1-3:そんなこんなに誓う夜

 沼から這いずり出てきたヌオーのような緩慢な足取りで、私と彼は帰り道を歩いた。彼の帰りを待つために道場の外へと出てきていたと思しきミツバさんは、私達に駆け寄ってくるなりそのびしょ濡れの姿を認めて、呆れと焦りと憤りの入り混じった、絶妙に険しい笑顔を浮かべた。私達に最早、言い訳をするだけの元気は残っていなかった。なにせ道場へとたどり着く前に、私は10回、彼は11回くしゃみをしていたのだ。紛うことなき風邪であった。あの冷たい水辺に長い間、座り込むようにしていて、私に至っては全身に水を被った状態のままであったのだから、こうならないことの方がきっと不自然であったのだろう。

 バタバタと転がり込んだ道場には、夜遅いということもあってか人の気配が微塵もなかった。騒ぎにならずに済みそうだということに安堵しつつ、ふわふわのバスタオルを受け取った私は、着替えてシャワーを浴びるようにと促されて休憩室へと押し込まれた。水を吸い過ぎて随分と重く冷たくなった衣服を脱ぎ、ほっと一息ついていると、扉の向こうから「あんたはそのままでいなさい、話があるわ」というミツバさんの声が聞こえて、私が呼ばれた訳でもないのにひゅっと心臓が締め付けられるような痛みを覚えた。
 マスタード師匠の妻である彼女の「実力」は折り紙付きだ。一対一で叱られようものならただでは済まないだろうことは容易に想像が付く。叱る対象が二人に増えたところで彼女が手加減するとは思えないけれど、それでも一対一よりも一対二の方が状況としてはいくらかマシなはずだ。そうした考えが私の足を動かした。

「私がセイボリーを煽ったんだ! それに、水辺に長く座り込んでいたのは私の意思だよ、彼は私に付き合わされていただけなんだ、彼のせいじゃない」

 ドアを開け、勢いよくそう告げた。自分が下着姿であることに、その場にいた三人の中で私が最後に気付いた。セイボリーはいつもの甲高い悲鳴を上げて眼鏡を曇らせ「ワタクシ何も見ていません、見ていませんから!」などと叫んで部屋の隅へと走り去った。ミツバさんは慌ててこちらに駆け寄り二枚目のバスタオルで私の体を隠しつつ「ユウリちゃん、あなたにも別件でお話が必要みたいね」と恐ろしく笑った。別件で、というのが二人して風邪を引いたことではなく、下着姿で人前に飛び出してくるというマナー違反を責める内容であることを察した私は、自らの軽率な行為を反省しつつ、それでも彼女の説教の対象が一時的にセイボリーから逸れたことに安堵した。

 いつもより一度だけ温度設定を高めにしたシャワーをざっと浴びて、髪を乾かし、濡れていない服に袖を通してからタオル片手に休憩室を出る。セイボリーの姿は見当たらなかった。彼も男性用の休憩室でシャワーを浴びているのだろうと考え、あの長い髪を乾かすのには時間が掛かるはずだと強引に理屈付けて納得する。私がシャワーを浴びている間もミツバさんに一人叱られていたのでは、と嫌な想像を巡らせていてはキリがなかった。
 ダイニングの方角から「ユウリちゃん」と名前が呼ばれる。向かえばミツバさんがテーブルにミルクティーを二人分、用意してくれていた。お礼を言って席に着いたけれど、ミツバさんはもう一つの紅茶が置かれた席、普段はマスタード師匠が使っているそこには座ることなく、キッチンのシンクに背中を預けたままにこにことしていた。どうやらこの二人分のミルクティーは、私と彼女で飲むためのものではなかったらしい。
 私は彼女の説教を受ける姿勢を取った。背筋を正し、真っ直ぐに彼女を見上げて沈黙した。

「それで、どうだった? あの子からの告白は」
「告白?」
ユウリちゃんのウーラオスに勝ったら告白してみせるって、何日も前から意気込んでいたのよ。まさかこの期に及んで怖気づいて何も言えなかった、なんてこと、流石にないでしょう!」

