「変えよう、シアちゃん」
お姉ちゃんのその声音は、妹である私でも聞いたことの無いような力強さを持っていた。だから私は、ただ驚いていた。
いつだって飄々としていて、奔放でマイペースな彼女は、ふわふわとした言葉遣いで相手を笑顔にすることがとても得意な人だった。
そのあまりの奔放さとマイペースが災いして、あまり友達と呼べるような人はいないようだったけれど、それでも彼女は大切な人と出会い、幸せな生活を送っていた。
そんな彼女が、シアに「変えよう」と訴えかける様子に、私はとても驚き、動揺していた。
「私達で、その不条理を覆すの」
お姉ちゃんのその言葉は私に、旅をしていた3年前のことを思い出させた。
何も知らなかったあの頃。ワカバの小さな町しか知らなかったあの頃。
ワカバタウンと同じような、平和で幸せな世界が、この土地の遥か彼方まで続いていると信じていたあの頃。
けれどそれは幻想だったのだと、私は旅に出て知った。
世界には平和や幸福と同じだけ、どす黒い色をした理不尽が渦巻いていることを、私はロケット団と対峙する中で思い知ることになった。
この世界は何処かおかしいのだと、そう感じるようになった。けれど、それだけだった。
私はその理不尽を懲らしめた気になっていた。私とシルバーでロケット団を解散に追い込み、ジョウト地方から脅威は去った。誰もが喜んでいる筈だった。
けれど、お姉ちゃんが初めて好きになったあの人は、私とシルバーのせいで居場所を失った。
私のしたことは間違っていない。けれど私のしたことは、全ての人を救うことではなかった。
そのことに私は特に悩まなかった。それはだって、当然のことではないかと思ったからだ。
だって悪いことをしていたんだもの。ロケット団は多くの人を苦しめていたんだもの。その報いが居場所を奪われることだったとして、それは当然のことではないだろうか?
私はそう、思っていた。けれどお姉ちゃんやシアは、さらにその奥を見ていたらしい。
そこには私の理解の少し上を泳ぐ、不思議な理論が渦巻いているように思えてならなかった。
私には理解できないことだと思いつつ、けれどシアが悩んでいること、成し遂げたいと思っていることは、私にも関係があることなのではないかと思い始めていた。
だって私の3年前の状況と、シアの1年半前の状況とは、驚く程に似ていたのだ。
「ねえ、シア。シアはどうして、イッシュを苦しめた人の味方をすることができるの?」
私は思わずそう尋ねていた。シアは少しだけ驚いたように、その青い目をお姉ちゃんから私に移した。
私より2歳も年下の彼女が、私の届かない所で思考を巡らせているその様は、私に少しの焦りを抱かせていた。
この子やお姉ちゃんの考えていることを、私はどうしても理解することができなかったのだ。
「そのプラズマ団のせいで、沢山の人とポケモンが引き離されたのよね? シアだって、ゲーチスさんに殺されかけたんでしょう?
それなのに、どうしてそんな人達を助けたいと思えるの? シアはその人達のことを許せないと思ったことはないの?」
私は、許せない。
ヤドンの尻尾を切った人のことも、怪電波を飛ばして生態系を狂わせた人達のことも、ラジオ塔を乗っ取りそこで働く人達を危険な目に遭わせた彼等のことも、許せない。
だから、ロケット団が解散して、そのことで彼等が居場所を失ったとして、それはだって当然のことではないだろうか?それが悪事を働いてきた人の報いではないだろうか?
