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「この子を使ってください」そう言ってクリスにボールを差し出された。現れたケーシィは眠そうに目を擦る。
確かに、今からこの建物の外に出れば、大勢に囲まれ身動きが取れなくなることは間違いないだろう。
そうした状況まで先読みして、テレポートを使えるケーシィを用意していたらしい。

欲を言うのなら、プラズマフリゲートという場所をそのまま口にしたかった。
しかし、「未来を読む」などという稀有な力を持っていないゲーチスでさえ、いきなり自分があの船に突如として姿を現せば、どうなるかということくらいは予測できた。
余計な混乱をもたらす必要もないだろうと、彼は暫く考えた後でいつかの場所に近い町の名を口にした。

「サザナミタウンは知っていますか。海底遺跡のある町です」

しかし、その町に何か思うところがあるのか、クリスはその空色の目を大きく見開き、声を上げて笑い始めたのだ。
これに驚いたゲーチスだが、その次に出てきた彼女の言葉に更に驚いてしまう。

シアちゃんもこの間、海底遺跡の壁に描かれた楽譜を解読していたんですよ。珍しいポケモンともお友達になったみたいです。
そうそう。考古学に興味があるようだったので、ゲーチスさんの愛読書を紹介させて頂きました。彼女、たった1日で読み切ってしまったんですよ」

「……あれが、考古学を?」

「ふふ、ずっとゲーチスさんに会えなかったから、貴方に関連する何かに触れていたかったのかもしれませんね」

その裏には当然のように「シアちゃんはゲーチスさんに会えなくてずっと寂しがっていたんですよ」という言葉が含まれている。
忙しすぎてそのようなことなど考える暇などなかっただろうに、とゲーチスは思ったけれど、忙しい時こそ、そうした何かの欠如を身に染みて感じる時があるのだろう。
あの子供にとって、自分がいなくなることが「欠如」であると、当然のように思っている自分に気付き、そして、苦笑した。

そうした思考を滑稽だと思っていた時期もあった。屈辱的だと押し殺していた時期も確かに存在した。
しかし、あれから1年が経ったのだ。あの子供とあの樹海で再会してから1年。少女がその内なる恐怖を押し殺しながら自分の元へと通い始めて1年。
あの浜辺に自分を押し倒し、泣きながら「生きてください」と懇願されたあの冬から、1年。
再びやって来た冬は去年よりも少しだけ温かく、肌を突き刺していく筈の風はただ心地良かった。あまりにも懐かしいと思えた。そう思うこと以外、できなかった。
それが他ならぬ「彼」の変化だったのだ。

「それじゃあ、貴方をサザナミタウンに送りますね。私はこのままジョウトに戻らせて頂きます。貴方へのお仕事の引き継ぎは、明日にさせてください」

あの子供がゲーチスの不在の間に、あまりにも多くのことに踏み切っていたことを、彼はこの女性から聞いて知っていた。この女性が手を貸したことも解っていた。
イッシュ各地に散らばったプラズマ団員への声掛け。白服のプラズマ団が少しずつ進めていた、ポケモンを元のトレーナーに返す活動の手伝い。
ジョインアベニューという大通りを利用した大規模な商業展開。デボンとシルフという、他地方でもその名を知らぬ者はいない程の大企業との連携。
それら全てが、たった13歳の少女を中心に行われたというのだから、末恐ろしい話だ。

そんな彼女が造り上げた新しい居場所に、今、ゲーチスは戻ろうとしている。

シアちゃん、髪を切る時、泣いていたんです。自分の体の一部にハサミを入れることが、どうしても怖かったみたいで」

「!」

「彼女は何も言わなかったけれど、私には、それが彼女なりの覚悟の示し方であるように見えました。
私にはそれだけしか読み取れなかったけれど、ゲーチスさん、貴方ならシアちゃんが髪を切った本当の意味が解るんじゃないですか?」

疑問形で発せられた筈のその言葉は、しかし確信を持った響きで紡がれていた。そのあまりの自信に、ゲーチスは苦笑するしかなかった。
やはりこの女性には、未来だけでなく、人の心も読むことのできる力が備わっているのではないかと、やや非現実的なことを考えてしまう程には、彼女の言葉は正鵠を射ていたのだ。

きっとあの子供は、髪を切ることが恐ろしいことであるからこそ髪を切ったのだろう。
それが彼女にとっての覚悟の示し方だと、知っていた。そしてその決意はきっと、あの日のあの言葉に繋がっている。

『手を、殺いでください』

彼女は差し出せなかった左手の代わりに、背に流れていたあの両翼を殺ぐことを選んだのではないだろうか。
法廷で見た彼女の姿は、それを示しているのではなかったか。
あの子供のばっさりと切り落とされた長い髪は、あの美しいブラウンの髪は、紛れもない、彼女の両翼ではなかったか。

