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私は追い詰められていた。欲張りな私が、あまりにも多くの者に手を伸ばし過ぎたその代償として、私は何よりも大切だった筈の記憶を失った。
それを取り戻した今、もう二度とこんなことがないようにと、その「欲張り」を捨てたとして、それは全く不自然なことではなかったのだ。
けれど私は、不自然にも、その欲張りを抱え続けることを選んだ。

「あんたは馬鹿だわ」

コトネさんの家には、再び9人の人間が集まっていた。私、アクロマさん、トウコ先輩にNさん、コトネさんにシルバーさん。3人のダークさんだ。
私が全てを思い出した日、Nさんを連れて2階へと上がっていったトウコ先輩は、暫くして目を真っ赤にして降りてきた。
けれどその後は憑き物が取れたかのように明るくなり、シルバーさんの作ったシチューを2回おかわりしたり、Nさんの髪を三つ編みしたりしてはしゃいでいた。
彼女の笑顔に陰りを落としたのが私であることは解っていた。そして、私を大切に思ってくれる人のことを思うなら、私は今すぐに「欲張り」を捨てるべきだったのだ。

大切な人が傷付く苦しさを、私はとてもよく理解していた。全てを忘れた私に、アクロマさんが浮かべた愕然とした表情は、今でも私の脳裏に焼き付いていた。
あんな表情をもうこれ以上、私の大切な人にさせていい筈がない。
けれど、それでも。

「解っているの?これはあんたの欲張りが高じて起こったことなのよ?」

トウコ先輩は射るような鋭い言葉を私に突き刺してきたけれど、その目は何処か呆れたように、諦めたように私を穏やかに見つめていた。
9人の人間がいるとは思えない程に、この空間はとても静かだった。
彼女はオレンジジュースの入ったグラスを一気に飲み干し、軽く揺らした。グラスに残った氷がカラカラと心地よい音を立てる。

「ねえ、シア。あんたはもう少し、綺麗に器用に生きたっていいと思うの。あんたが何もかもを背負う必要なんか何処にもない。
あんたの言う「責任」は、あんたが勝手にその辺から拾って自分のものにしただけなのよ?」

それは、解っている。
私は幾度となく、多くの人間に「私は責任を取らなければならない」と紡ぎ続けてきた。けれどそれは、本当に正しかったのだろうか。私はそう思い始めていた。
私は、本来なら背負わなくてもいいものを背負い過ぎている。そんなトウコ先輩の指摘はきっと正しい。
プラズマ団が解散に追い込まれ、その組織に属していた人が居場所を失ったのも、ゲーチスさんがその心を手放してしまったのも、きっと、本当は私だけが悪い訳ではない。
確かに、プラズマ団を解散に追い込んだのは私だ。その事実は揺らがない。
しかしだからといって、私がその全ての責任を負わなければいけない理由は、きっと本当は何処にもない。

「それにね、あんたはどうやら、自分が追い詰められていることに気付けない人間みたいだから」

トウコ先輩はそう付け足して、グラスの中の溶けて小さくなった氷を口に含み、そのままこくりと丸飲みした。
私は、自分が追い詰められていることに気付けない。その言葉の意味を私は計り兼ねていた。
首を捻って考え込む私に、隣に座っていたアクロマさんが助け舟を出してくれた。

「貴方は自分でも気付かないうちに、精神的にかなりの無理をしていたのですよ。そのことに、貴方を含めた誰もが気付いていなかったのです」

アクロマさんはとても悲しそうにそう紡いだ。
私が、無理をしていた?彼にそう指摘されて尚、私はそのことに気付いていない。
一体、彼は何のことを言っているのだろうか。私は一体、何に追い詰められていたというのだろうか。
確かに記憶を失くした私は、真実を探ろうとしてもがき苦しんでいたけれど、きっと彼が言っているのはそのことではない。

シアさん、貴方はとても嘘が得意なようだ」

「!」

「貴方の嘘は、きっとこの場にいる誰よりも強力です。貴方は自分でも気付かない内に、自分の疲労や苦しみに嘘を吐き続けている。そしてその嘘は、貴方自身をも欺いている」

彼の言葉は雷のように私の脳天を射抜いた。
積み重ねた嘘は真実以外の何者にもなり得なかった。私はこの身で痛い程にそれを経験していた。けれどその現象に私なりの結論を下すことがどうしてもできずにいたのだ。
私が辿り着けなかった結論を、アクロマさんはまるでずっと前から知っていたかのようにそっと差し出してくれる。

シアさん、覚えておいてください。貴方には、積み重ねた嘘を真実にする力がある」

私ではない人物に、私のことを私よりも深く知られている。そのことは私に衝撃を与えた。
私のことは私が最もよく知っている。当たり前である筈のその原理が、私においては破られている。
それはとても驚くべきことだった。そして、他人よりも自身のことを理解できていない自分に幻滅して然るべきである筈だった。
けれど私は、その事実にショックを受けなかった。寧ろこれ以上ない程に安心したのだ。

