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少女は旧友との邂逅により随分な疲労を覚えたようで、あれから実に10年もの間、地下で眠り続けていた。
その眠りの深さが本当に、精神的な疲労によるものだったのか、あるいは少女の恣意的な選択だったのかは分からないが、
とにかく10年後、彼女が目を覚ました頃には、彼女を知る人間は「殆どいない」などというものではなく「全くいない」と呼んで差し支えない状態になってしまっていた。

あの1回きりの対話であった少女とは対照的に、フラダリはそれからも何度か、シアのいる船上へと通い、彼女との時間を過ごすに至っていた。
当然、彼女が亡くなったことも、彼女の孫によりフラダリの耳には入っていた。
「90歳まで生きる」と口癖のように言っていたらしい彼女は、けれども89歳という惜しいところで命の火を絶やした。
彼女の娘、彼女の孫、彼女の曾孫、そうした誰もが彼女の死を悲しんでおり、その「誰も」の中には当然のようにフラダリも入っていた。
当然のように、そこに少女は含まれなかった。

彼女の死を最後に、あの頃の少女を知る人間は「0」になった。

正しく時を回し、時の流れの中で新しい人間関係を次々と構築していったフラダリは、これからも数えきれない人の死を見届けることだろう。
けれども彼女は違う。眠り続けることを楽しんでいる彼女は、もう新しい「誰か」に出会うことがない。
出会わないのならば、恐れる必要も、その「誰か」がいなくなることを待つ必要も、まるでない。

シアが亡くなったよ」

目を覚ました少女にそう告げれば、やはり彼女は美しく穏やかに笑ったのだった。

それからというもの、少女の眠りは数か月単位という短いものへと変わり、少女とフラダリはそれまでよりもずっと高い頻度で顔を合わせることが叶っていた。
けれどもいつ目覚めても、少女はその口から「シア」の名前を出さなかった。

まさか彼女のことまで忘れてしまったのだろうか。あの長すぎる眠りは、彼女を忘却するためのものだったのだろうか。
そう思い、フラダリは彼女の名前を出せずにいた。
忘れようとしている存在をフラダリが思い出させることは、彼女の生き方を否定することになるのではないかと、そうした思いがフラダリを躊躇わせていた。
躊躇い続けて数年が経った頃、彼はついに意を決したのだった。

少女が目覚めたことを確認してから、フラダリは変わらない味のチーズサンドにカフェオレを調達してきた。
フラダリとて、毎日ずっとこればかり食べている訳ではなかったのだが、少女が目を覚ました日には必ず、これを食べようと決めていたのだ。
少女とそのような取り決めをした訳ではなく、それはフラダリが彼自身で設定した、ささやかなルールであり、彼女の目覚めを喜ぶための儀式のようなものであった。
彼女がチーズサンドを無邪気に頬張り、カフェオレに少しずつ口を付けてくれているのを見ると、フラダリはやはり安心することができるのだった。
ああ、彼女は笑えている。この世界は彼女が笑える世界である。そう、確信することができたのだ。他には何も、必要ないように思われたのだ。

シアの墓参りに行かないか」

それでもフラダリはまだ時の流れを覚えている。その流れの中で懸命に生き抜いた生き物への敬意というものも、やはり当然のように持っている。
だからこそ、このような言葉を何年もの逡巡の後に紡ぎ出すことが叶ったのだが、それを受けて少女はひどく困惑したような、怪訝そうな表情になってしまった。
本当に「何故そんなことが必要なのか」まったくもって解っていないような心地で、不安そうに首を捻ってみせるのだった。

「お墓参りって、石の前にお花を添えることでしょう?あんなところにシアはいないのに、そんなことをして、何の意味があるんですか?
フラダリさんも見たことがあるでしょう?死んだと思われている私、その名前が彫られた石碑にお花を供え続けている、あのおかしな悲しい人達を」

あんなおかしな存在に成り下がるのかと、少女は暗にフラダリを責めていたのかもしれなかった。
それでもフラダリは、自らの尺度を譲らなかった。「いいじゃないか。たまには人の真似事をしてみよう」と、困ったように笑いながら食い下がったのだった。
彼女はそれに折れる形で、釈然としない横顔のまま、黒いワンピースに袖を通した。フラダリもクローゼットの中から黒いスーツを取り出した。
そろそろ、葬祭用の新しいスーツを調達しなければいけないな、と思った。

イッシュ地方のヒオウギシティという場所に、彼女の墓はある。
彼女の美しい目の色を彷彿とさせる、リンドウという花を近くのフラワーショップで購入した。
君はこれにするといい、と告げて、白いカーネーションを彼女の手に持たせた。彼女は困惑するように眉を下げたけれど、その花を拒むことはしなかった。