 そして彼女が笑顔のまま、至極楽しそうに告げた言葉は、……このように、おおよそ説教とは言い難いものであったから、私は拍子抜けてしまった。

「あんた達が一緒に帰って来たからすぐにピンときたのよ。大方、仲直りなんてすぐに終わらせて、恋人宜しく水を掛け合うとかいう甘酢っぱい遊びをして帰って来た、ってところでしょう。お説教は明日に回してあげるから、今夜は沢山、此処でお喋りしていらっしゃいな」

 くしゃみをしながら私は首を捻った。彼女の言っていることは、見当違いにも程があるように思われたからだ。
 私達は「仲直り」をすることに膨大な時間と言葉を費やしたし、もしかしたら今も仲直りが完了していない可能性さえある。それに、私の頬に全力で水を打つ行為、私を付き飛ばして星の散る水辺に尻餅を付かせたあの行為を「恋人宜しく水を掛け合うとかいう甘酸っぱい遊び」だと考えるのは無理がありすぎる。私達は文字通り、身を削るように会話をしていた。思いの衝突と理解に苦しみ、泣きそうになりさえした。あんなにも殺伐としたやり取りが恋人のやり取りであるはずがないし、そもそも彼は、私のことを好きだなんて一言も言っていない。
 けれども彼が「告白してみせる」とミツバさんに宣言していた以上、何かしらの内容を私に伝える気でいたことは確かだった。今夜の会話の中、それは既に放たれてしまっているのか、それともまだ口にしていないのかさえ分からなかったけれど、「ウーラオスに勝ったら」などという願掛けを必要とする程に、それは彼にとって重要なことであったらしい。それが「何」なのか、既に口にしていることなのだとすれば「どれ」なのか、それを「知らずにいる」ことはとても失礼なことで、とても残念なことのように思われた。今すぐにでも知りたい、とさえ思った。

「ごめんなさいミツバさん。私の頭が足りないだけなのかもしれないけれど、貴方の言うところの『告白』の内容がどれだったのか判り兼ねているんだ。後で彼に、確認してみることにするよ。それだけの想いで話してくれようとしていたことであるなら、私もちゃんと認識して、大事にしたい」
「え? 告白がどれだったか分からない……?」
「でもどの内容だったとしても、かたく身を守ったりせずにちゃんと向き合うつもりだよ。この世の何よりも真剣な心持ちでいたいんだ、彼に対しては」

 本気で向き合う。真剣な心持ちでいる。そのための決意を結べたという点において、私が今夜、彼と揃いの風邪をあの水辺から貰って来たことには意義があったのだと思いたい。

 ミツバさんは唖然とした表情で私を見ていたけれど、真剣、という単語を私が出した途端、にわかに嬉しそうな表情になって、ぽんぽんと私の肩を強めに叩いた。スキップでもするような軽い足取りで出ていった彼女を視線で見送り、ミルクティーから立つ湯気をぼんやりと見つめていると、男性の休憩室がある方角からバタンと扉が鳴った。おや、と私は思った。あれはどう考えても扉が「閉まる」音だったからだ。
 続いて、バシッという強めの音と、セイボリーの「おゲェッ!」という悲鳴。どうやらミツバさんが盛大に彼の背中を平手打ちしたらしい。きっと盗み聞きを咎める類の拳だ。私はそう確信した。

 楽しそうに笑いながら道場の扉を開けて出ていったミツバさんと入れ替わるようにして、長い髪を完璧に乾かした彼がダイニングへとやってきて、私の、角を挟んで隣の席にある椅子を引いた。机の上、ミルクティーの前に両手を組んだ状態で置き、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
 私が「ねえ、告白とは?」と追究するまでもなく、彼はそのまま「実はですね」と、告白の一部となり得るのであろう言葉を紡ぎ出してゆく。

「ワタクシは、あなたが追いかけてきてくださることを確信して外へ出たんですよ。ミセスおかみに強く止められたとしても、その制止を振り切って、あなたはワタクシの前に立つだろうと」
「……ええ、そう、そうだね。君の言う通り。君は私のことを本当によく分かっている」
「そうでしょう? そのように確信したにもかかわらず、あなたが来てくださったことを喜んでいたにもかかわらず、ワタクシはあのように、全力で拗ねていたんですよ」

