Case7:ローズ
「まったく、最悪のタイミングで事件を起こしてくれたね、ローズさん。もう少し待ってくれてもよかったんじゃないのかい。
貴方の席が空いたことで、貴方のやっていたことをダンデさんが全て肩代わりしなければならなくなった。
更にそのせいで、ダンデさんの後を継ぐことになった私は、彼から何も教わることができないまま放り出され、こうして手探りでチャンピオンをやっているなどという有様なんだよ」
「それはそれは、悪いことをしたねえ」
「やれやれ、貴方は本当に言葉がお上手だ。そんなこと露程も思っていない癖に字面だけはお美しいのだからね。
ダンデさんは、頻繁に貴方の所へやってきて、貴方に指示を乞うているのだろう。貴方は彼の望むもの、彼の知りたがるものを全て差し出している。そうなんだろう。
ねえ、狡くないかい。どうして私が放り出されなければならないんだ? ダンデさんの未来は貴方が導いているのに、どうして私の未来は誰も導いてくれないんだ?」
狭い部屋。冷たいパイプ椅子。頑丈なアクリル板。隅に立つ警察官。小さな窓から陽が差し込んでローズの手元を照らす。透明な板の向こうで少女が捲し立てている。
会話をある種の道楽としているローズは、そうした彼女の愚痴を受けても尚、気分を害するでもなく、ただニコニコとしている。
その笑顔は、彼女の神経を逆撫でしたり挑発したりするためのものではなく、本心からのものなのだろう。ローズは本気で、彼女と話ができることが嬉しいのだ。
内容の如何は、問われていないのだ。
「君は指示が欲しかったのかい? それは意外だ。君ほどの人間は、他人からの指示なんかに従いたくないんだと思っていたものでね。
チャンピオンにまでなれた君なら、そうすると思っていた。それだけの力があると期待していたんですよ。それなのに、そんなふうに弱気になってしまうなんて本当に残念ですね」
その発言を待っていたかのように少女は破顔する。至極楽しそうな無垢さを表出しつつも、そこには罠にかかった者を揶揄うような悪さがたっぷりと示されている。
成る程そのような表情もできるのかと、ローズはまた一つ、彼女の「お上手」な一面を知る。
「ほら、ほら! 皆、そういうことばかり言うんだ。皆、私をチャンピオンとして見るんだ。チャンピオンは気丈で、弱音など吐く生き物ではないと、誰もが頑なに信じているんだ!」
カラカラと、鈴の音と形容するには少しばかり濁りと重みがある笑い声が狭い室内で弾む。弾んで、軋んで、パタリと止む。
この小さな部屋が防音であることを加味しても、訪れた沈黙はあまりにも急激で、鋭いものだった。この部屋に鼓膜を置く者を圧倒するに十分な音の緩急であった。
これは彼女の「演出」だろうとローズは推察する。少しばかり驚いた顔をして、彼女の造り上げたこの場の空気に、飲まれたふりをしてやる。
「勿論そうだったよ。私はそれなりに気丈だった。弱音を吐いて回るような人間ではなかった。
でもね、それは「私」の性質だ。私が私のために大事にしてきた私の信条だ。それを勝手に取り上げて「チャンピオンだから」という形で片付けられてしまうなんてあんまりだよ。
一体誰に、私の信条をチャンピオンなんて肩書きで上塗りする権利があるというんだ。私がいつそれを許したんだ。どうして私はそんな風に、作り変えられなければならないんだ?」
淀みのない素晴らしい早口、聞き取りやすい滑舌、その小さく品よく開けられた口からするすると零れ出る恨み文句を構成する凛々しい声。
それら全てをローズは「造られたもの」であると感じた。それは直感的な確信でもあったし、経験に基づく統計的な判断でもあった。
怒りや不満に我を忘れて捲し立てる者の声というのは、もっと上擦っていて、濁っていて、息苦しそうなものなのだ。ローズはこれまでの立場上、そうした声とは縁が深かった。
こんなにも「綺麗で」「よく出来た」恨み言を浴びせられた経験は、ローズにはついぞなかったのだ。
「やれやれ、まさか君はわたくしに愚痴を吐くために此処へ来たのかい?」
それでもローズは彼女のそれを「愚痴」とする。恨み言だと認識している、などという嘘を平然と告げる。そうした方が彼女の言葉を引き出しやすいと分かっているからだ。
