【ひらく花、溶ける水】
唐突に為されるストリートバトルの宣言。雷鳴の如く轟く歓声。尋常ではない勢いで動く人の波。それもそのはず、宣言の声の主、挑戦者を迎え撃つはあのダンデを倒した小さき王女である。ファンサービスの類を苦手としている彼女が、このような往来でバトルを始めることなど滅多にない。故にその物珍しさも相まって、人が押し寄せてくるのは無理からぬこと。彼女の飛ばす鋭い指示の歌声を、誰もがその鼓膜に届けたくて仕方がないのだ。それに合わせるように舞踏するインテレオンの水弾を、誰もがその眼に収めたくて仕方がないのだ。
だがこの日、その人の輪を一層大きくするのは、その王女の傍ら、半歩下がったところに控える道化師めいた男の存在であった。痛々しい、とさえ思わせる奇天烈なファッション。シルクハットの周りを浮遊する六つのボール。ポケモンバトルに興味のない人間の視線さえ、その道化師はしかと捕らえて離さない。そんな男の隣、ボールを構えたその王女が、彼の丸い眼鏡の奥、二つの水色を見上げつつ、すっと目を細めて花のように笑うものだから、もう外野は衝撃のあまり息を吸うことさえ叶わない。
「今日はタッグバトルでお相手しよう。私達よりも息の合った二人組がこの中にいらっしゃるなら、是非、前へ!」
ああ、新しいガラルの星。無機質で従順で機械的な、ロボットめいた気味の悪いチャンピオン。バトルだけは誰よりも強い、孤高の、無敗の、寂しい王女よ。貴方様は。
貴方様は、そんな顔もなさるのか!
【Midnight morning glory】
命の巡りも時の流れも何もかも飛び越えるその魔法により、夜に開くはずのない花がふわりとその水色を覗かせた瞬間、私は声を荒げていた。
「なんてことをするんだ君は!」
彼の手首をぐいと掴んだ。そのまま思いきり捻り上げた。財布を引ったくった強盗犯にするような仕打ちだけれど、彼は何の罪も犯していない。ただそのテレキネシスを使っただけ。その長い指で朝顔を指さしただけ。夜に朝の花を開かせるその力を見て、私が勝手に、恐ろしい気持ちになってしまっただけ。にもかかわらず私が為しているこの仕打ちはなんだ。どうかしている。私がどうかしている。
「……あなたが、咲いたところを見たいと言ったから」
おおよそ予想していた通りの言葉が返ってくる。何故このような激情を突き付けられているのか分からないという表情、けれども分からないなりに叱られていることだけは理解し、いよいよ怯えているその表情。羨ましくなる程に整った造形から零れ落ちる音は、年上の男性らしからぬ子供のような震え声。
「そうだよね、私が言ったんだ。ごめんなさい、セイボリー。君は何も悪くないのに」
「で、ですがワタクシは何かを間違えたのでしょう? だからあなた、そんな顔を」
そんな顔、をしているのは彼の方であるにもかかわらず、彼は愚蒙な私を気遣う。謝罪を重ね、誤解を解くには随分と時間がかかりそうだ。私達の罪が許され合うより先に、夜が明け、朝顔が本当に咲いてしまったりしなければいいのだけれど。
【手折られるなら本望だ】
「抱きしめるんじゃなかったの?」
「ええいちょっと静かになさいな!」
大音量で喚かれてしまい思わず眉をひそめる。けれど鼓膜を刺す勢いの声に反して、回された手は恐々と私の背中を撫でるばかりだ。大きな羽でくすぐられているような感覚は私を少しばかり戸惑わせる。不安を顔に貼り付け沈黙する彼の顔を、見上げる。
これは、愛情を抱き込むことを恐れる顔ではない。道場生活で家族というものを知った彼はもう、そうした温もりの遣り取りに慣れ初めているはずだ。にもかかわらず何故、怯えているのか。ただ私の背中に手を回して抱きしめるだけのことなのに。ねえ、君のそれはあらゆるものを浮かせ動かせ指揮する魔法の指だろう、怖がることなんて何も。
「ああもしかして、加減が分からない?」
「……あなた、いつの間にカプセルを? 特性が『テレパシー』になっていますよ」
常にテレキネシス在りきの生活をしている彼、触れずとも動かすことに慣れ過ぎている彼は、何かに己が手で触れる時の力加減を測りかねているらしい。推理の的中に満足しつつ笑いながら背伸びをして、私からその背に手を回して、手本を示すべく力を込める。君が触れているのは花でも硝子細工でもなく、もっと頑丈で強固で、君のためなら無敵にさえなれる存在であるという、ただそれだけを知らしめるように、強く、強く。
「これくらい、かな。もっと強くしてもいい、壊れたりなんかしないよ」
言い終わると同時にぐいと力が込められたのが嬉しくて、私は花になりたくなった。
【あなたは悪魔か】
