64◆

黒いスーツを、17歳にしてはやや高い背に包み、私はその立派な建物を訪れていた。
初めて履く黒いパンプスは、私が足を踏み出す度に凛々しい音を立てて白い床に響く。なんだか立派になったみたいだ、と思い、背筋も自然と伸びる。
傍聴席に入り、あまりにも荘厳な空間に圧倒されつつ、一番前の右端に座った。

ああ、クリスさんはこんな場所で働いているのか。コトネの姉である、あの奔放でマイペースな人間を思い出し、私は思わず苦笑する。
彼女が弁護士だと聞いた時は、こんな人にそんな職が務まるのかと不安にさえ思っていたけれど、今ではその認識はすっかり消え失せてしまっていた。
ここ数か月で私は、彼女の凄まじい程のあれこれを目の当たりにしてきたからだ。
それは経済や法律について全くの素人だったシアに、たった一か月で十分すぎる程の知識と経験を叩きこんだことからも察することができた。

『ゲーチスさんは必ず、冬になる前に戻って来る。私を信じて』

裁判の控え室で不安気な表情をしていたシアに、彼女はいつもの笑顔でそう告げていた。
その透き通った空色の目に、未来を予知する能力でも備わっているのではないかと疑ってしまう程の自信が、幼さを残すその顔に溢れていた。
苦笑していた私に、隣にいたコトネが笑って私に耳打ちしてくれた。

『お姉ちゃんは運命が見えるの。だからお姉ちゃんが大丈夫だって言えば、絶対にそうなんだよ』

あまりにも現実離れしたその情報を、しかし私は疑うことはしなかった。だってあの女性は、あまりにも多くのものを持ちすぎていたからだ。
神童、という言葉は20歳である彼女に相応しくないのかもしれないけれど、けれどそれくらいの神々しい印象を、私は彼女に抱いていたのだ。彼女を、畏れていたのだ。
だから、もしそんな女性に「運命を見る」なんて力が備わっていたとして、別に不自然なことではないのではないかと思ったのだ。

未来を読むことのできる人間がいたって不思議ではない。
だって私達の中には、「ポケモンの声を聞く」青年や、「愛する者のために自らの名前すら偽る」男、それに「嘘で世界を変えるために足掻き続けている」少女だっているのだから。
寧ろ、そんな稀有な特徴を持つ人間の中に、私のような、ちょっとポケモンバトルが強いだけの女の子が紛れ込んでいるという方が不自然だ。
異常な空間の中では、正常な人間こそが異常なのだ。だからクリスさんが異常な力を持っていたとして、それは「私達」の間では何の問題もないことだったのだ。

そんなことを考えていると、裁判の時間になったらしい。警官らしき人物と入廷した、久し振りに見る男の顔に、私の心臓は少しだけ跳ねた。
半年ほどに及ぶ長い入院期間を経て、彼の体調は完全に回復していた筈だけれど、その顔色が相変わらず悪い。きっとそれは元からだったのだろう。
3年前にカラクサタウンで演説をしていた時も、青白い顔だったような気がするから。

シアがあいつの顔を見たら、感極まって泣き出してしまうんじゃないかしら。……けれど、よくよく考えればそんなことが起こる筈がなかったのだ。
だってシアは強い少女だから。私が閉じ続けていた世界に飛び込み、大勢を巻き込んで世界の仕組みに干渉しようとするだけの、気概と覚悟を持つ子なのだから。
あの眩しすぎる少女は、きっとこんな場所で涙を見せたりしない。きっと最後まで気丈に振舞うのだろう。そうして法廷を出た瞬間、わっと泣き出しその海を零すのだろう。
私は彼女のようにはなれなかった。なろうとも思わなかった。

難しい言葉ばかりを並べて、裁判の場は静かに、厳かに進む。
私は今の法廷が何について論じているのかと聞き取ることを放棄して、ただ、その場の空気をじっと観察していた。

弁護側の席に視線を移せば、証言を終えたNがクリスの横で待機していた。
首を絞めるようなネクタイに息苦しさを感じているのだろう。彼は事あるごとにネクタイの結び目を掴み、どうにかして緩められないものかと考えているようだった。
彼のネクタイを締めたのは私だ。少しきつくやり過ぎてしまっただろうかと思っていると、彼の色素の薄い目が私を捉えた。
息を飲んだ私に、彼はその喉ではなく、口を小さく動かすことで私に何かを伝えようとしてきた。

『大丈夫だよ、ボクにもゲーチスが戻って来る未来が見えている』

その僅かな口の動きから言葉を読み取れと言っているのか、と思わず苦笑したけれど、残念なことに、私はその、音のない言葉を読み取ることができてしまう。
誰とでもこうしたことができる訳ではない。相手がNだからこそ成り立つ無音の会話だった。
彼の言葉から、ああ、そうか、未来が見えるなどという稀有な才能を持つのはクリスさんだけではなかったのだと、私は改めて思い知る。
……私にできるのだから、彼も同じように私の口の動きから言葉を読み取ることができるのだろうという確信の元、私は引き結んでいた唇を開いた。

『馬鹿を言わないで。私がゲーチスのことを心配しているように見えるの? 私はゲーチスのことが大嫌いなのよ』

そう告げれば、Nはその肩を震わせて小さく笑った。勿論、その笑い声を音には出さない。
けれどすっと細められた色素の薄い目と、優しく下がった眉が、彼の心を如実に表していた。少なくとも、私には彼の心を読むことができた。

