ep:鎧と冠のカーテンコール

「あなた本当は、ワタクシの恋人で在りたいなんて思っていないんでしょう」

 本日の特訓もつつがなく終了。彼女の連勝記録は絶えることを知らない。一体これまで幾つの勝利をポケモン達と共に得てきたのか、おそらく彼女自身も数えられていないだろう。
 彼女の強さを証明するために多くの言葉は不要だ。「無敗」それだけあれば事足りる。そのシンプルな、最強の単語を代名詞にできる彼女に初めての敗北を叩き付ける相手は誰になるのだろう。自分であればいいとセイボリーは思う。けれども同時にそんなことはあり得ないと分かってもいる。そのような馬鹿げた自惚れは、彼女の一匹目を再び倒せるようになってから抱くべきであろう。だから彼はそうした夢ではなく、現実を彼女へと突き付ける。バトルコートの中央でウーラオスに労いの言葉をかけていた彼女は、その言葉を背中に受けて弾かれたように振り返る。紅茶の色はただ真っ直ぐにこちらを見据えている。

「よく分かったね」

 探偵とは暴くために在るものであり、暴かれるために在るものではない。だからこそ彼女は見抜かれる側に回るとにわかに当惑する。それが分かっていたからこそ端的に、シンプルな追及に努めた。バトルではついぞ勝てない彼女に一矢報いるためであった。
 けれども連勝記録をまたひとつ増やして昨日よりもまた強くなった彼女は、そうした矢を受けても顔色を変えることさえせず、実に呆気なく肯定の意を示して困ったように笑うのみ。セイボリーが放った渾身の一矢は、探偵という名の冠に勢いよく弾き返されてしまう。その折れた一矢を逆手に持って、今度は彼女が笑顔で振りかざしてくる始末である。

「君という素晴らしい人の未来は、私に占有されるような軽いものであってはいけないと思っているんだ。『恋人』で在り続けると、その名前自体が変化への牽制になりかねないだろう?」
「……今更、ワタクシが、あなた以外の人にどうにかなるとでも?」
「あはは、違うよ。別の人と好きになれと言っているのではなくてね? 君の未来に控えているであろう、君自身が成長できる機会を減らしたくないんだ。これから更に広がっていくはずの君の世界に『恋人』で蓋をしてしまいたくないんだよ」

 こういうところだ、とセイボリーは唇を噛みたくなる。これは彼女が骨を差し出してきたあの夜に、初めて気付いてしまった彼女の悪癖である。彼女はセイボリーのことが好きで、彼の役に立ちたいと心から思っている。だからこそこのようなことを平気で言う。セイボリーの成長、彼が夢を叶えるための在り方、それを最優先に考えた発言をする。セイボリー自身の感情など一切考慮せずに。彼女自身のことさえ一切考慮せずに。

「君も私もこれからあらゆる場所であらゆる出会いを為すんだ。そうやって強くなっていくんだ。そこに『恋人』があると、君はひどく安心してしまうだろう。『もうこれだけでいい』と少なからず思ってしまうだろう」
「この名前がワタクシを堕落させる、あるいはワタクシの足を引っ張ることになりかねないと、あなたは言っているんですか?」
「……君の夢を叶えるための足枷になりかねないものは、早急に芽を摘んでおくべきだよ。それがたとえ、君の好きになった相手であったとしても」

 けれどもあの夜のように、その「配慮」も「献身」もとんだ的外れだ、と言い返すことができなかった。彼女との間に結んだ「恋人」という名前、それによりセイボリーが絶対的な平安を得ていたのは紛れもない事実であったからだ。
 確かにセイボリーはここ数日、とても安心していた。浮かせる側の人間であるはずなのに、情けない話であるが、浮かれていた。もうこれで大丈夫だとさえ少なからず思ってしまった。夢は、叶えられていないままだというのに。

「この名前が、周囲への牽制になるのは大いに歓迎するところだよ。君が他の誰よりも私を優先して『1分』を作ってくれようとするのはとても、嬉しい。その優先権をこの名前で得られることを本当に喜ばしく思うよ。でもこの名前を、君の変化への牽制にはしたくない。君がこんなもので停滞することを私は望まない」

 過度の愛着が人を堕落させる。彼女はそうした趣旨のことを言わんとしているのだ。理解できる。概ね正しい。これから夢に向かって険しい道を歩まなければならないセイボリーにとって、足に絡まる蔦は少なければ少ない方がいい。その理屈は理解できる。理解できる。
 けれども同時にセイボリーは「独りになること」を恐れている。偶に、ごく偶に寂しいと感じさせるその毒、孤独とでも名付けられたその毒。それを中和させてくれる何かを、無意識のうちに手で探ってしまうような人間である。その「何か」が彼女という最上の形で手に届くところにあるのに、それをようやく手にしたというのに、今更、手放して独りになるだけの気概など持てやしない。