「私は、傲慢だと思う」
「!」
「プラズマ団の人達が居場所を失ったことも、ゲーチスさんが衰弱して死の淵を彷徨っていたことも、全部を自分自身のせいにして背負うなんて、欲張りだよ」
私の言っていることは、間違っているのだろうか。
少しだけ、不安になった。この場に私の味方は居ないからだ。
けれど私はどうしても引く訳にはいかなかった。だって彼女がここまで傲慢に、欲張りにならなければ、彼女が記憶を失うこともきっとなかったのだ。
そのことで、トウコちゃんがあんなにも苦しむことだってなかったし、あのような「運命」を必死に肯定しようと努める必要だってなかったのだ。
この少女の欲張りは、少女だけではなく、少女の周りの人をも苦しめている。
私はその現実を、ここ数日の間、ずっと見てきた。だからこそ、彼女の考えに手放しで賛成する訳にはいかなかったのだ。
「世界なんて、変わる筈がないよ」
その瞬間、私ははっと息を飲んだ。自分の紡いだその言葉に強烈な既視感があったからだ。
あれは確か、アサギシティでシルバーと再会した時のことだったのだと思う。不機嫌そうな顔をした彼に、私は笑顔で紡いだのだ。
『私、強くなるよ。君よりも、もっと、ずっと強くなる。それで、このちょっとおかしな世界を変えるの』
心臓が締め付けられる心地がした。どうして忘れていたのだろう。
私は誓ったのではなかったか。この世界は何処かおかしいと気付いたあの日から、この理不尽な世界と戦うと決めていたのではなかったか。
けれど、違う。私にとってその理不尽とは、何の罪もない人がロケット団に苦しめられ、怯えながら暮らしている様子を指すものだったのだ。
私が唱えていた世界の理不尽と、シアの掲げる理不尽とは真逆の様相を呈しているのだ。だからこそ、彼女の言葉を受け入れられないのだ。
けれど、もし、私が打ち砕いたと信じ切っていたその不条理は、このおかしな世界のほんの一面に過ぎないのだとしたら。
彼女やお姉ちゃんが、もっと大きな理と戦おうとしているのだとしたら。
「解っています」
この小さな少女が、そんな何もかもを背負おうとしているのだとしたら。
「私は、欲張りなんです」
『貴方ならできる。私も力を貸す。私だけじゃない、私のようなことを考えている人は他にも大勢いる。一人なら変わらないことだって、いつか覆せるかもしれない』
お姉ちゃんが言ったその「大勢」の中に、私も入っているのだとしたら。
そんな彼女の力に、私がなれるのだとしたら。
私は、何も言うことができなかった。困ったように眉を下げて微笑むシアを、ただ茫然と見ていることしかできなかったのだ。
*
パタン、と音を立ててドアが閉まった。リビングで寛いでいたトウコちゃんが「おかえり」と言って迎えてくれる。
シアちゃんが居ないことに彼女は怪訝な表情をしていたけれど、少し寄るところがあると言って出かけてしまったと告げれば納得してくれた。
彼女はあれから、お姉ちゃんと一緒にコガネシティの事務所へと向かったのだろう。
そこで何を話しているのかは想像するしかないけれど、きっとこれからのことについて計画を立てているのだろう。
法律だけでなく、文学や経済、自然科学にも詳しいお姉ちゃんのことだ、きっと有益なアドバイスをしているに違いない。
「クリスさんは元気だったか?」
キッチンに立って夕食を作っていたシルバーが、私にこっそりとそう尋ねてくれた。
私が実の姉にゲーチスさんの弁護を頼んだこと、今日もその打合せのためにシアを連れて行ったこと、それらを知っているのは、シアを除けば彼だけだ。
私はその問いに微笑むことで肯定を示した。彼は満足そうに頷いて、鍋の中に視線を落とす。
シルバー、と名前を呼べば、その落とした視線はそのままに、「どうした?」と聞き返してくれた。
「こんな私でも、誰かを救えると思う?」
その言葉に彼の手がぴたりと止まる。
少しだけ訝しげに顔を上げた彼に、尚も私は尋ねる。
「私は世界を変えられると思う?」
すると一瞬の沈黙を置いてから彼は笑い出した。
何がおかしいの?と問い詰めれば、彼はとてもおかしそうにその銀色の目を私に向けたのだ。
「お前らしくないな。このおかしな世界を変えるんだとあれ程気丈に宣言していたじゃないか」
「!」
それはもう3年以上前の出来事であった筈なのに、彼は私のたった一度の言葉を覚えている。
彼にとっても、私のたった一言はそれほどの意味を持っていたのだと、理解した瞬間、私も思わず笑い出した。
『私、強くなるよ。君よりも、もっと、ずっと強くなる。それで、このちょっとおかしな世界を変えるの』
迷うことなんてなかったのだと、私にだってできるかもしれないのだと、認めればまだ見ぬ夢物語への期待に胸が膨らんだ。膨らんでしまった。
そんな私がどうにもおかしくて、やはり笑った。シルバーはそんな私の横顔を、やはり笑いながら、見ていてくれた。
「世界」が、私が思っていたよりもずっと大きな規模で変わろうとしていると私は確信した。
「私」が、変わりたいと思っていることこそが、その証拠だ。
2015.3.15