Case9:マグノリア
「貴方のしたいことが見つかったのなら、何よりです」
甘い植物の気配が、西日の差す温室から漂ってくる。手元のティーカップから立つダージリンのささやかな香りに、そっと、そっと溶け込んでいく。
今日も素晴らしい出来だ。マグノリアは目を細めて無音のうちに笑った。
美味しい茶葉は、この広い世界を探せばごまんとある。けれどもこの贅沢な香りの混ぜ方は此処でしか味わえない。
嗅ぎ慣れない者にとっては、この強い芳香の組み合わせはいっそ不快であるのかもしれない。それでもマグノリアはこれに愛着があった。
他者がどのようにこの場所でのダージリンを品評しようとも、彼女にとっては此処で飲む一杯が至上であり、愛すべき飲み物に違いなかったのだ。
「それはどうだろう。したいこと、というのは今でも思いついていないんだよ」
「でも、戻ってくることにしたのでしょう。チャンピオンの席に、ガラルの頂点に置かれたあの椅子に」
「そうだよ。それが皆さんの求めることだったからね。今まで通り、皆さんの望みや期待に応えるべく足掻こうと思った。その覚悟がようやくできた。
つまりはそれが、私のしたいことだ。そういうことにしておいてほしい」
ティーカップの持ち手をその細い指で摘まみ上げ、ゆっくりと口に運びつつ、黒いニットベレーを被った少女は肩を竦めて笑う。
美味しいね、と簡素な称賛の言葉を紡いで、穏やかに紅茶色の目が伏せられる。
その狭まった視線でもしっかりとその存在を捉えられるように、マグノリアは白い封筒をテーブルの上、少女の眼前へと滑らせる。
「では、もうこれは必要ありませんね。わたくしが持ち続けるべきではないものでした」
彼女は眉を下げ、名残惜しそうにティーカップをソーサーに下ろした。
カチャリと、この静かな空間でなければきっと聞き逃したであろう、陶器のぶつかるごく小さな音が鼓膜をくすぐった。
うすく微笑みながら封筒を手に取り、裏返し、その封が未だ開けられていないことに彼女はひどく驚いたようであった。
弾かれたように顔を上げ、微笑みを湛えることを忘れてマグノリアを見つめる。マグノリアは彼女が先程そうしたように、軽く肩を竦めて笑い、穏やかに目を伏せる。
「遺書は「遺された者」が読むものです。貴方は最後まで誰のことも遺していきませんでした。ならばこの中身は誰にも知られないまま、貴方のところへ帰るべき。そうでしょう」
大人らしい上品な理由を緩慢に編み、「読みたくなかった」という利己的な恐れによる臆病は喉の奥へと隠して、マグノリアはそう告げた。
少女もまた、そうだね、その通りだと大きく頷き、そうした理由に聞き分けよく納得した風を作るのみで、マグノリアの隠した部分に手を伸べて触れてくるような真似はしなかった。
「貴方が生きたまま此処を訪れることを、ただ待っていたわたくしが言えたことではないのかもしれませんが」
「貴方を責めるつもりなんか更々ないよ。貴方にそんなものを押し付けた私こそ、咎めを受けるべきでは?」
「まあ、最後までお聞きなさい」
差出人も宛名も書かれていない、白い封筒。僅かに透けて見える字の重なり具合と封筒自体の厚みからして、おそらく便箋は3枚以上入っている。
彼女のことだ、きっとそこに綴られた字はひどく整った美しいものなのだろう。
その美しい文字で、ひどく惨たらしい懺悔を、黒い血を吐くようにそこへ落としていったに違いないのだ。
「貴方には人を愛せる下地があります。貴方は貴方が考えている程、狂った人間ではありませんよ。ただ少し、不器用で、慎重で、臆病が過ぎるだけ」
「……」
「インテレオン達のことはお好きなのでしょう。ポケモンを愛するトレーナーの姿が正しいものであると確信しているから、貴方は彼等を愛することを躊躇わなかった。
それと同じことです。貴方の愛に対する確信があれば、貴方はもっと勇敢になれる。そのためには貴方が、貴方のことを信じてやらなくては」
遺書、と形容して然るべきその手紙を、彼女は困ったように笑いながら鞄の中へ仕舞った。
家の引き出しの奥深くへ、大事に仕舞っておくつもりだろうか。それとも、細かく破いて冷たい海に流してしまうのだろうか。
あるいはポケモンの炎で燃やしてしまうかもしれない。そしてその灰を彼女は、飲み込むかもしれない。