ズルズルと轟かせて食べるのが流儀だと聞いたことがある。郷に入っては郷に従え。二本の棒には随分と苦戦させられたけれど、努力の甲斐あってハシの構えは様になっているのでは、と思う。そして、濃いスープに浸った細麺を一気に吸い上げるその音も。
「ヒャア! ちょ、ちょっとユウリ、おやめなさいな! シミになる!」
「ん、知らないのかいセイボリー、ラーメンは勢いよく吸い上げてこそだよ。スープを飛ばして服を汚すところまでが儀式であると言ってもいい。勉強不足だね」
「なっ! ……そ、そうなのですかミスター亭主!」
屋台の主、ミスター亭主が顔を上げる。ローティーンの子供と二十歳程の青年を見比べて微笑み、その通り、と年下の味方をしてくださったのは優しさか、あるいは私が「流儀」と称して繰り出したこのはったりが本当に正しいものであったのか。真相はスープの奥底へ、でも私の勝利には違いない。ほらね、といつもの彼の笑い方を奪い取りつつ、再び二本の棒で麺を掴み、ズルズルと吸い上げる。またしても彼の服に飛び散る。
「ああっ! あなたなんてことを! 何の準備もしていないワタクシに対してこんな……卑劣です! クリーニング代を支払いなさい!」
「生憎、持ち合わせがないんだ。代わりにこのシナチクをあげるから機嫌を直してくれ」
「それはあなたが嫌いなだけでしょう!」
おや見抜かれた、と笑いながら、シナチクを彼の器にひょいひょいと移す。彼がこうして怒ってくれるのをまた見たいので、来週は一緒にカレーうどんを食べに行こう。
【BPM176の証明】
トクトク、トクトク。耳朶から伝わり、鼓膜を震わせる音の速度はモルトアレグロ、メトロノームなら160でもまだ追い付きかねるところ。背中に回した手の力を強めてみる。でもまだ遠い、まだ足りない。もう少しこの音を、もう少し奥へ捻じ込みたい。
「ねえ、少しはしたないことをするけれど、構わないかな?」
「フフン、いいでしょう特別に許して差し上げ……って、ええっ! ホワイ! 何故! そんなところに潜り込む必要が!」
胸元の黒いジャボを捲り上げ、その下へ頭を差し入れる。胸元、少し左側に寄せて耳を当てれば音だけでなく振動まで伝わってきていよいよ嬉しくなる。ああ何も変わらない。彼はまだ慣れない。触れることに、力を込めることに、愛を抱き込むことに。
出会ってすぐの頃、このヒラヒラの名前を知らなかった私に、彼は左の口角をくいと上げつつ得意気に「ジャボ」の名前を示した。エレガントの嗜みらしいそれは、彼と長く過ごすうち、私の中で「彼らしさ」を象徴する記号になった。彼が彼で在ることを保証してくれる愛嬌になった。ジャボ、シルクハット、その周りを浮遊するボール達、丸い眼鏡、フリル付きのハイソックス、踵の高い靴、どれを欠いても彼らしくはない。でもそのどれを欠いたとしてもこの鼓動の速さは変わらない。それが彼の純真性を示す臓器であることに変わりはない。たった今得たその気付きを、私は素直に嬉しいと思う。
「君の音がとても綺麗だから、近付いたらもっと幸せになれると思って、ね?」
トクトク、トクトク。彼は半ばやけになって私をその臓器ごと抱き込んでいく。
【地獄の貝は桃源郷の夢を見るか】 → 短編「地獄に咲く貝」としてリメイク済
「君と、話したところで、何かが変わるとは思えない」
掴んだ細い腕の先、小さな喉が絞り出すのは消え入るように小さな声、地獄から千年かけて届いた貝の死骸のよう。耳を当てても血のスープを沸かす窯の音しか聞こえやしない。誰です、と問い掛けても貝は答えない。一体何があったんだ。何が、何が、誰が。
「誰があなたをこんな風にしたんだと聞いているんですよ、ユウリ」
「君に、話したところで、何も」
ああ力不足だって? そんなことは分かっている。あなたとのバトルは全戦全敗、そんなこちらの実力を揶揄える程度の余裕はあるらしい。そう気付き、喉から吐き出した空気の塊は、安堵により、恰好の付かない震え方をしている。構うものか、構うものか。
「ねえセイボリー、楽しかったね、此処での時間。本当に楽しかった。夢のようだった」
もう戻れないけれど、などとは言わせない。取り戻してやろう、あなたのためなら。
「ね、話してごらんなさいな」
人の救い方は知っている。あなたがかつてワタクシにしたことだ。これは単なる「ミラーコート」に過ぎない。エスパー技は十八番だ、上手くやれる。ワタクシならできる。
「いつまで意地を張っているんです? ワタクシに引き止められて本当は嬉しいくせに」
ほら、こんな傲慢を意地悪く笑って許してくださるのがあなたでしょう。許容と肯定はあなたの十八番。さあほら許せ、許してみせろ。ワタクシのことを、あなたのことを。あなたがもう一度笑うために必要な、すべての、惨たらしく醜悪で残酷なことを。
泡その1【果敢無くない恐怖】
「すぐ消えてしまう脆くて弱いものを想うことは、少し恐ろしくありませんか?」
