好きだという気持ちを伴って手を握るのはとても心地のいいものだと分かっている(青の共有・夜)

愛って何なんだよと考えたときに、私の頭はいろんな記憶を引っ張り出してくる。
ある人は愛を同意だと言ったし、またある人は好きであることと大差ないと笑った。
欲の伴う汚いものだと蔑む人もいたし、不気味なものに感じられるから一生分からないままでいたいと告げた人もいた。

私は、愛という言葉によく「傲慢」を連結したくなる。愛なんて大きなものを使いこなそうだなんて烏滸がましいと今でも本気で思っている。
だから好きになった人にも愛しているなんて口にしない。空気に請われる形で発音したことはあったけれど、実感はまるで伴っていなかった。きっと、今もそう。
ただ、「私はこういう気持ち、こういう意思、こういう確信を「愛」と定義します」と宣言した上で、
至極幸せそうに「そういう意味で、私は貴方を愛している」と囁く行為には、ひどく憧れるし、そんな風に人を好きになりたいなあとも思う。

私の記憶が確かならば、愛という言葉を物語の中に用いたのは「木犀」最終話と「カノンの翻訳」クライマックスあたりの2つくらいのものだったような気がする。
「あれが彼女の愛だったというのなら、それを受け入れよう。そう認めて笑える程度には、フラダリは彼女を愛していた」
これとかまさに「愛の定義」を前提としてそれを受け入れ同じだけのものを返す行為をしている訳だから、私の理想がそのまま書かれているんですよねなんてこった。
逆にカノンの翻訳のシアは、愛というものの何をも分からぬままに「愛しています」と誓っている。
愛などという大きなものに相応しい人間になると烏滸がましくも宣誓している訳だ。
この時の彼女には愛という未知のものに対する恐れがなかった。ゲーチスさんに手向けるに相応しいものであるに違いないと確信しきっていたが故に愛していますなどと言えた。
こちらは愛の不理解という現実を書いているようでありながらその実、その愛の宣誓によって大団円を迎えてしまっている訳でやはり夢物語の域を出ない。

フラダリさんは愛という膨大なものを彼自身にも理解できる小さな何かに落とし込む、すなわち定義付けして自らに馴染ませることで平穏を得ている。
シアは愛という膨大なものを縮めることをせず、その膨大なまま、理解できないままに取り扱おうとしているが故にその言葉を紡ぐ口は不穏に満ちている。

さて今、私はアポロさんとクリスさんの愛について書いている。
この二人には、愛を縮めて取り込むことも膨大なまま取り扱うことも良しとしてほしくない。平穏も不穏も相応しくない。彼等はもっと、もっと。

© 2025 雨袱紗