ああ、それでも構わない。それが本当に、貴方の望んだことならば。
「……これの封を開けていないとは思えない程の、怖すぎる慧眼であらせられるね、マグノリア博士」
「わたくしくらい長く生きれば、貴方のこれくらいのこと、造作もなくできるようになりますよ。あと、60年くらいかしら」
「え? ……ふ、あはは! そうだね、そう、あと60年なんだね。私はてっきり『あと2年』と言われるかと身構えてしまったよ」
「2年? ユウリ、貴方の目にはわたくしが16歳に見えるのですか?」
その通りでございます、などと至極面白そうに肯定の言葉を紡ぐ、その旅路はやはり、彼女が自覚している以上に明るく喜ばしく、充実した、愛に満ちたものであったに違いない。
誰かに愛されたことのある人間しか誰かを愛することはできない、などという暴論を唱えるつもりは更々なかったが、
それでも、今回の件を通じて、いや今回の件がなくとも多くの人に愛された彼女が、様々な色や形を呈した愛を、痛みや苦しみを伴いながらもしっかりと受け止めてきた彼女が、
その愛めいたものを自ら差し出せるようになる日は、マグノリアの目には「そう遠くない」ように見えた。
勿論、そのような希望的観測を口にしたところで、この少女は肩を竦めて大仰に喜ぶばかりで、それを信じるようなことはしないだろう。
だからマグノリアはそれ以上を決して紡がず、少し冷めた紅茶の続きを楽しむことにした。
彼女の気が済むであろうあと数分の間、16歳、の少女の気分になってみてもいいかもしれない。そんなことさえ思いながら、世界一美味しい紅茶を喉へ通すのだ。
*
Case0:マグノリア
「死のうと思う。いい場所を紹介してほしい。何処で絶つべきか分からないんだ」
貴方のしたいことをなさい。チャンピオンになったばかりの少女にそう告げたのは数週間前のことだ。
その言葉を掛けたとき、飄々とした態度ばかりを見せてきた彼女が泣きそうに顔を歪めたことがどうにも気掛かりで忘れられず、マグノリアは再度彼女の家を訪れた。
けれども彼女は、何も問題ないよ、お気遣いありがとう、これからも頑張るから見ていてほしい、などと、模範解答を繰り返しつつ、
マグノリアが入ってきたばかりのドアを大きく開け、にっこりと微笑むばかりであった。
退出を促しているその動作に従い、彼女の家を出て下り坂を歩いていたマグノリアの、その僅かに曲がった背中に掛けられた、その声は、
その言葉の中身にそぐわない、まったくもっていつもの、明るく聞き取りやすく上品な調子で発されていた。
つまりそれは、彼女のそうした「絶望」が、彼女にとっては「いつものこと」であるということも意味しており、
マグノリアは僅かな驚きと大きな呆れを滲ませた表情の奥で、心臓が止まるのではないかと思える程度にはひどく驚愕し、狼狽えたのだった。
そうした動揺をおくびにも出さず、マグノリアは少女を手招きした。少女は僅かに躊躇った後で、小さく頷き、付いてきた。
二人並んで1番道路を歩いた。ブラッシータウンを抜け、2番道路を渡り、小さな橋を渡り、簡素な門をくぐり、自らの邸宅へ少女を招き入れた。
時刻は午前10時、温室に咲き乱れた花々が最も強く芳香を漂わせる時間帯だった。
少女をリビングの席に案内したマグノリアは、彼女らしからぬ手際の悪さを示しつつもなんとか2杯の紅茶を入れることに成功した。
どうぞ、と差し出し、席に着く。少女は上品に、非の打ちどころのない姿勢で紅茶を少しずつ飲み下しながら、告解した。
「私は、旅を終えても何も変わらないままだった。人間らしからぬ欠落を抱えたままだった。したいことなんて見つからない。これから先の未来に何の展望も持てない。
これ以上、そんな私の欠落にガラルを巻き込む訳にはいかない。皆に迷惑を掛けながら足掻き続けるだけの価値が私にあるとは思えないし、それ以前に私はもう、疲れてしまった。
だからいなくなろうと思う。綺麗さっぱりなかったことにしようと思う。きっとそれがガラルにとっての最善であり、私にとって最も楽な道だ」
彼女よりもずっと長く生きてきた身として、命の尊さを説くことは簡単にできる。貴方が大切だ、死なないでほしいと訴えることもできる。