『でも、キミは「嫌いだ」と言った人物のことを、とてもよく考えているだろう。とても、大切に想ってくれているだろう』

『!』

『キミはよくシアに、自分の世界は自分とボクだけなのだと言い聞かせていたようだけれど、ボクはそうは思わない。キミの』

私は思わず立ち上がった。途中退出はマナー違反になるのかもしれないと思いながら、それでも私はもう、これ以上この場に座っていることができなかった。
「嫌いだ」とするゲーチスの裁判に出席している、この事実が、Nの言葉の揺るぎない根拠となってしまっていることに気付いたからだ。
黒いパンプスの音が法廷に響く。いつものポニーテールがスーツの生地の上から背中をくすぐる。
退出する直前に、私とは別の靴音が背後から聞こえた気がして、思わず振り返った。私の後輩が、今まさに証言台へと歩みを進めていたところだった。

ぎこちない足取りは、おそらく履き慣れないヒールの付いたパンプスのせいだろう。背の低い、華奢な身体をグレーのスーツに包んで、少女は姿を現した。
いつもならその足を進めるに従って、腰まで伸ばした長いツインテールが揺れる筈なのだが、その髪は肩程でバッサリと切り落とされていた。
それでもセミロングに近い長さの髪は、耳に掛けられて大半を後ろに流している。あまりにも艶やかなブラウンの髪が、一歩を踏み出す度にさらさらと波打つ。
その服装に、その髪に、何処にも以前の少女の面影を見つけることは不可能だった。けれどゲーチスは、驚いた顔こそしていたものの、特に困惑する様子は見せなかった。
おそらく、恐ろしい程の変貌を遂げたこの人物が、自分のよく知る少女であると確信しているのだろう。
その、凛とした海色の目は変わらずそこに在るから。彼が好んだその海は、何もかもが変わってしまった少女の目の中に揺蕩っているから。

『キミは「嫌いだ」と言った人物のことを、とてもよく考えているだろう』
Nの言葉を思い出し、私は苦笑した。その通りだと思った。
だってゲーチスの心がここまで読めてしまうのだ。シアの変貌に驚き、しかしその海色の目から「彼女だ」と確信しているのであろう、というところまで解ってしまうのだ。
彼の言葉に、間違いはない。だからこそ私は耐えきれなくなって席を立ったのだ。あの場に、これ以上留まることができなかったのだ。私のなけなしの矜持がそれを許さなかった。

止めていた足を再び動かして、私は法廷を飛び出した。大丈夫だ、シアは私がいなくても上手くやれる。彼女の勇姿が見られないのは少し残念だけれど、仕方ない。
だって私は「嫌いだ」と言った人物のことが読めてしまうのだから。あのNの、音のない言葉の続きだって、胸が軋む程に鮮烈に、とてもよく理解しているのだから。


『キミの世界はもうずっと前から、ボクとキミだけのものではなくなっていたのだろう?』


解っている。解っていた。
おそらく、チェレンやベルが私の家に押しかけ、「それでも友達だ」と豪語したあの日から。
いや、シアコトネの家で「私は私の大切な人達を傷付けた、たった一つの理を絶対に許さない」と宣言したあの時からか。
もしくはもっと前、ゲーチスを死なせたくないのだと懇願するシアに「どうかしているわ、あんたも、Nも、……きっと、私も」と吐き捨てた頃からだろうか。
それとも。

……私にはきっと、欲張りなシアや献身的にプラズマ団へと関わるNを糾弾する資格などないのだ。
だって私は彼等よりずっと中途半端な位置から、彼等のように必死になることもできず、かといって傍観を貫くこともできず、狡い距離で世界に関わり続けていたのだから。
けれど、私の「嫌った」世界は、私が考えているよりもずっと優しかった。
こんな中途半端な私を許してくれる。それでも、と受け入れてくれる。
それなら世界よ、その寛容さのついでに、私のこの捻くれた性格もどうか許してください。どうかこんな私でも、彼等の傍にいることを許してください。

私は優しすぎる彼等を支えるための力が欲しい。

裁判所の控え室でジュースを飲んでいると、Nやクリスさん、そしてシアが戻って来た。どうやら裁判は無事に終わったらしい。
彼女の小さな手が何かを持っているのを見つけ、その正体に思い至った私は思わず笑いながらシアに歩み寄る。
少女の手には、緑色の色鉛筆が握られていた。きっと平静を保つため、その覚悟を揺らがせないための、ちょっとしたお守りのつもりだったのだろう。

「お疲れ様。どうだった?」

「それが、あまり覚えていないんです。人が大勢いて、沢山、質問を受けて、それで……」

彼女は、泣かなかった。泣き出しそうな表情こそしていたけれど、その海の目が波打つことはなかった。
わっと泣き出すことを想定していただけに、私は少しだけ面食らった。
けれどそれは当然のことだったのかもしれない。人は、世界は、変わっていくのだから。私も、Nも、シアも、チェレンやベルも、……ゲーチスでさえも。

シアは泣いていない。それなのに私は彼女を抱き締めた。シアは驚いたように息を飲んだけれど、やがてその手を私の背に回し、縋るように力を込めてくれた。
傍から見れば、きっと私がシアをあやしているように見えるのだろう。けれど違う、縋っているのも、みっともなく透明な血を揺らしているのも、私の方だ。

「大丈夫、シア、あんたの勝ちよ」

あいつはシアに負けたのだ。あの、全てを統べようとした男は、こんな小さな少女に負けた。
それが本当におかしくて、やはり笑い出したかったのに、どうしてもできなかった。
私の、色だけはシアの目と同じであるそこは透明な血を湛え、海を揺蕩わせていた。

2015.8.25

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