「だからセイボリー、君だけは私のことを恋人だと思わないで」

 そんなことをいきなり懇願されたところで、承知しましたと快諾し、気丈に受け入れられる程に強くなどなれやしない。
 だって、正解だと思ったのだ。彼女があんな風に笑うから、それこそが、あの日の正解であると。

「そんな顔をしないでほしい。君に、孤独を強いている訳ではないんだよ」
「……あなた、やはり『テレパシー』の特性をお持ちのようですね」
「ふふ、図星かな? ねえ、不安にならなくていいんだ。恋人面をして君に凭れる気が更々ないというだけで、私はこれからもずっと君と一緒に行くよ。寂しい思いなんてさせない」

 相変わらず口がお上手なことだと思った。けれどもそのお上手な言葉により、自身の不安がゆっくりと奪い取られていく様をセイボリーは感じていたから、悪態付くことさえできずにそのまま俯いた。彼女は静かに笑いながらセイボリーの髪を一房だけそっと握った。縋りたい相手にそのようなささやかさで縋られてしまい、祈るように微笑まれてしまい、セイボリーはもう、どうしていいか分からなくなってしまう。

「ねえ、私達、落ち着くにはまだ早すぎると思わないかい」

 分からないからそのままに、頷くことで肯定の意を示してしまう。

「大丈夫だよセイボリー。私は変わらず君のことが好きだ。何も変わっていないよ」
「あ、あなたは! この期に及んでもワタクシのことばかりだ! あなたはどうなんです。あなたは、ワタクシにだけ『恋人』だと認識されない、などという状況に耐えられるんですか? あなたは、大丈夫なんですか?」

 勢いよく顔を上げて思わず捲し立ててしまう。彼女は驚いたように目を見開く。彼の愛した紅茶の色、午後6時に西の空へと流し込まれた夕焼けの色。透き通ったそれがすっと細められる。知っている。至福を極めた目の細め方であるとセイボリーには分かっている。

「ええ、大丈夫。私は、何があっても大丈夫」

 右手を喉元に当てて、澄んだコントラルトで静かにそう告げる。王女めいたその気品に、探偵という冠はいよいよ似合っていて、セイボリーはこの瞬間、またしても彼女に心臓を取られていく。

「私は、恋人という名前よりもずっと素敵なものを貰っているから、君からのその認識を失ったところで、どうということはないんだよ」
「ホワット? 何かワタクシ、あなたに差し上げましたか? まさかあのハンカチのことを言っているのではないでしょう?」
「ああ、あれも最高に素敵だった。君は、私にも分かっていなかった私の望みをいとも容易く、幾つも叶えていくから、うん、本当にかっこいいね」
「なっ!」

 あまりの動揺に、頭上へ浮かせていたボールの動きが狂ったのが分かった。視線をそちらに遣った彼女がクスクスと笑いながら「君達の方が大丈夫じゃなさそうだね」などと小さくからかってくる。大丈夫じゃない。ええまったくもって大丈夫ではない。いきなり飛んでくる称賛の受け止め方がセイボリーはひどく下手である。褒められ慣れていないというのもあるし、その称賛の発信源がこの少女であるのだから、その動揺は尚の事、大きくなる。何を思ってそんなことを、と糾弾に掛かろうとした時、彼女が歌うようにこう告げた。

「貴方の1分、これからずっとわたくしに下さいませんか」
「!」
「君の水色がつくる1分は永遠だ。だから私はもう、これから続く私の時間が未来永劫、全て君と共に在るものだと信じているんだ」

 君があの日くれたのはそういうものだよ。そう付け足して至極楽しそうに笑う。彼女があの時、至福を示したのは「恋人」の方ではなく「永遠」の方だったのだと、そう認識してセイボリーの頭の中が真っ白になる。

 これではもう、致し方ない。もう「恋人」などという名前に拘泥してなどいられない。その名前の認知を失うことに怯えていた数分前の心地が嘘のように、今の彼は気概と決意に満ちていた。
 何故ならあの日、セイボリーの告白の中に彼女が見出したのは、恋人よりもずっと長く、ずっと深く続いていく幸いであったからである。この場で示された彼女の、あまりにもうつくしい強欲に、応えない訳にはいかなくなってしまったからである。彼女から求めてきたものなど、あの花の形をした結露の他には何もなかったように思われていたのに、この期に及んでこの人はこんなにも大きなものを求めてきた。長い、永い「1分」を乞われていたのは、セイボリーの方だったのだ!

