After-4

とあるレストランに、私達はやって来ていた。
それなりに有名な場所らしく、日曜の昼間ということもあってかなり込み合っている。予約表に名前を記入し、15分待ってからようやくテーブルに案内された。
照明を淡くしているのは、昼間だからというのもあるが、おそらくは大きな窓が理由だろう。
眩しい太陽の光は、ブラインドにより和らげられているものの、それでも照明の代わりにこの空間を明るくするには十分な量の光が差し込んでいた。

席に着き、お洒落に畳まれた布製のナプキンをそっと広げる。
彼はメニュー表を広げ、こちら側に向けて差し出した。彼らしいその行動に「ありがとうございます」とお礼を言ってから、そのメニューをじっと覗き込む。
それなりに食い意地が張っている私は、どれにするかをとても真剣に選んでいた。「あれを選んでおけばよかった」などという後悔は一ミリもしたくないのだ。

「どっちにするべきか……」

メニュー表を食い入るように見ていた私は、そんな私を見ているマツブサさんの存在を完全に忘れていた。
私がパスタをトマトソースのものにすべきかバジルソースにすべきかと迷っていたまさにその時、彼がそんな私の真剣な顔を見ていたことに、気付く筈もなかったのだ。
だから私が「バジルソースにします」と清々しい表情で紡いで顔を上げたその瞬間、笑いを堪えている彼と目が合うのは必然だったのだろう。
何故笑われているのか、ピンと来ていない私を置いて、彼はまだ小さく笑いを引きずったままに「何でもないんだ」と零した。

「私、何かおかしいことをしましたか?」

「いや、真剣にメニューを見ているのだなと思っていただけだ。気にする必要はない」

口では「何でもない」と言っていても、その表情は笑みを隠しきれてはいなかった。
急に恥ずかしさが込み上げてきた私は「すみません、私は食い意地の張った子供なんです」と自分からそう名乗ってみる。
しかし彼はそんな私に呆れたりはしなかった。代わりに「どれと迷っていたのだね?」と尋ねられる。
正直にトマトソースのパスタを指差すと、彼は小さく頷いた。

「では、私がそれを頼もう。後でキミが一口、食べればいい」

「え、でも、マツブサさんは他のものが食べたかったんじゃ……」

「私は何だって構わない。特に食に関する拘りはないのだよ」

ああ、だからそんなにも細いんだ。私はそんなことを思いながら納得する。
この人なら仕事に没頭するあまり、1食や2食、余裕で抜いてしまいそうだ。

「ちゃんと食べないと倒れてしまいますよ」などと母親のようなことを言ってしまう自分がおかしくてまた笑った。
笑って、そして思い出した。そうだ、この人との時間はどうしようもなく楽しかったのだ。
『距離は近ければ近い程、嬉しいけれど、どんな形でもいいんです。
上司と部下でもいい。何だっていい。これから先も、私の毎日の中に貴方が居るっていう確信が欲しい。』
その時間がこれからも続くという確信が欲しいなどと、そんな風にねだってしまう程には。
その確信が見える形で与えられたことに、涙が出る程の感動を持て余してしまう程には。

他愛もない話を重ねる。パスタが運ばれて来る。
テーブルに添えられていた小さな取り皿に、彼は自分のパスタから私の分を小さく盛って渡してくれた。
私も彼の分を小さなお皿に移す。同じことをして渡しただけなのに、随分と驚かれてしまったことがおかしくてまた笑った。
小さなサラダとスープが付いたそのランチを、私はそれなりの満足感を持って食べ終えたけれど、彼は7割程食べたところでフォークを止めてしまった。
……まさかここまで食が細いとは思わなかった。

彼はバツの悪そうな顔をして、パスタを絡めたフォークをくるくると回し続けている。どんどん大きくなるパスタの束に私は声をあげて笑った。
ああ、楽しい。誰かと食事をするって、こんなにも楽しいことだったんだ。

結局、そのパスタを残したまま、私達はその店を後にした。
苦悶の表情で完食するよりも、心地いい満足感で切り上げたほうがいい。そんな私の言葉に彼は納得した表情で席を立った。

「マツブサさん」

私は左手をそっと掲げた。彼はそれを見て僅かに微笑み、そっとその手を取ってくれた。
それが嬉しくて、思わず手に力を込める。彼は少しだけ驚いた様子を見せたけれど、その後で当然のように握り返してくれた。