機嫌よくシャボン玉を飛ばしていた私の隣で彼が飛ばすのはそうした懸念だ。驚きのあまり液を吸い込んでしまう。背中を折って激しくむせる私にぎょっとしているのが気配で分かる。大丈夫ですか、と降ってくる声に、君のせいだよと言い返せるだけの意地悪な心意気はとうに失われている。ああ君はそんなことを難しいと感じるのか、と。
想うことを「つまらない」と否定するのではなく「おそろしい」と拒絶して遠ざけようとする彼の心はただひたすらに美しい。花や泡や硝子細工、そうした小さなものへと触れることに不安を抱く彼は、ただひたすらに不器用で、優しい。
「ねえ、大丈夫なんだよ、怖がらなくても」
そう言って背筋を正した私は、右手を伸ばして宙を泳ぐ泡をひとつだけ握り潰した。あっ、と零れる声は年上の男性のものとは思えない程の幼さと弱々しさ。そんな彼に見せつけるように私はもう一度、ストローに口を付けて一気に吹く。十を超える大小様々の泡が一斉に飛び立つ。綺麗だなあと素直に思える。目を細める。泡に虹がかかる。
「儚いものはその命の巡りも早いからね。千切った花も、弾けた泡も、何度でも生まれ直せる。でも君はそうじゃない、一度きりだ。だから」
……だから、私にとっては君を想うことの方が、花や泡を愛でることよりずっと難しいのだけれど、この恐れはどう取り払ったものか、知恵を頂けないかな兄弟子さん。
そう付け足そうとして、やめた。口にすれば赤面は免れ得ないと思ったからだ。
泡その2【この夢は貸しにしよう】
「君の力を借りたいんだ! どうにかしてほしい!」
そう高らかに告げる妹弟子が左腕に抱えているのは、ハンガーで作ったと思しき輪っかと、液体洗剤の特大ボトルだ。その段階で全てを察し、呆れて物も言えなくなったセイボリーの腕を引っ掴み、意気揚々と外へ連れ出す。そのまま小さなビニールプールの前へ彼を誘導すると、水の入っていないそこへボトルの中身を勢いよく流し入れた。
「まさかとは思いますが、そのキョダイシャボン玉ごとあなたを浮かせてほしいと?」
「……えっと、ごめんなさい。君でも難しいことだった?」
「なっ! そ、……コホン。そのくらい造作もありませんが?」
「わあ、やった! ありがとうセイボリー! 夢だったんだよ、この中に入るのが」
それはそれは、また随分と可愛らしく憎らしい夢なことで!
夢を幾つ叶えても足りないと思しき彼女の強欲を諦めるように、子供を極めたその願いを許すように笑いながら、ハンガーの輪を受け取る。嬉々としてビニールプールの中に入った彼女とそれを見比べつつ、こんな小さな輪で本当に事足りるのかと懸念する。けれども肩にさえ触れることなく輪っかは彼女を通していく。へえ、あなたこんなに小さかったんですね。そう零す代わりに「報酬は?」と確認する。彼女は淀みなく答える。
「今日のおやつはクランペットらしい。私の分、好きなだけどうぞ!」
全力を出す理由を手に入れ得意気に笑う。どのみち妹弟子の我が儘を叶えてやれるこの機会を、兄気取りの彼が逃す筈もなかったのだと、そんな事情など露程も悟らせずに。
【嵐を追い出す白い指】
漫画や映画には、何らかの決意を示すため、誓いを立てるため、などの理由で、手元のナイフや鋏で自らの長い髪をバッサリと切るシーンがたまにある。彼等は一様に清々しい顔をしていて、覚悟の断髪とはかくも素晴らしいものかと見る側に印象付けるだけの力がある。でも私はちっとも清々しくなんかない。長く伸ばしていた髪をエアームドの「エアカッター」でバッサリ切られたこの状況で、清々しい顔など作れるはずがない。
「君と同じにしたかった。伸ばしていたのに、目指していたのに、揃えたかったのに」
一礼野原の砂浜の隅、膝を抱えて顔を伏せる。服が砂で汚れるのも厭わず腰を下ろした彼の隣で幼稚な怨恨を吐き出していく。拗ねてみたところで何の解決にもならないけれど、もう私にはこの体を小さく丸めて、脳内に吹き荒れる憤怒と後悔と絶望の嵐が過ぎ去るのを待つことしかできない。静まる目途など、全く立っていなかったけれど。
「……あなた、こんなことで泣くんですね」
「セイボリーもあいつにその綺麗な髪を盗られたら、きっと同じように泣きたくなるよ」
「フム、では試してみますか? ワタクシと揃えたかったのなら、こちらが短くしたところで同じでしょう。あなたの気持ちだって分かるかもしれませんし……、ね?」
そんなことしないで、と示すべく大きく頭を振る。なんてお馬鹿で我が儘な妹弟子、と零して笑うそれは、普段の彼からは想像も付かない程に優しく静かだ。大きな手が私の頭に降ってくる。ひとしきり撫でたところで手は私の肩に下りる。涼しい首筋にチクチクと刺さる、切られたばかりの短いそれを、長い指が労わるようにくすぐっていく。