寒い冬の季節は、しかし嵐のように過ぎ去っていった。
ゲーチスさんに全ての仕事を引き継いだクリスさんは、コトネさんやシルバーさんと共にジョウトへと戻っていった。
入院していた弟が回復し、退院したらしい。久し振りに家族で過ごせることを、彼女やコトネさんはとても喜んでいた。
それとは別に、クリスさんにはとても嬉しいことが起きていたのだけれど、詳しく話すことは控えよう。
真っ白なドレスを身に纏った彼女が、少女のような幼さを残す微笑みで私の方へとブーケを投げてくれたことを、昨日のことのように思い出すことができる。
綺麗な花で彩られたそのブーケは当然のように生花だったけれど、後日、私の家に彼女の名で、そのブーケそっくりのドライフラワーが届いた。
白と青を基調とした、クリスさんともう一人を彷彿とさせるに十分なその色合いの花束を、私は宝物として大事に飾っている。
ゲーチスさんの計らいにより、あれからもプラズマ団の代表を名乗り続けていた私だが、その業務の9割はゲーチスさんが行うこととなっていた。
勿論、取引先と話をする場には出向くけれど、その場合にも彼が付いてきてくれ、私の足りない知識を補うようにフォローを入れてくれた。
長年、プラズマ団という大規模な組織を率いてきた彼にしてみれば、今までとやっていることは大差ないのだろう。
ただ、身を潜めるように彼等を統べるか、積極的に表社会へと出ていくかの違いだけだ。
彼の許可を一度も取ることなく、プラズマ団をこのような形へと変えた私に、彼は一度も嫌な顔をしなかった。寧ろ、積極的に従う姿勢すら見せていた。
私の何倍も強い矜持を持っている筈のゲーチスさんが、こんな子供の言うことに文句をつけない。そのことは私に衝撃を与えていた。
一度、それとなく尋ねてみたことがあったけれど、彼は怪訝な顔をして首を捻ってみせた。
「私は、合理的だと思ったことにしか従いません」
その彼の言葉に、私がどれほど安堵したかは想像に難くないだろう。
私が必死に追いかけていた夢物語の舞台が、他でもないこの人に認められているという事実は、私に想像以上の歓喜と高揚をもたらした。
つまりはいつの間にか、そういう存在になっていたのだ。私にとって、この人というのは。
そんな彼を、プラズマフリゲートで暮らす団員達は未だに「ゲーチス様」と呼ぶ。反対に、表向きの代表である筈の私のことは「シア」と呼び捨てにする。
その差がおかしくて私は笑った。敬われたいという気持ちがあった訳ではない。寧ろ私のことではなく、彼のことが嬉しかった。
組織の代表ではなくなってしまった彼のことを、皆はゲーチス様と呼び、慕う。
彼が以前から、団員の支持を集めていたことは明白だった。そこにプラズマ団という組織の人間性を見た気がして、どうしようもなく嬉しかったのだ。
もっとも、無条件に彼を慕う人間ばかりではないことを私は知っていた。また自分たちをいいように利用するのではと不安に思う人もいた。
けれどそんな彼等の空気は、あの日のトウコ先輩の言葉を境にがらりと変わった。
『イッシュを統べようとしたあの男は、たった13歳の女の子に絆されたのよ』
その言葉は、彼等の疑念と不安を取り除くに十分な威力を持っていたらしい。ゲーチスさんが彼女の言葉を否定しなかったのも、その雰囲気を助長したのだろう。
彼等がゲーチスさんに対して懐疑的な視線を向けることは、二度となかった。
「違うのにね」
カフェやマーケットなどが建ち並ぶジョインアベニューの通りを歩きながら、私は隣にいるゲーチスさんに言葉を投げる。
何のことだ、と言いたげに眉をひそめる彼に、私はクリスさんの歌うような声音を真似て続ける。
「ゲーチスさんが私に絆されたなんて、それは寧ろ逆だった筈なのに。絆されたのも、貴方が必要なのも、私の方だったのに」
彼は私に絆されたのだろうか。トウコ先輩の言葉は、確信を突いていたのだろうか。だからゲーチスさんは、何も言わなかったのだろうか。
しかし、それらはどうでもいいことだったのだ。真実はこの人にしか解らない。そして彼は、そんな真実を易々と私に告げるような人ではない。
私が解るのは、私のことだった。絆されたのも、この人を必要としたのも、他でもない私であるのだと、それだけは確信を持って紡ぐことができたからだ。
だからあの場で揶揄されるべきは寧ろ、私の方であった筈だ。けれど彼は「沈黙」と言う手段で、いつものように私からその重い荷物を奪い取る。
あまりにも懐かしいその心理的なやり取りに胸が熱くなった。笑わずにはいられなくなった。私はもう数え切れない程に、この人に重荷を奪い取られていた。
「私がお前に絆されたかどうかを、この場で答えてやるつもりはありませんが」
そう告げた彼は、帽子を被っていない私の頭を手の平で軽く叩く。
髪を切ってから、私はサンバイザーを被ることを止めていたのだ。上を遮るものがなくなった視界は、随分と広く感じられた。
「そうした感情の「程度」は、お前の方が遥かに大きいようだ。お前はそんな愚かな想いで、これだけの大通りを造り上げてしまったのですからね」
長かった髪まで殺ぎ落として、愚かなことだ。
しかし私のばっさりと切り落とされた髪に触れる彼の手が思いのほか、とても繊細に動くものだから、私は思わず息を飲んでしまった。
この人には、髪を切った意図を気付かれてしまうのではないかと思ったのだ。
彼は私よりもずっと聡明で、慧眼だ。見抜かれるのもきっと時間の問題だろう。
いや、もしかしたら既に気付いているのかもしれない。だからこんなにも優しい手で、私の髪を撫でるのかもしれない。
ぐるぐると回る私の思考は、しかし答えを導き出してはくれなかった。それでよかった。私と彼との距離など、それくらいで十分だった。
私は彼の真実を紐解けない。私は彼の本音に共鳴することを許されない。その残酷な理が、しかし今はどうしようもなく、愛しい。
私は肩より少し下で切り揃えられた自分の髪を一房掴んで、笑ってみせた。
怪訝な顔をする彼に、いつものように紡いでみせる。
「すっきりしたでしょう? 頭が軽くなったみたいで」
「それは馬鹿になったということですか? 確かに、以前よりも間の抜けた表情が目立つと思ってはいましたが」
ああ、いつもの彼だ。いつもの、彼の言葉だ。私は声を上げて笑った。
私が愚かなことなんて、貴方が一番よく知っているでしょう?貴方はそれでも、こんな愚かな私の傍にいてくれるのでしょう?
