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少女は傍の大木に駆け寄った。裾の破けたドレスがひらひらと頼りなく揺れている。
とても大きなその木は、しかしその枝に葉を茂らせることもしないまま、ずっと枯れたような状態でそこに佇んでいる。

「どうして、この木は葉を付けていないんでしょう。そういう種類の木なんですか?」

「いや、そうではないと思うよ。ホウエンに自生しない木だから、もしかしたら、この土地の気候に合わなかったのかもしれないね。
木そのものに異常はないらしいから、何かの拍子に芽吹くかもしれないけれど」

ダイゴはそう答えながら、その大きな幹にそっと触れた。

「この木は元々、カロス地方という場所に生えていたそうなんだ。
大昔の話だけど、その土地からやってきた巨大な男が、この木を贈ってくれたらしい」

「!」

すると少女は目を見開いた。思いもよらないその反応にダイゴは当惑する。
小さな声で「……そうですか」と言いながら、ダイゴに倣うようにしてその幹に触れる。

「君はカロスに行ったことがあるのかい?」

「いいえ。でも、その土地で起きたことは知っています」

カロス地方での「あの騒動」は有名だった。遠く離れたこのホウエンの地にも、その騒ぎは伝わっていた。
そして、それはおそらく、カントーでも同じように伝わっている筈だ。故に彼女がその一件を知っているのは当然のように思われた。

「3000年前の最終兵器のこと、永遠の命を持った花のこと、そのポケモンを愛した巨大な男性のこと。
全てを救うことを諦めて、その兵器を利用しようとした男性と、そんな男性に焦がれてしまった女の子のこと、……相変わらず欲張りな、友達のこと」

「……え?」

「一人を愛するためなら、他の命を簡単に消し去ってしまえるのかしら。愛した一人と会うためなら、永遠とも取れる時間に身を委ねてしまえるのかしら。
知り合ったばかりの女の子の為に、どうして心身を削ってまで寄り添うことができるのかしら。許せない対象を、どうして救いたい、だなんて思えるのかしら」

しかしその内容は、あの事件に関してそれなりに詳しいと自負していた筈のダイゴですら、理解の追い付かないものだったのだ。
彼女が何を言っているのか理解できない。饒舌に何もかもを語り出した彼女を、ダイゴは理解することができない。

ダイゴはまだ、知らなかったのだ。
3000年前のあの兵器が戦争のためではなく、とある男の愛したポケモンの命を蘇らせるために造られたのだということ。
あの兵器は、たった一つの命を与えるために、無数の命を奪い去った、恐ろしく巨大なエゴを改造して生み出されたものだということ。
あれは戦争の産物ではなく、そうした、とても悲しいものなのだということ。

しかしその知識をもってしても、彼女の発言の後半を理解することはできなかっただろう。
彼女は、3000年前に過ちをおかしたその男への怒り、そしてその兵器を1年前に利用した、傲慢な男への怒りを確かに持っていた。
しかしそれとは別に、彼女はもう一つの怒りを持っていた。それは彼女の友人である、彼女より一つ年下の少女への怒りだった。
彼女にもまた、理解できない対象が存在しており、彼女がその相手に対して鬱屈した感情を抱いていたのだと、ダイゴが知るのはまだ先の話なのだけれど。
そして、彼女はそれらの怒りをすっかり混同してしまっていたのだけれど。

少女はその大木の幹に爪を立てる。その目が射るように細められる。

「……」

彼女は饒舌だった。その饒舌な言葉たちはいつだって笑顔で紡がれていた。
今のように、その目に荒んだ色を含ませ、低い声音で淡々と紡ぐような真似はしなかった。
自分を煙に巻くことは度々あったけれど、聞き手であるダイゴを置き去りにしてまくし立てるようなことはしなかった。

そんな彼女が、ダイゴには理解の及ばないところで、喋り続けている。怒りを露わにして、荒んだ音を紡ぎ続けている。
その姿はダイゴに衝撃を与えた。そこには16歳とは思えない荒んだ凄みがあった。ダイゴは怯み、沈黙した。