案の定、彼女はすらすらと、滝の水に靴底を着けて滑り降りるような軽快さで言葉を連ねていく。ローズはそれと止めることなくニコニコと聞いている。
「そう捉えてもらっても構わないよ。聞きたくないのなら退席すればいい。でも貴方は絶対にそうしない。こんな私に、少なからず興味があるからだ。
でなければ、いくらオリーヴさんの声掛けとはいえ、貴方の計画を台無しにした私に会おうなどとは思わないだろう?」
14歳の子供らしからぬ慧眼は、彼女が止むにやまれぬ事情で会得したものだろう。
その事情とやらを詮索しようとは思わなかったが、そうした事情をバネに強く在ろうとする彼女の姿は称賛に価するとローズは思った。
勿論、そのようなことだって決して声に出すことはない。
ねえローズさん、分からないんだ。そんな愚痴とも懺悔とも取れる彼女の音を、ただその鼓膜で受け止め続けるばかりで、彼からは一切、動かない。
「貴方の、皆の、ガラルの望みが私には分からない。私は自由であってはいけないと肩書きが言う。でも自由にガラルを導いてほしいと皆が期待する。
分からないんだ。私に選ばせたがっているのか、それとも、選ぶことを禁じているのか。示してくれないと私には何も分からない」
「……」
「選ばせたくないならそれでいい。私は指示通りに、期待通りに動くのは得意だからね。
選ばせたいのならこの座からは潔く下りるよ。自分が、上手く選べない人間であることは自分が一番よく分かっているからね。
でもガラルは半端だ。導いてもくれない。この役割から逃がしてもくれない。舵を取れと願うばかりで、その取り方を誰も教えてくれない。長く舵を握っていたはずの、貴方でさえ!」
少女が椅子から立ち上がる。大きな音が狭い部屋に響く。ガタン、と鼓膜に刺さるその音をローズは楽しみたかったが、泣きそうに顔を歪めた少女の視線がそれを許さなかった。
大量の蜂蜜を溶かした紅茶のような、そうした毒めいた苛立ちと困惑を孕んだ目。その奥でぐるぐると渦巻いている、14歳が抱えるには重すぎる何かをローズは思った。
その何かしらが彼女の心中で暴走し、彼女自身を苦しめている様を何となく感じ取った。
「皆は私に、選ばせたいのか? それとも、選ばせたくないのか? どちらなのか示してくれないと、私は何もできないんだよ!」
可哀想な子だと思う。運が悉く悪かったのだろうなとも思う。同情を寄せられるべきだと感じている。
あと10年早くこの少女が生まれていたならば、ダンデと並び、ガラルを導く若き両翼になれていたかもしれないのにと、そうしたことまで思っている。
そうであったなら、ローズは此処よりずっと自由な場所で二人を同時に導けただろう。彼の計画だって、もっと簡単に実行へ移せたはずだ。
君がわたくしを慕ってくれたなら、どんなに嬉しかったろう。
君と一緒にガラルの未来を変えられたなら、どんなに楽しかったろう。
「気は済みましたか、ユウリ君」
けれども「そんなこと」で絆されてやれるローズではない。
1000年先に生き過ぎたローズの心は、今を生きることを忘れかけたローズの心は、そんなことができるほど、まともではない。
「君がそうやって癇癪を演じたところで、嫌だ嫌だと駄々を捏ねてみたところで、何も変わらない。それは君だってよく分かっているのでは?
周りに八つ当たりめいた毒を振り撒くのもそろそろおしまいにするべきですね。
勿論、このまま立ち止まり続けるのは君の勝手ですから、君がそれを選択するのなら、あるいは変わることを選択できないのなら、ご自由に。
ただし落ちぶれたいのなら一人でどうぞ? わたくしが何十年と守ってきたガラルは、君の没落に引きずられるほど弱くない」
ガシャン、と豪快に割られた虚勢の仮面の奥で、大きな目が二つ、ローズを真っ直ぐに見つめていた。
見抜かれた、ということに対する焦りや恐怖の情は見て取れず、ただ純朴な驚きがひどく濃い紅茶の色に揺蕩うばかりであった。
そんな彼女に掛ける言葉としては不適切な、あるいは不要なものであったかもしれないが、ローズは微笑みながら「大丈夫だ」と告げてやる。
その言葉を受けて、少女の幼い眉がぴくりと動く。
「君がただの不満で立ち止まっているのではないことくらい、分かっています。君はある種の目的を持って、毒を振り撒き、癇癪を起こし、弱音を吐いている。そうでしょう?