ミナモシティの東側、海岸沿いの道に差し掛かると、人通りは一気に少なくなった。
波の音が聞こえる。真上にある太陽の光を、海はキラキラと反射していた。
空をゆっくりと泳ぐ雲や、明日の天気のこと、海で跳ねたポケモンのこと。そんな他愛もない話を重ねていた。他愛もない戯言。けれどそれ故に、愛しいと思った。

マツブサさんは私の手を軽く引き、階段を降りて浜辺の近くにやって来た。そして私に向き直り、右手から軽くて重い荷物を取り上げる。
彼はその小箱を取り出して、私の方へと向けた。

「開けてみないかね?」

「今、ですか?」

私は首を傾げたが、特に躊躇うこともなく赤いリボンに手を掛けた。
肌触りのいいリボンが解かれる。小さな箱を開けると、深いワインのような色をしたルビーが輝いていた。
さっきも一度、見ていた筈なのに、私は小さく息を飲む。目の前の彼とそのルビーを見比べて、微笑む。
これなら、絶対に忘れない。いつまでだって、覚えていられる。

『もし、キミが変わらずに待っていられたなら、キミが望むものを最上の形であげよう。』

忘れない。忘れられる筈がない。

「!」

私がそれに触れる前に、彼の指がそのリングを摘まんで取り上げた。
どうしたのだろう。私は再び首を傾げて彼を見上げた。見上げて、そして息を飲んだ。
彼は笑っていなかった。その目は鋭い色をもってはいなかったけれど、その穏やなに凪いだ色の中に私は彼の真摯な思いを汲み取る。
そして、私は理解する。浮かれていた私はともかく、マツブサさんがスーツにベストという正装のような服でやって来たその理由を。
彼は冗談でこんなことをする人ではない。子供である私とのお遊びのために、こんなことをしているのではない。
私が好きになったのは、そんな人ではない。

だから、彼が私の左手を取ったその理由を、私は正しく理解しなければいけなかったのだ。

彼の色が私の薬指に宿ったその瞬間、深い赤が眩しく瞬いたその瞬間、私の時間は確かに止まっていた。
彼の心臓の音が聞こえた気がした。きっとそれは、私の心臓のそれと同じ速さをしていたのだ。

「キミの思いを尊重するなら、キミの思いの変化を心から許せていたのなら、こんなものを渡すべきではなかった。……この指輪は少なからず、キミを縛るだろう」

「!」

「私は狡いことをしているのだよ、トキちゃん」

自分のことを「狡い」と称した彼は、しかしどこまでも真摯だった。
私は私のことはよく解らないけれど、彼のことはよく理解しているつもりだった。
だから笑って、首を振った。「それは違います」と笑顔で否定した。

「狡いことをされた人間が、こんなにも幸せになれる筈がないもの」

ね、そうでしょう?
彼はその目を僅かに見開いた。暫くして「……そうだな」と、小さな声が降ってきた。
壊れ物を扱うかのように、彼の手が私の背中に回された。私は少しだけ身を乗り出してみた。
当然のように収まった彼の胸で、私はそっと耳を押し当ててみる。


「では、キミが幸せなままでいられたなら、今度はその指に別の指輪を贈ろう」


音が、聞こえた。それは私の心臓と全く同じ音だった。
彼は私の頭を優しく撫でる。降ってきた言葉が愛しくて私は微笑む。


翌日のこと。私はいつものように、マグマ団のアジトを駆けていた。彼の色は私の薬指に宿っていた。
途中でホムラさんと出会い、挨拶をする。マツブサさんが自室にいることの確認をホムラさんに取ってから、彼の部屋へと繋がるワープパネルへと足を進める。

「ところで、式には勿論わたくしも呼んで頂けるのでしょう?」

その言葉に私だけでなく、傍を歩いていた団員達も一様に素っ頓狂な声をあげて驚いていた。
「なんだと!」「トキちゃん、結婚するの?」「相手は誰かしら?」
次々とそんな言葉が飛び交う中、ホムラさんは私に背を向け、ひらひらと手を振りながら更なる爆弾を投げる。

「まあ、リーダーマツブサがわたくしを呼ばない筈がありませんがね!ウヒョヒョ!」

一瞬の沈黙の後で訪れる、悲鳴の嵐。私は駆け寄ってきた団員達からの追求を逃れるために、全速力でアジトの廊下を駆けた。
彼の部屋に繋がるワープパネルまで、あと、少し。


2015.1.10
Thank you for reading their story!

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