生きていれば楽しいことが沢山あると励ますことも、数多の心理学における論文を引用しながらその苦悩が一時的なものであることについて懇々と説くことも、できる。
そんなものでこの少女の憂いが取り払われるのならば迷うことなくそうしている。
……そうした説法や、情への訴えや、激励や、論理的な解説が、何の役にも立たないことくらいマグノリアは重々承知している。
故に彼女は自らの中に暴れる驚愕と恐怖と焦燥をひた隠しにして、ただ穏やかに言葉を紡ぐ。
「死ぬことは、いつでもできる。その前に少し、楽しんでおいきなさい」
「楽しむ?」
「自らの欠落を克服できないまま、そうしたものを逆に己の強みに変えて強かに生きている人間も大勢います。一度、学んで来られても損はないかと思いますよ」
そう、こんなことを苦し紛れに口にして、マグノリアはこの少女の意識を「最適解としての死」から逸らそうと躍起になっている。
けれども、長く生きた博士による聡明な論理の下に為される「足掻き」の成功率は決して低くない。今回だって、早くも成功の兆しを見せている。その証拠に彼女が笑っている。
その笑顔に「学習は好きでしょう」と語り掛ければ、華奢な肩を竦めつつ照れたように「その通り」と同意の言葉さえ返ってくる。
「でも、困ったな。私は「こう」だから、誰のところへ行けばいいか分からないんだ」
「では僭越ながらわたくしが、選び方を教えましょうか」
弾かれたように顔が上げられる。瞬きを忘れた目が揺れている。
「いいの?」と希うような切実さで問われたので、「今回だけですよ」と苦笑を示しつつも快諾する。
「周囲の評価を気にすることなく、自らの信じたものを疑わず、拘りを貫ける人。自らの想いに正直に生きている人。弱みを昇華できるパワーとセンスのある人。
我を通す機会がありすぎたために、世間との折り合いを上手く付けられなくなってしまっているような、少なからず捻くれたところのある人。そしてとにかく、諦めの悪い人。
そんな人を訪ねなさい。貴方の心を開示して、できることなら不安も恐怖も葛藤も曝け出してしまいなさい。その相手がきっと、貴方のかけがえのない人になる」
「……」
「どうです、該当するような人物に心当たりは?」
そんな相手、年若い世代であれば大抵の人間が該当する。故に「心当たり」はガラル中に、大量にあって然るべきだ。
それを承知の上でマグノリアは口にした。候補は、多ければ多い程よかったのだ。
誰でもいい。誰でもいいからこの少女の手を握っていてほしい。わたくしにはできそうにもないことをやってのけてくれる誰かがいるはずだ。そうであって然るべきだ。
マグノリアはそうした考えで、上辺だけの「選び方」を口にした。
それで少女が「そんな人は大勢いるから、どうにも決めかねる」と降参の言葉を吐いたなら、そこから更に精査して、少しずつ候補を狭めていくつもりだったのだ。
けれどもマグノリアの想定に反して、彼女はそう長い沈黙を挟むことなく頷いてくる。
「ええ、一人だけ」
その瞬間、マグノリアの全身を支配した強烈な安堵は、どれほどの言葉を尽くしても他者へ伝わることなどないだろうと思える程の大きさであった。よかった、と心から思えたのだ。
少女がその後、もし私に何かあったらこれを世間に公表してほしいと告げて不穏を極めた白い封筒を渡してきたことも、既にマグノリアにとっては重要なことではなくなっていた。
だって、ほらごらんなさい。いっぱしに遺書めいたものまで用意しておきながら、この少女はまだこんなにも生きる力を有している。
無数にいるであろう「誰か」の中から、今、たった一人を思い浮かべられている時点で、生きるための情熱が、こんなにも煌々と彼女の心に宿っている。
彼女がこの世界を、生きることを、諦めなければならない理由は完全に失われている。どうして不安に思うことがあるというのだろう。
……彼女の茶番に付き合うのも悪くないのではないか。マグノリアはふとそう思った。
自分はただ、この邸宅でのんびりと紅茶を飲み、植物と話をしながら、彼女の再訪を待っていればいいだけのことであると確信できたからだ。
「じゃあ早速、行ってくるよ」
「ええ、お好きになさい。貴方のしたいように」
その言葉を受けて、照れたように頬を綻ばせる彼女のニットベレーは、差し出した封筒よりも少しくすんだ白色であった。
2020.6.7