 質が悪いから?
 そう聞き返そうとして、代わりに出てきたのはくしゃみだった。慌ててタオルで顔を塞いだ。彼も同じようなくしゃみを服の袖で隠してから、困ったように笑った。
 お湯に温められたのとも、照れている時ともまた違う火照りが顔にぽっと灯る。ふるり、と僅かに悪寒を覚える。これは熱が上がってきているかもしれないな、などと他人事のように思う。そう、他人事だ。熱が上がった私、休息を必要とする私など最早他人とみなして差し支えない。今はミツバさんの計らいで作られた、彼とゆっくり話を作るこの時間を大事にしていたい。風邪などに、盗られてしまう訳にはいかない。

「君がこれまで、沢山責められて、傷付けられてきた人であること、私は知っているよ。だから私は、君の過去にいる人達と同じことをしたくなかった。君にこれ以上辛い思いをしてほしくなかった。君を傷付けたくなかった」
「……ええ、あなたの振る舞いが全て、善意から来るものであったことは理解しています」
「目障りだと思われたくなかった。君の役に立てるようになりたかった。君に目指してもらえるような私でいたかった」
「その気持ちも分かっているつもりです。どのような形であれ、ワタクシの尋常ならざる妹弟子に心を配ってもらえること、それは本当に嬉しかった」

 彼とて、闇雲に駄々を捏ねていたという訳ではなかった。何が配慮だ、などとあの水辺では怒鳴り散らしていたけれど、あれは私の想い自体を蹂躙する意図を含んではいなかった。
 彼は分かってくれている。私の下手な気遣いをしっかりと汲んでいる。汲み取って、受け取って、その温度を肯定した上で、それでも「欲しいものはこれではない」と言っているのだ。そういうことが言える人なのだ、私の、唯一無二の兄弟子は。

「でもワタクシは、あなたのそういうお上品な配慮では満足できなくなってしまったんですよ。なんて強欲なこととお思いになるでしょうが、なにせワタクシは」
「質が悪いのだろう? 私には負けるけれどね」
「……ええ、そうですね。あなたの言う通り。あなたも、ワタクシのことを本当によくご存じだ」

 私の言葉をなぞるように紡いで、彼はにっと笑った。随分と幼い笑い方だった。そういう笑い方もできる人であると私は既に知っていた。エスパー使いとは、物静かで澄ました表情の人ばかりだと勝手な想像を膨らませていただけに、この世の全ての感情表現を我が物としてもまだ足りない、という程に豊かな表情で思いの丈を表現してくれる彼には、出会った当初、いい意味でとても驚かされた。
 勿論これは、無数にある彼の魅力のたった一つに過ぎない。

「では今夜のことを踏まえて、訊こう。私は、君に対して何ができる? 質の悪い君は、もっと質の悪い私に何を求めてくれるの?」

 私の問いを受けて、ほら、彼の表情が劇的に変わる。昼を夜にするような、雨を晴れにするような、種を花にするような、魔法めいた神秘性で、彼は先程までの幼さを完全に排していく。たった一回の瞬きで、ゆるく溶けていた目はたちまち鋭くなり、神秘的で、それでいてどこか必死で懸命な視線が生まれる。
 そしておおよそ予想していた通りの言葉が、彼の視線と同じだけの切実さで飛んでくる。

「ワタクシと本気で向き合ってください。いつだって全力でかかってきてください。目を逸らしたり手を抜いたりしたら、先程以上のエスパーパワーで吹っ飛んでいただく」

 私はかたく目を閉じて沈黙した。彼はそんな私を責めなかった。彼の視線から逃れようと目を閉じるのはこれきりにしようと思った。そうした決意のもとに目を開いた。彼は待っていてくれた。

「君の矜持を、手酷く傷付けるかもしれない」
「そんなことは一向に構いません」

「私のことを、今度こそ本当に目障りだと思うかもしれない」
「そんなことはもう二度とあり得ません」

 なんて綺麗な言葉だろう。風を吹かせるような神秘性で私の懸念が奪い取られていく。鮮やかで、細やかで、美しくて、息苦しくなる程だ。
 あの水辺に出来た月筏を思い出した。あの筏に、私の衣服や髪に付いた花弁を加えてもらえたとき、私はどうしようもなく安堵し、歓喜した。けれども今の心地はあんなものの比ではなかった。彼の指による指揮が花弁をひとところへ流していく様も美しかったけれど、彼の言葉が私の懸念を押し流していくこの有様だって、あの月筏と同じくらい、いやそれ以上に美しかった。