そう、尋ね返すことはしなかった。彼は怪訝そうに眉をひそめていた。
前から自転車を飛ばして駆けてくる人影に気付くと、さっと右側に移動し、左手で私の肩を抱いて通りの端に寄せた。
「……自転車での通行を禁じるべきですね」と呟いた彼に、そうですねと相槌を打って、笑った。
私も彼も、互いの不在の季節を通り過ぎて、変わった。
私はもうこの人に屈しない。この人はもう私を憎まない。それで十分だった。
*
プラズマフリゲートの甲板で、私はボールから一匹のポケモンを繰り出した。
現れたメロエッタは軽やかにステップを踏みながら歌ってみせる。五線譜を模した身体の一部を波のように揺蕩わせて、透き通るソプラノボイスを奏でている。
海底遺跡で読み解いたあの歌であることに気付き、私もその音を紡げば、彼女はクスクスと笑いながら私のメロディにコーラスを重ね始めた。
こんな風に音を自在に操ることができたら、とても楽しいだろうなあ。そんなことを思いながら歌い続ける。重なる和音が心地良くて思わず目を細める。
「おや、珍しいポケモンですね」
その言葉に慌てて振り向けば、アクロマさんが靴音を小さく響かせてこちらへと歩いてくるところだった。
誰かに聞かせるつもりの歌ではなかったため、恥ずかしさに顔が赤く染まる。
「続けてくださって構いませんよ」などと言われても、やはり羞恥が上回り、今一度あの歌を繰り返すことはできそうになかった。
「ヒオウギシティの近くにある樹海で出会ったんです。花の歌が好きみたいで、一緒にこうして歌ってくれるんですよ」
「花の歌……?」
「私が勝手に名前を付けているんです。譜面はサザナミタウンの海底遺跡にありました。正式な名前は解りませんが、壁画に珍しい形の花が描かれていたので、そう呼んでいます」
そう言って、私は肩に提げていた鞄から手書きの楽譜を取り出した。彼はそれを受け取り、そこへさっと視線を落としてから「速度記号が書かれていませんね」と呟く。
速度記号とは、その歌や曲を奏でるスピードを決める記号のことだ。
緩やかに演奏することを示す「アダージョ」や、やや速めの「アレグロ」などがあるが、確かにそうした表記をあの絵には見つけることができなかった。
私のメロディは、これくらいだろうと私が推測して奏でているものであって、記号に従ったものではなかった。……この歌は、本当はどれくらいの速度で奏でるのが正しいのだろう。
「表記がないのだとしたら、自由に奏でよ、ということかもしれませんね」
そう言って、彼は私の歌をそっくりそのまま奏でてみせたのだ。
16小節ほどの短い曲ではあったけれど、彼が暗記してしまえる程に長い時間、私の歌は聞かれてしまっていたのだと、そう気付いて顔が益々赤く染まる。
けれど、私のメロディよりも幾分かゆっくりとしたスピードで奏でられるそれはとても美しく、私は彼のテノールに自分のメゾソプラノを重ねてみたくなった。
私はメロエッタのように、即座に和音を造り上げて主旋律にのせるなどという器用なことはできない。
よって男性である彼よりも一オクターブ高い音を奏でることしかできなかったけれど、それでも、そのオクターブの差ですら酷く心地いいと感じた。
彼は突如として音を重ねた私に驚いたようで、その太陽の目を見開いたけれど、やがて穏やかに細めてから私の頭をそっと撫でた。共鳴する音が嬉しくて、顔を見合わせて笑った。
メロエッタは楽しそうに甲板の上で踊っていたけれど、私達の歌に更に音を重ねることはしなかった。
そのぎこちない、けれど限りなく心地良い旋律が、私達を新しい舞台へと招こうとしていた。
2015.8.27
Thank you for reading their story!
アピアチェーレ 奏者の自由に