「彼等は私よりもずっと自由なのに、どうして私よりもずっと苦しそうなのかしら。人を愛するって、そういうことなのなしら。
大切なものは、自由の足枷になるのかしら。愛は、不自由なものなのかしら」

「……トキちゃん、」


「なら、私はそんなもの、要らない」


それは冗談だったのだろうか。嘘吐きな彼女の、いつもの嘘だったのだろうか。
不自由な境遇に置かれた彼女の、精一杯の強がりだったのだろうか。それとも、心からの言葉だったのだろうか。
いずれにせよ、その言葉は今までのどんな音よりも凄まじい鋭さでダイゴの心を抉った。
彼女を理解したい、彼女を知りたいと願っていた。この少女に、抱く筈のない感情を抱き始めていた。

そんなダイゴにとって、彼女のそんな拒絶の言葉が、非道な裏切りのように感じられたのだ。

嘘だと言ってほしかった。冗談ですよと笑ってほしかった。
しかし常に笑顔を絶やさなかった彼女の、冷たく荒んだ目がそれを許さなかった。

この少女は何に対して怒りを露わにしているのだろう。何が許せないというのだろう。
きっと最終兵器を作った男でも、その兵器を利用した男性でも、その男性に焦がれた少女でも、欲張りだという彼女の「友達」でもない。
勿論、彼女の怒りの火種となったのは、彼等のような、自由を手にしながらにして苦しみ続けている人間だったのだろう。しかし、それは今の怒りの本質ではない。

きっと彼女は、彼女自身のことが許せないのだ。
不自由な彼等の世界に溶け込むことに、慣れすぎてしまった自分が許せないのだ。
順応することを選び、彼等を騙してしか「自由」を得られない自分を疎んでいるのだ。

やがて彼女ははっとしたように目を見開き、いつもの笑顔を見せて微笑んだ。

「ごめんなさい」

「……いや、謝る必要はないんだ」

「いいえ、子供っぽい八つ当たりをしてしまいました。本当にごめんなさい。ご気分を悪くされましたよね」

違う、とダイゴは首を振った。
『ご気分を悪くされましたよね。』
そんな、完璧に紡がれた美しい、丁寧な言葉でさえも、ダイゴの心を抉るに十分な威力を持っていた。
ダイゴにとって、自分に無関心を貫き通されたことも初めてであったが、自分を拒絶されたこともまた、初めてだったのだ。

誰かに関わろうとするとき、誰かに踏み入ろうとするとき、人は傷付く。傷付けられる。
それは、彼等の無意識の反抗なのだ。
「これ以上立ち入らないで。さもないと貴方が傷付く」彼等の拒絶は、そうした警告の意を含んでいるのだ。

ダイゴや少女が生きる世界において、そうした警告を無視して更に相手へと立ち入ろうとする行為は禁忌に等しかった。
拒絶という名の警告は「貴方は禁忌を犯そうとしています」という意味も含んでいたのだ。
だから、絶対にそれ以上に踏み込んではいけない筈だった。それは角の立たない付き合いをするための社会でのマナーだった。
故に少女のそうした、拒絶と捉えるに容易である発言に、ダイゴは踏み入ることを許されてはいない筈だった。
大人しく身を退き、これ以上関わらないことがマナーであり、礼儀でもある筈だった。

しかし、それでも関わり続けることを望むのなら、決してその拒絶に従ってはいけない。
傷付くことを了承した上で、もう一歩、踏み込まなければならない。

トキちゃん、ボクに気を遣わなくてもいいんだよ」

「ふふ、面白いことを言うんですね」

「ボクは君のように冗談が上手くないからね。今の言葉は本心だ。……これからは、ボクに対して敬語を使うのをやめてくれないか?」

ぎこちなく瞬きをする彼女は、もう笑ってはいなかった。


2014.12.21

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