「分かった。約束するよ。いつだって真剣な心持ちで君と対峙しよう。全力で君と向き合おう。君のためだけではなく私のためにも、これからずっと、そうしよう」

 彼の言葉には、彼の指先が為す指揮よりもずっと神秘的で強大な力がある。少なくとも私にとってはそうである。その力を信じてしまえば、これくらいのこと、まるで息をするような自然さで誓えるのだ。この確信があれば、もう何もかも大丈夫だとさえ思えてしまうのだ。

 彼は小さく、本当に小さく「ありがとう」と告げてから、ミルクティーの持ち手を指で摘まんだ。伏せられた目は本当に穏やかなもので、私も本当に穏やかな心地になれてしまって、これ以上、何も望むべくもないのではとさえ思えてしまって。
 ……だから、油断していたのだ。

「ワタクシの気が済むまで折ってしまえなどと、腕を差し出してくるような真似も金輪際許しませんよ? 配慮の度に骨が折られる憂き目に遭うというのは……想像だけでもひどく、耐えがたいものだったのですから」
「耐えがたい? あの場合、折れるのは君の骨ではなく私の骨であったはずなのに?」
「……だ、だから! あなたが傷付くところを見たくないんですよ! あなたと同じだ! そんなことも分からないんですか!」

 穏やかな時間は1分も続かなかった。彼はティーカップを手放すや否や、ドン、とテーブルを両手で勢いよく叩き、立ち上がりながら捲し立てた。嵐のような変化だ、と苦笑しながら、私は彼の、もうすっかり慣れてしまった叱責を受ける。「理解が及ばなくて済まなかったね」と、「お分かりだと思うけれど私は随分と察しが悪いものだから」と、そうした言い訳を頭の中で考えながらミルクティーを一口だけ飲む。
 けれども私が口を開こうとした矢先、彼の言葉が先回りをして私の反論を容赦なく吹っ飛ばしていく。水辺で弾き飛ばされたあの時などとは比較にならない程の威力で。

「焦がれた相手だ! 好きになった人だ! 大事にしたいに決まっています!」
「!」
「あなたはどうやら『告白』を懺悔や叱責の類と混同しているようなのではっきりと言わせていただきますがね! 普通、男性が女性にする『告白』というのはこういうことを指すんですよ! 本気のあなたと対峙した上であなたを好きだと言いたかったんだ! そんな相手はもうずっと、あなただけだ! あなたでなければいけなかったんだ! いい加減に分かってくださ……」

 自分から「告白」という単語を出すなんて、先程、私がミツバさんとしていた会話を盗み聞きしていたことを認めるようなものだ。扉の閉まる音と彼の悲鳴で粗方察しはついていたけれど、罪の自白がこんなにもはっきりと飛んできてしまうと、やはり愉快だと思わずにはいられない。
 ……ああ、違う、そうではなかった。そうではなくて、愉快だとか思っている場合ではなくて。

「……」

 中途半端なところで言葉を詰まらせ絶句し固まる彼、今この人は何と言ったのだったか。癇癪紛いの怒声の中に、彼はものすごく致命的な内容のことを織り込みはしなかったか。この二人の間に流れる空気を、これまでとは全く別のものに変えてしまうおそれのある、致命的で、劇的な何かを。

「あの、もし。ちょっとすみません」
「……何、かな。セイボリー」
「ワタクシ、先程から、あなたと同じことを同じように考えていて、そのワタクシがあなたのことをこんなにも好きなのですが」

 顔が熱い。でももうくしゃみは出てこないし、悪寒だってしない。同じように顔を真っ赤にする彼を見上げて、私も同じように固まる。目を逸らすことなどできやしない。
 同じことを同じように考えていると彼は言った。その通りであった。微塵も否定できなかった。私達は同様に質が悪い。私達は同様に、互いへ傷が付くことをこの上なく恐れている。私達は同様に、互いのことをとてもよく分かっている。分かるようになってしまっている。全力で、本気で、真剣な心持ちで向き合うその姿勢だって、つい先程、二人の間で揃えたばかりだ。同じだ、どこまでも。

「あなたもしかして、ワタクシのことを好きだったりします?」
「よく分かったね。でも……ふふっ、遅すぎるな、お互いに」

 ならば、彼が為したその驕りだって、私の真実であるに違いないのだ。

「私が君のことを好きだなんて、そんなこと、もうずっと前からそうだったよ!」

2020.6.25

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