私のことを、私よりもずっと鮮明に知ってくれている人がいる。
そのたった一言による大きすぎる温もりは、きっと私がずっと探していた答えを示しているような気がした。
『アクロマさんは、かけがえのない誰かに出会ったことがありますか?』
彼に宛てた手紙の一文が脳裏を掠めた。

「その危険な嘘を周りに、そして貴方自身に吐き続けるだけの理由を、貴方は持っているのですか?持っていたとして、それは貴方が傷付くだけの価値のあるものなのですか?」

……もし、私が今までもずっと、自分の嘘で自分自身の疲労や苦しみを偽ってきたのだとしたら。
積み重ねた「大丈夫」という嘘によって、自分は何も苦しんでいないのだと、傷付いていないのだと、そうした言葉を全て真実にしていたのだとしたら。
そのせいで、自らの限界を計り違えてしまい、アクロマさんやトウコ先輩を苦しめることになってしまったのだとしたら。
ここで今、自分の苦しみや痛みに正直になったなら。私が今まで吐いてきた嘘から全て解放されて、そして、この場に居る誰もがそんな私を咎めないのだとしたら。

「……それでも」

私の声にアクロマさんは顔を上げた。私はその太陽の目を見据えた。


「私は私の大切な人達を傷付けた理に屈したくない。不条理というものを紐解けないままにしておきたくない。その理を読むためなら、私のどんなものだって惜しくない」


誰かが息を飲む音が聞こえた気がした。
『この世界には、そうした理不尽なことを平気で行う、利己的で醜い人間で溢れ返っている』
『わたしにはそれがどうしても受け入れられなかった』
私はヒオウギを旅立つ前に、アクロマさんが話してくれた彼の過去のことを思い出していた。
私よりも優しくて誠実なこの人が、この広い世界でどうして苦しまなければならないのだろう。どうして世界はそんな風に出来ているのだろう。
彼の話を聞いた私はそんな風に思い、悩んでいた。けれど結論など出なかった。理不尽な現象に答えなど用意されていないのだと、私はその時、初めて気付いたのだ。

『世界は、大人は、わたしは、貴方が思う以上に醜く汚い』
彼が苦しそうに零したその言葉の真の意味を、私はあの時ようやく理解するに至ったのだ。
そして、その理不尽に苦しめられていたのは、アクロマさんだけではなかった。

誰もが苦しんでいた。トウコ先輩も、Nさんも、ダークさんも、ゲーチスさんも、皆がそれぞれに苦しみ、傷付けられていた。
その不思議な理への対処の仕方はそれぞれ異なっていたけれど、それでも誰もがその大きすぎる不条理を持て余していた。
私はその、たった一つの理に、どうしても屈することができなかった。
私の大切な人達を苦しめた「理不尽」を、私は絶対に許さない。だからこそ、私がその理に屈する訳にはいかない。
そのために、私が自分の苦しみと痛みに嘘を吐き続けることになったとしても、構わない。

私はその理を覆す為なら、自分の心に嘘を吐くことだって厭わない。

アクロマさんは私の目をそっと覗いた後で、穏やかに笑ってから私の頭を撫でる。私はその行動に息を飲んだ。
呆れられると思っていた。どこまでも強情な私に嫌気が差してもおかしくないと思っていた。けれど彼は笑顔を崩さない。
それどころか、トウコ先輩もNさんも、ダークさん達も、一様に納得した表情をしていたのだ。私はそのことに驚き、当惑した。

「何よ、その顔は。見限られるとでも思っていたの?」

トウコ先輩が呆れたように肩を竦める。

「だって私の後輩が、私が逃げた世界に立ち向かおうとしているんだもの。あんたのその覚悟を今、聞いてしまったんだもの。
だから先輩として、できる限りのことをしてあげる。アクロマのためでも、ゲーチスのためでもない、私の大切な後輩のためよ」

「私のため」

「あんたはあんたの持っているもの全てを惜しむことなく捨てる覚悟みたいだけれど、そんなこと、此処にいる皆がさせないわ。ひとつも取り零すことなく拾ってあげる」

Nさんやコトネさんが、それに相槌を打つように頷いて笑った。ダークさん達は何も言わなかったけれど、その思いを否定するような素振りは一度も見せなかった。
あまりにも我が儘で欲張りな私の信念が、この場に居る全ての人間に受け入れられていることに私は衝撃を受けた。
少しだけ怖くなって、アクロマさんに尋ねてみる。

「あの、私は間違っていないんですか?」

すると彼は笑って、「シアさん、それはどうでもいいことなのですよ」と紡いだ。
尚もその意味が解らずに首を傾げていると、彼は私の目を覗き込むようにして、いつかと同じ言葉を繰り返す。

「貴方が間違っていても、わたしが支えます。だから不安にならなくていいのですよ」

その言葉がおそらくは、私達の一歩の始まりだったのかもしれない。

2015.3.11

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