その墓は綺麗に整えられており、まだ色褪せていない花束が墓碑の前に添えられていた。
少女が躊躇いがちに、白いカーネーションをその隣へと並べようとしたところで、二人の背中に聞き覚えのある声が掛けられた。

「おや、フラダリさんにシェリーさん。お久しぶりです」

フラダリにとっては数年振りの、少女にとっては17年振りの再会であった。
花の咲き乱れる7番道路で、少女の名前を「シェリー」だと言い当てたあの若い父親は、けれども17年の時を経て、白髪の混じる壮年の男性へと変化していた。

その隣で白いカーネーションの花束を持っている女性が誰なのか、フラダリも少女もすぐに思い至ることができなかったのだが、
壮年の男性が「私の娘です」と告げたことにより、フラダリは「ああ」と納得して微笑むことができた。
あの時、この男性のことを「おとうさん」と呼んだ、6歳程度の小さな女の子。彼女が17年の時を経て、成人の女性へと成長していたのだ。
正しく時を流す生き物の、目まぐるしい変化をフラダリは眩しく思い、正しく目を細めた。

少女はまだ、その女性があの頃の女の子であることに気が付いていないようだった。
そのため、フラダリは「あの時にこの男性の傍にいた女の子だよ」と説明をしようとしたのだが、それより先にその女性がシェリーへと視線を向けた。
「……どうして」と零したその海の目に、憤怒の色が混じっていることに、気付いた時にはもう、その海から溢れる音は止めようのないところまで来てしまっていたのだった。

「どうして、ひいおばあちゃんに会いに来てくれなかったんですか?フラダリさんはあれから何度も訪ねてくれましたよ。でも貴方は来なかった。どうしてですか?」

「……ご、ごめ、」

「ひいおばあちゃん、可哀想だった!あの人はずっと、ずっとシェリーと話をしたがっていました。貴方に会いたがっていました!」

久方振りの謝罪の文句を、けれども「シア」の曾孫は紡ぐことさえ許さなかった。
これ程に強烈な憤りの様相を、フラダリはしばらく、見たことがなかったように思われた。
この女性もおそらくは、誰かのために我を忘れることのできる人間なのだろう。もしかしたら、その瞳に海を持つ人間は決まって、そういう性質であるのかもしれなかった。

海色。それは不思議な色だった。嵐のように渦を巻く海の瞳は、しっかりと少女を睨み付けていた。
17年前は少女よりもずっと小さかったこの女性は、けれどもハイヒールを履いて少女の目の前に歩み寄ると、少女を睨み下ろせる程度に背を伸ばしていた。
それは正しく時を回した人間の姿であった。

海の時は動いている。鉛の時は止まっている。

時を回すことをすっかり忘れた少女は勿論のこと、時を回している振りを続けていたフラダリにさえ、
もう、二人の時が止まっていることを誤魔化しようのないところまで「時」が来てしまっていた。

シェリーはずっと生きていられるんでしょう?シェリーには時間が沢山あるんでしょう?
どうしてその時間を、ひいおばあちゃんにくれなかったんですか?どうして一度しか会ってくれなかったんですか?ひいおばあちゃんはずっと、シェリーのことを、」

「うるさい!」

少女は謝罪を忘れ、女性の腕の中にあった花束を両腕で弾き飛ばした。
白い花束がまるで雪のようにその場に散らばり、「シア」の墓碑の上にあまりにも無残な美しさで降り積もった。

 
「貴方なんか、私が眠ればすぐに死んでしまうような存在のくせに!」
 

濁った鉛の矜持は、悉く濁った形で放たれた。
同じく濁った時の中でしか生きられないフラダリには、彼女のその濁った言葉が、その濁りすぎた激情が、どうしようもなく悲しいものに思われてならなかったのだ。

少女はそれ以上何も言わず、ただ深く深く俯いて、駆け出した。女性も、その父親も、何も言葉を発しなかった。
フラダリはリンドウの花束をそっと置き捨てて、二人に頭を下げてから、乾いた土を蹴って走る少女の背中を追いかけた。

シェリー、とフラダリが声を掛けつつその肩に触れることで、ようやく彼女の足は止まった。
揺れる鉛の目で彼を見上げた少女は、あの頃を思い出させるような、泣きそうな表情のままに「帰りましょう」と呟いた。

「私は、シアに花をあげたくない」

少女の、ただ一人の親友に手向けられる筈であった白い花は、けれども少女が強く握り過ぎたことにより、茎を潰され、無残な形で絶命していた。
彼女の手を取りゆっくりと歩き始めながら、フラダリは、さて、この少女は次はどれくらい眠るのだろうか、と、そうしたことをぼんやりと考え始めていた。

彼等の時は縫い留められ、二度と動くことはない。


2017.10.7
【83】
(First Chapter:Fin)

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