 ああ、と彼は思った。こんなことをしている場合ではない。早く特訓を再開しなければ。もっと力を付けなければ。強くなりたい、あなたのように。相応しくなりたい、冠の似合うあなたに。そしていつかあなたを、その未来永劫続く「1分」ごと護れるようになってみせるのだ。セイボリーはそう誓った。声に出さずとも、この誓いはそれこそ絶えず「1分」の中に在り続けるのだろうと確信していた。

 きっとなれる。きっとできる。この人に信じられているワタクシになら、それができる。

「この言葉、大事に取っておきたいから皆の前で明かすことはしないけれど、本当に嬉しかったんだよ。プロポーズの言葉みたいで」
「ええいもうそれでもよろしい!」

 やけになって穿ち返した一矢を、彼女は今度こそ正面から受け止めて笑った。冠に弾かれることなく喉元へと突き刺さったと思しきそれを、きっと彼女はおいそれと引き抜いたりしないだろう。彼女と彼しか知らない傷口である。無数にある「二人だけ」の揃い物の一つに過ぎない、けれどもかけがえがないものである。

「さて、もう少しこの余韻に浸っていたいけれど、そろそろ本土に出かける時間だから行ってくるよ。今回は誰にも招待状を出していないから、誰が参加しているのか、誰に当たるのか全く分からないな。まあ、誰が来ても完璧に勝ってみせるよ」
「ハイハイ! 気を付けていってらっしゃいな。もし遅くなったとしてもご心配なさらず。一人で食べる夕食は味気ないでしょうから、ワタクシが待っていて差し上げますよ。それと……あの悪趣味な挨拶はそろそろおやめになっては?」

 おや、と声を落として彼女は驚いたように目を見開く。何のことを言われているのか理解している目だ。セイボリーはじっと目を細めて軽い糾弾の意を示す。何のことだか、ととぼけるように彼女は大きく肩を竦めて視線を逸らし、古典的に口笛など吹いて誤魔化している。あこれ、その道化めいた挙動はワタクシの十八番ですよ。そう告げる代わりに小さく笑う。彼女も視線を戻して、笑ってくれる。

『それでは皆様さようなら! 明日から、よい一日をお過ごしください』
 彼女のバトルを観戦する「お客様」と別れを告げるとき、彼女は決まってそう口にする。トーナメントバトルの中継シーンでも幾度となく聞いた台詞であるし、エンジンシティで戦った折にも同じ内容のことを口にしていた。
 わざわざ「明日から」などと間に挟む意味について尋ねると、実に歪な、けれども実に彼女らしい、このような回答が返って来た。これがつい昨日のこと。それに対してセイボリーが、半ば我を忘れた大声での反論を為したのも、同じ日のこと。

『私と会ったことで皆様の今日という日が台無しになられたかもしれないから、せめて明日からは皆様の時間がより上質なものとなりますようお祈りしております、という意味なんだよ、あれは』
『はあっ!? お馬鹿ですかあなた! あなたは自身のことを何も分かっていない! やっぱりとんだ的外れだ! ワタクシにしてみれば今日だって! ……今日だって、あなたのせいで素晴らしい日になるに違いないのに!』

 彼女のこのような、少し、ほんの少しだけ臆病で卑屈なところは、完璧な彼女を崩す致命的な欠損であるはずなのに、それをこうして晒す彼女は不思議と、美しく見えてしまう。何故なのかはセイボリーには分からない。何も分からない。答えを知っているのはきっと、彼女の言葉を借りるなら「紅茶の色をした雷鳴」のみなのだろう。

 踵を返し、彼女はバトルコートを駆けていく。小さく気高い探偵はきっと、その冠を煌めかせて同じ言葉を叫ぶだろう。セイボリーには及ばないが彼女も強情だ。きっと挨拶は変わらない。不適正なままだ。でも彼女にもう道を逸れることへの恐怖がないのであれば、きっとそれはそのままであるのが彼女らしい。何も問題はない。
 果たして彼女は道場へ続く細道に至る直前で振り返り、「彼等への挨拶は変えないよ!」と口にした。けれどもそこはやはりどこまでも彼女らしく、セイボリーが為した予測を大きく飛び越えてきた。

「ねえセイボリー、明日も一緒に、素晴らしい日にしようね」

 ええ、あなたとならきっと、容易いことに違いない。
 そう答える代わりに大きく手を振って送り出した。彼女は今度こそ振り返らなかった。夜には戻ってくると分かっているから、名残惜しくはあったけれど、寂しくはなかった。その背中が道場の中に消えるのを見届けてから、セイボリーはバトルコートをぐるりと見渡した。
 彼女の愛したポケモンバトルの桃源郷、神聖なる儀式の場所よ。見ていてほしい。見届けてほしい。
 揃いの装甲たるこの鎧とあの冠が、その魂ごと懸命に足掻き続ける様を、どうか明日も。

2020.7.12

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