トウコとNが敵対の後にそれぞれ別の場所で死亡とか、ミヅキの過ぎた激昂を己の毒として引き取るようにザオボーさんが亡くなるとか、
フラダリさんがアクロマさんを撃ち殺したり、逆にアクロマさんがフラダリさんをばっさりしたりとか、フラダリさんだけ生き残ってしまうとか、
ユウリが背を向けて立ち去るや否やビートが拳銃で自害とか、優しい選択をしすぎたが故に捜査に詰んでしまい停止されたアクロマさんを追うように自害する「シェリー」とか、
自分とお姉ちゃんが助かるために土壇場でシルバーを犠牲にするコトネとか、逆にコトネ自身が犠牲となって死んでお姉ちゃんとシルバーを逃がしてしまったりとか、
誰も犠牲にしたくないと理想と慈愛を貫いても世界の状態によってはそれが許されず家族諸共銃殺されたりとか、あるんですよ。
全員生き残るルートはほぼ一本であるにもかかわらず、死ぬルートは多岐に渡り用意されているので全ては把握しきれていないのですが、
でもこんなに「死ぬ」描写が多いことを考えると、やはり命を痛々しく燃やすことによってしか人間の心に訴えかけられないものがある、ということなのかもしれませんね。
沢山燃やさなければいけないから、エンターテイメントというものが必要なのかもしれませんね。
誰かのために完璧な動きをすることができ、そんな誰かの唯一性を認識することができて変異までしてしまったにもかかわらず、結局その「誰か」を失い一人になり、
しかも変異のきっかけとなったリーダーまでも失ってしまったがために、あまりにも多くのアンドロイドを導く側に立つことを求められてしまい狼狽する……。
不安そうな表情のまま、痛々しいと思わせる程に覚束ない足取りで演説台へと進む、あの流れがあまりにもあんまりで……な……好きなんや……。
求められた動きを完璧に行える、そのように造られている、その機能を生かして大切な人にとって好ましい在り方を選ぶことさえできる。
でも「誰かのために」動くことはできても、所詮RK800は「補佐専門アンドロイド」なので、自分のためだけに動いたり、誰かを導く側に立つことは最後までできなかった……。
という流れが、私の考えるユウリの像に酷似していてね、好きなんだ。
(追記)
(だからこそ、その後のインターフェース乗っ取り問題において為した自害という選択は、このアンドロイドにとっての救いであるようにさえ思えてくる。
問題が生じたからこそ、ユウリ(コナー)は新しいタスクを設けることができた。
目の前の、自分をリーダーとして称えるあまりにも多くの仲間を守るために、乗っ取りを防ぐというミッションを自ら課すことができた。
「しなければならないことがある」しかもそれが「誰かのためになる」と確信して引いた引き金の音を、敢えて聞こえないように終わらせた原作の演出も粋すぎてすぅごい)
彼女も「Cold Case」で途中まで書いたように、誰かのために走ったり、完璧なバトルをしたり、誰かの心の支えとなったり誰かの指示に忠実であることは得意だけれど、
頂点に持ち上げられて「新しい時代を作って」などと言われることはまっぴら御免だし、そうしようと意識的に思って無理矢理体を動かそうとしても、きっと難しいだろう。
そういう風には出来ていないんだよ、彼女の心は。
シアやシェリーやミヅキのように、自らの望みを暴走させて自滅するなどということがあり得ない、という点において、
ユウリは「絶対に変異しない」という、DBHで言うところの「後継機」に似ているようにも思えてきます。
でも私は、完璧なユウリではなく不完全で不安定になっていく彼女、自らの欠落に気付き愕然とする彼女でなければ物語にはなり得ないと考えているので、
もしユウリをこのパロに導入することがあったとしてもその結末は間違いなく「ユウリ・ビート両者生存エンド」であり、「後継機」の出る幕はないでしょうね。