ルネシティは、大昔に落下した隕石によって生まれた島のクレーターにある。
周りは高い山に囲まれていて、町の外に出る為には、空を飛んで山を越えるか、或いは海底に潜って水中から外を目指すしかない。
その交通の不便さから、何かと外界から遮断されがちだ。
山の一部を削って、海上からも行き来できるようにしよう、との意見もたまに聞くが、それが実行に移されたことは未だ嘗てない。
ダイゴにはその理由が、この町の空の美しさにあるような気がしてならなかった。
周りの山を少しでも削ってしまえば、その美しさは失われてしまうからだ。
エアームドは、ルネの中心にある大木の前へと降り立った。
ダイゴが促すより先に、ひょいとその背中から飛び降りた少女は、きょろきょろと辺りを見渡して「静かな町ですね」と呟いた。
「この町には、目覚めのほこらと呼ばれる神聖な場所があるからね。ホウエン地方では割と有名な場所だけれど、一般の観光客の立ち入りは許可されていないんだ」
「そうなんですね」
「だから観光名所としてはあまり知られていない。でも、ボクはこの町が好きだよ」
ダイゴは久々に訪れたルネの町を見渡して、そう答えた。
この町には、ダイゴの友人が住んでいる。今はジムリーダーを務めている彼とは、幼い頃からの知り合いだ。
ポケモンバトルにポケモンコンテストにと、多彩な分野でその頭角を現していた彼のことを、ダイゴは尊敬していた。
天才肌であった彼は、ダイゴの想像の斜め上を行く信じられないような発想をすることもあったが、それも含めて彼の愛嬌であり、魅力なのだろう。
「さあ、トキちゃん。空を見上げてごらん」
彼女は言われるがままに上を向き、その目にルネの青い空を映した。
「……」
この町は、隕石のクレーターによって出来た町だ。クレーターの高い淵が、ルネと外界を隔てている。
上を見ると、クレーターの淵が視界を遮り、空の全てを見ることは叶わない。
だからこそルネの空が最も美しいのだと、不完全な丸い空は見る人を不思議な気持ちにさせるのだと、ダイゴは友人からよく聞かされていた。
彼女はその光景を目に焼き付けるように、ルネの空を見渡して沈黙していた。
ダイゴもそれに倣い、ルネの空を見上げてみる。雲一つない快晴を、クレーターの淵が丸く切り取っていた。閉じた宇宙は悉く平穏で、静かだった。
「この町では、空は果てしなく続くものではないんですね」
その瞬間の彼女の笑顔を、ダイゴはどう表現すればいいのだろう。
「綺麗、とても綺麗です。……けれど少し、悲しいですね」
歓声を上げると思っていた。先程のように、その顔にぱっと花を咲かせてくれると思っていた。
ダイゴのそんな期待とは裏腹に、彼女はその笑顔のまま、少しだけ悲しそうな色をその目に宿したのだ。
自分が彼女の喜ぶ顔を見たいと思っていたことに気付かされ、ダイゴは狼狽する。
自分はこの少女のことを、確かに知りたいと思った。不可思議で自身を煙に巻くような物言いばかりする彼女を理解したいと思った。
それだけである筈だった。そこにあったのは純粋な好奇心である筈だった。
しかし、彼女を喜ばせたいと思っていた自分がいたのだ。この少女に、喜んでほしいと思っていた。
ダイゴが美しいと思ったその空を、彼女と共有したいと願ったのだ。
今、自分の心が少しだけ曇っているのは、きっと、その願いが叶えられなかったからだ。
「私の、中庭から見る空に似ています」
「!」
ダイゴは驚きに目を見開き、そして彼女の笑顔が僅かに曇った理由を知る。
自由を求める彼女に、この空は狭すぎたのだ。
「でも、この町の人たちは、こんな狭いところに好んで住んでいるんですね。他にも、便利で自由な町は沢山ある筈なのに、この町を選んだんですね」
彼女はふわりと微笑む。
「世界って、面白いですね」
それはきっと、何気なく放たれた言葉だったのだろう。
しかしそれ故に、その音はダイゴの心に深く突き刺さった。
『もしかしたら、私に似ている人なんじゃないかなって。堅苦しい大人の世界に、上手く溶け込めていない人なんじゃないかなって。』
彼女はダイゴのことをそう判断していた。
彼女の言う「堅苦しい大人の世界」を把握している側のダイゴには、彼女の「溶け込む」という言葉の意味がよく理解できた。
それは、大人の社会に自分の価値観を合わせるということだった。
彼等の価値観は一様で、思惑も大抵の場合、揺らぎがない。
均一なその世界は、ダイゴにも少女にも、酷くつまらないものに感じられていたのだ。
そんな世界で生きてきた彼女は、知らなかったのだろう。
世の中には驚く程に多くの価値観が存在していることに、数多の価値観が混在し、世界の色が入り乱れていることに。
自らが「家の中庭」を連想させ、そこに自由の欠如を見出して悲しい気持ちになった、この空を、また別の人は好み、この町で住むことを選んでいる。
誰かが好んだそれを、他の誰かの同じように好むとは限らない。
それは当たり前のことで、そのことは勿論、少女も知っている。
しかしその価値観のままに、自分の思いのままに堂々と選択ができることは、少女にとってもダイゴにとっても、あまりにも「眩しい」ことだった。
大人の価値観に合わせ、彼等に歩幅を揃えて歩き、彼等に隠れてしか、自分の思いのままに動くことのできなかった彼女には、この自由な世界は眩しすぎたのだ。
そこにはある種の羨望と諦念とが入り混じっていた。だから彼女は悲しそうな顔をしたのだろう。
自分も彼等のように自由でありたいと願いながら、そうあれない自分の境遇を知っている。自分の置かれた立場を解っている。
『世界って、面白いですね。』
その「面白い」世界に、自分は在れないことを、知っているのだ。
「君は、」
「どうしたんですか?」
「いや、その……」
ダイゴはその沈黙を破ろうとして、しかしそれに続く言葉を思い付けずにいた。
その、いつも絶やすことのない笑顔ですら、彼女が住む社会の中で培った処世術だとでも言うのだろうか。
彼女は自由に焦がれ続けたまま、その自由を手にすることはないのだろうか。
『見ず知らずの、今日会ったばかりの相手に、そんな感情を抱くことができますか?』
何故か、その言葉が再びダイゴの脳裏を掠めた。
「ありがとうございます」
しかし彼女はドレスの裾を少しだけたくし上げ、言葉を紡げないダイゴにそっと微笑むのだ。
そのドレスが、エアームドの翼で擦り切れ、裾が破れていることすら、彼女にとっては楽しいことなのだろう。
それは彼女の冗談であり、嘘だと思っていたが、きっとそれだって、彼女が手にすることのできない自由の象徴なのだ。
彼女は自由で在れない。だからこそ、そのドレスを破くのだ。
「私、この景色が好きですよ」
「……トキちゃん、こんな時に嘘を吐かなくたっていいんだ」
「ふふ、そうでした。私は嘘吐きでしたね」
自称「嘘吐き」の彼女はそんなことをうそぶいてクスクスと笑う。
『見ず知らずの、今日会ったばかりの相手に、そんな感情を抱くことができますか?』
抱けない。抱けるはずがない。断言できていた筈のその答えが揺らぎ始めていた。
2014.12.20