そうした確信は、しかしあの言葉を聞いたゲーチスでなければ得ることのできないものである筈だった。
しかしそれに類似した何かを「この二人は経験している筈だ」という確信の元に「貴方なら本当の意味が解る筈だ」と断言してみせたこの女性は、やはり酷く恐ろしい存在だった。
この女性は底が見えない。彼女の支えがあったからこそ、プラズマ団は形を変えてイッシュに再興することができたのだろう。

「……ええ、私には解っています」

「ふふ、よかった」

そう告げた瞬間、控え室の空気がぐらりと揺れた。
強烈な眩暈に思わず目を閉じたゲーチスだが、しかし次に目を開けるより先に、その耳に波の音が飛び込んできて、ああ、テレポートに成功したのだと知ることができた。

12月の風は、冬の訪れを告げるように冷たさをゲーチスの肌へと運んだ。暫くその場に立ち竦んでいた彼は、しかし大きく溜め息を吐いてから足を動かし始める。
サザナミタウンの北に位置するゲートを抜けて、13番道路を海沿いに歩いた。粒の細かな砂浜が彼の靴を飲み込んでいく。この足を取られる感覚も久し振りだった。
そうして長い時間、冬の空気を味わうつもりだった。満足したところで踵を返し、プラズマフリゲートが停泊しているであろう、カノコタウンの方面へと向かうつもりだった。

しかし彼は、浜辺をそれ以上歩くことができなかった。何故なら徐に視線を移した海の向こうに、見慣れた、しかし何処か雰囲気の異なる船を見つけたからだ。
徐々にこちらへと近付いてくるそのプラズマフリゲートに、彼の足は止まる。やがてその船の甲板から、一匹のポケモンが飛び出した。
サザンドラかと思い目を凝らしたが、それはクロバットだった。
凄まじい速度で急降下し、浜辺の海をその風圧で切るように駆ける。その背中に、ゲーチスは懐かしい姿を見る。

クロバットはゲーチスのすぐ近くまで減速することなく飛び続け、その距離およそ3mというところで不自然にふわりと飛び上がった。
代わりにその背中から飛び降りた少女は、砂浜に一瞬だけ両足を付けてから、勢いよくこちらへと手を伸べる。
小柄な身体ながら、その腕には予想以上の力が込められていたようで、その勢いのままに砂浜へと押し倒されたゲーチスに、海が降ってきた。
それはいつかの光景に似ていた。

「おかえりなさい」

久し振りに向けられたソプラノの音は凛とした響きをもって冬の青空に響く。しかし、笑みを作った筈の彼女の顔からは、海が止まらない。
背中に触れた砂浜の冷たさと、振って来る海の冷たさとに押し挟まれ、ゲーチスは思わず左手を掲げて少女の髪に、触れた。
ああ、これが己の殺がれた右手と同じ意味を持つのだと、認めた瞬間、胸をあまりにも熱いものが満たした。

この子供に言ってやりたいことが、山ほどあった。

お前はこの日のために奔走し続けていたのではなかったのですか?それなのに私をこのように押し倒し、あまつさえその上で泣き出すなど、滑稽なことだ。
お前のせいで私のプラズマ団は滅茶苦茶だ。それでいてお前が掻き乱したその組織のトップに、再び私を据えようというのだから、随分と我が儘になったものですね。
どうせお前のことだ、休むこともせずにその身体を酷使し続けていたのでしょう。気付いていないのかもしれませんが、少し痩せましたね。それに、酷い隈だ。
海底遺跡に潜ったと聞きましたよ。10月の末に海へと潜るとは、余程風邪を引きたかったらしい。
それで、お前の嘘は世界を変えられましたか?

それらの言葉はもう、喉元まで出かかっている。あと一息もすれば一気に溢れ出してしまいそうな程に、それらの思いは寸でのところまで迫っていた。
よく頑張りましたね、なとど言ってやるつもりは微塵もなかった。
自分の不在の間に組織を掻き乱したことへの叱責も、するつもりなど全くなかった。
その自分がかつて統べた組織を再興させたことへの礼も、同様に告げようとも思わなかった。ゲーチスと少女はそうした関係ではなかったからだ。
では、この少女に対して、どんな言葉を一番に発するべきなのだろう。

とうとう嗚咽を零し始めた少女の華奢な肩を、左手で抱き、引き込んだ。驚きに目を見開いたのが気配で解る。
ああそうだ、自分はそんなことも解る程に少女の傍に居たのだ。そんな時間を、この子供と重ねたのではなかったか。
『あの子が大切だからですよ。そう思っているのはお前達ではない。私だ』
そう、確かに、あの時自分がそう言ったのではなかったか。
そこまで考えれば、次の言葉はまるで息をするような自然さで彼の口から零れ出る。

「ただいま」

そう告げれば、少女は驚いたように顔を上げる。
泣き過ぎて夕日を映したようなその海を乱暴に擦り、嗚咽の合間に「おかえりなさい」と飽きることなく繰り返す。
その度に肩をあやすように叩けば、ただそれだけのことが感慨深いのか、その海は留まることを知らず溢れ続ける。

空の眩しさに思わず目を細めた。

2015.8.26(修正)

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