に指輪をプレゼントしてくれる筈がないのだ。私はそこまで鈍い人間ではなかった。
そして私は、昨日の彼の言葉の意味をようやく察する。
『確かにキミに持ってもらう荷物だが、ほんの数グラム程度のものだよ。』
あれは、指輪のことを指していたのだ。私はきっと気付くのが遅すぎたのだろう。
事実、私がそのプレゼントを拒まなければと思えた頃には、もう既に断ることができない状況になっていたのだから。
「できれば、長く輝きが持続するものがいい」「ああ、それでしたらプラチナがいいと思います。基本的に金属は、手入れを怠らなければ大丈夫ですが」
「成る程。……これはプラチナなのかね?」「いえ、そちらはホワイトゴールドになります。同じゴールドなら、ピンクゴールドの方が女性らしいと思いますよ」
茫然と立ち尽くす私を置いて、マツブサさんと女性スタッフとの話は進んでいく。
リング部分にプラチナが使われているものを、女性スタッフがごっそりと持ってきてくれた。どれも6号らしい。
「好きなものが見つかれば言いたまえ」
彼は私の硬直振りに苦笑しながら、私の背中を軽く押して美しすぎるリングへと向かわせた。
ざっと十種以上はありそうなそのデザインと、中央の宝石の種類に圧倒される。目が眩みそうになる。
「ご自由にお手に取ってお確かめください」とスタッフの方が言ってくれたが、正直、触れる気がしない。
そこまで大きな宝石ではないし、これくらいの輝きなら、私は親族の指元や首元で見慣れている。
だからその高級感に圧倒される必要はない筈なのに、それが他でもない彼から贈られる私へのプレゼントであるという、その事実が私の目を眩ませる。
「……これ、を」
そんな中で、妙に既視感のある赤い宝石の入ったリングを指差したのは、別に不思議でも何でもないことだったのだ。
その、少し変わった色をしたルビーに誰かを重ねたとして、小さなその赤に、その宝石以上の輝きを見出したとして、それはだって、当然のことではないだろうか。
その後、指輪のサイズを確かめた後で、彼は迷いなくその指輪を購入した。
「向こうで待っていたまえ」と言って私を少し離れたところで待たせたのはきっと、値段を知られないようにするためだろう。
私が「こんな高いもの、申し訳ない」と喚くことなど、彼にはお見通しだったのだ。
結局、その指輪の値段は解らないままだったが、しかしそれ以上のどんな高値をもってしても、私の心臓をここまで煩く跳ねさせるものは二度とないだろうと思った。
「トキちゃん、荷物持ちは任せたよ」
彼はそれを私に差し出す。あの指輪が入っていると思わしき小箱は、真っ赤なリボンで包まれており、小さいけれど頑丈な白い紙袋の底で揺れている。
それを受け取り、思わず微笑む。軽い。けれども、とてつもなく重いのだ。
『とても軽いものだ。もっとも、キミには重すぎるかもしれないがね。』
昨日の彼の言葉を思い出す。彼は昨日の内からヒントをくれていたのに、私はその可能性に全く思い至らなかったのだ。私はどこまでも子供だった。
「本当に?」
思わずそう尋ねていた。彼は困ったように肩を竦めて笑う。
「残念なことに、6号の指輪は私の小指をもってしてもサイズオーバーだ。そして此処には私とキミしか居ない。ならばキミが受け取るのが道理だろう」
その言い方がおかしくて私も笑った。
「それじゃあ、私が受け取るしかないですね」とおどけたように紡いで、軽くて重い荷物の入った紙袋を下げる手に力を込める。
私はつい先程、視界に収めたばかりのその指輪を、どうしても思い出すことができずにいた。
あのルビーはどんな形をしていたかしら。リングはどれくらいの太さだったかしら。
家に帰ったら、ちゃんと見てみよう。そして、しっかりと目に焼き付けておこう。彼がくれた約束の重さを忘れないように、その喜びを留めておけるように。
そんなことを考えていると、彼がすっと私の背後に回った。
どうしたのだろう、と振り返るが、彼は直ぐに先程とは反対側へとやって来て私に並ぶ。
「さて、目的はこれで果たしたが、折角だ。何か食べて帰ろうか」
「あ、そうですね。もうお昼の時間でした。マツブサさんは何が食べたいですか?」
「ふむ、特に決めていなかったな。通りを歩きながら考えよう」
彼は私の手を取った。軽くて重い荷物を提げている右手ではなく、空いている左手を。
そして私は、気付いてしまう。
「マツブサさん、私は手を握っていなくても、迷子になったりしませんよ?」
彼がわざわざ、私の左側へとやって来たのには、そういう意図があったのだ。
私が右手であの荷物を提げているから。右側の手は塞がっているから。右側に並んでいたままでは、自然に手を繋ぐことができないから。
私はそんな彼を少しだけからかうようにそう呟いてみせた。しかしそんなこと、きっと私にはまだ早かったのだ。
彼をからかうことができるだなんて、それこそ、思い上がった考えだったのだ。それはカウンターとなって私の方へと返ってきたのだから。
「成る程、しかしそれがキミの手を取ってはいけない理由にはなるまい。そうだろう?」
2015.1.10