君のそれは実に、……うん、実に計算されつくしている。三十路にも至らない若者ならまんまと騙される程度にはとても、お上手だよ」
お上手、に語気を強めて微笑みかければ、少女はつい先程までこちらに向けていた、作り物の敵意をすっかり仕舞って、ふわりと綿をほぐすようにぎこちなく笑い返してくる。
ひどく疲れている表情にも見えた。諦めて楽になってしまいたいと考えているようにも見受けられた。見抜かれたことをほんの僅かではあるが、喜んでいるようにさえ見えた。
けれどもその目は相変わらず純朴で、力強いものであった。
蜂蜜をどろどろに溶かした紅茶のような、いっそ毒めいたその「何か」は、決して手放されることなくこの少女の瞳の中に宿されていた。
「褒められている気がしないね。でも、そうであってほしいな。私が騙しておきたいと感じる相手は大抵の場合、貴方よりずっと若いから」
騙したい、と真摯な声音で語る彼女をローズはほんの少しばかり、愛おしく思った。
この少女もまともではない。そのように解釈できるだけの言動がこれまでの時間にはあった。けれども彼女の異質性が今更、ローズに彼女を忌避させたりなどはしないのだ。
優秀の過ぎる人間は総じてどこかしらが歪である。世間のアベレージにすっぽりと収まるような上品な人間が目立つことなど、この派手好きなガラルにおいてはそう起こらない。
故に歪なローズの周りには、歪な人間が集まるように出来ている。歪な人間ばかりが目立ち、活躍するように出来ている。
あの女性秘書然り、10年もその座を守り続けた旧チャンピオン然り、彼と同じ時計を喜んだ元ジムチャレンジャーの少年然り、この少女然り、……そして。
「ああそういえば昨日、ネズ君がわたくしのところへ来ましたよ。彼は開口一番、君の話をしていた」
ローズはこの少女を愛している。旧チャンピオンのことも、秘書のことも、少年のことも、そして昨日ローズを訪ねたジムリーダーのことだって、彼は等しく愛している。
そうした器用なことができる男なのだ。誰もを等しく愛せる男なのだ。そしてその等しさよりも少しだけ大きな心地で、彼は1000年先の未来を愛していたのだ。
その僅かな愛の差が今回の悲劇を生み、その僅かな愛の差がローズをこの狭い部屋へ導いた。
けれどもそんな愛の差がガラルに表出せずとも、きっとこの少女は同じように苦しんだだろう。
何が起こったとしても、何も起こらなかったとしても、彼女は決して達成されることのない「ある種の目的」のために、癇癪を起こし、駄々を捏ねたことだろう。
その、彼女が開示したがらない「ある種の目的」を、積極的に知ろうとはローズは思わない。思わないが、推し量ることくらいはできる。
そして、ローズには欠いた積極性をもって彼女の「目的」を暴こうとする人物が誰なのか、このまともでない男にはもう、とっくに分かっている。
分かっているからこそ、ローズはニコニコと微笑みながら、そういえば、などという軽さでネズの名前を紡ぐ。
「そうかい。その彼の家へ今から遊びに行こうとしているんだ。一緒に読んでいる本があるんだよ。続きが気になっている。
……「気が済んだ」から、もう行くよ。私なんかのために時間を取らせてしまってすまなかったね、ローズさん」
「本ですか、それはいい。ネズ君は見かけによらず夢見がちなところがあるからね、きっとやさしい小説が彼の本棚には沢山あるのでしょう。ちなみに、本のタイトルは?」
「吾輩はエネコである、だよ。ホウエン地方にいるポケモンが主人公なんだ」
そのタイトルを耳にしたローズは一瞬、言葉に詰まった。その本の持ち主である彼の思惑が全く理解できなかったからであった。
しかし、理解できないということは、すなわちそこに思惑などなかったということなのだろう。
ネズはそれがただ自分のお気に入りだというだけで、その本が彼女にどのような影響を及ぼすかなど考えもせず、それを渡してしまったのだ。
「おやおや、よりにもよって血迷った挙句死んでしまいさえしそうな君に、そんな物語を提供するなんて、彼もやきが回ったのかな」
「え?」
詰めが甘いな、と思った。若者にありがちな遠回りだ、とも思った。
けれどもそうした、一見して愚策に思われる選択が、想定外に良い結末を寄こしてくることもあるのだと、
そうしたことを心得ているからローズは微笑み、若い二人を揶揄う程度に留めておくのだ。
楽しむように、蔑むように、慈しむように、祈るように、笑うのだ。
「エネコは最後、溺死するんですよ。まさか、知らずに読んでいたのですか?」
2020.5.30