31

私は自分の動揺を落ち着かせたくて、慌てて椅子に座り、その本を捲った。

『大丈夫ですよ』
ゲーチスさんの柔らかなテノールが脳裏でぐるぐると響き続けていた。その音を私は聞いたことがある。
私とゲーチスさんはどんな風にして知り合ったのだろう。私は、この人を慕っていたのだろうか。彼の腕に縋り、みっともなく涙を零すことを許せる程に?
次から次へと新しい質問が湧き上がっていた。「アクロマさん」のことすら把握しかねているのに、この人に関する情報は一つもない。
それ故に、聞かなければならないことが沢山あった。けれど先ずは落ち着かなければいけないと思った。

『大丈夫ですよ、貴方なら読めますから』
何より、彼の確信に満ちた目の正体を知りたかったのだ。彼が何故、そう言ったのか、この本の中には何が書かれているのかを知りたかった。
だから私はその本に手を掛け、読み始めた。

「……」

そこには私達の生活の中に潜む物理や化学が、とても解りやすく説明されていた。
水の表面張力の話、空の青と夕焼けの赤についての話、物質に存在する重心の話、塩と砂糖の水に対する溶解度の話、人間の舌が拾う味覚の種類に関する話……。
私は夢中でそれらの活字を追った。その衝撃が冷めならぬままに、頭はもっと、を欲しがって次のページに手が伸びた。

何故、コップに満タンに注いだ水が、少しだけ盛り上がっても零れずにいられるのか。何故、晴れた空は青くて、夕焼けは赤いのか。物質の重心とは何を意味するのか。
何故、砂糖は温かいお湯によく溶けるのか。何故、私達の舌は苦い味や渋い味を鋭く拾うのか。
それらは日常に散りばめられた確かな疑問で、しかしこれまでずっと解決されることのなかったものだった。
私が読んできた本の中に、このようなものは存在しなかった。物語の本や世界を知るための本も好きだったけれど、これ程までに一冊の本に衝撃を受けたことはなかった。
抱いていた疑問に対する答えが、私にも解る程度の難しさで、活字としてその紙の上に刻まれていた。こんな感動は初めてだった。初めてである、筈だった。

けれど私の頭はその感動を覚えていた。それは確かな既視感として、私の鼓動を大きく揺らしたのだ。私はこれに似た体験をしたことがあったのだ。
白いノートの切れ端が脳裏に浮かんで、消えた。

『貴方の知りたい世界が見つかりますように』

その紙にはたった一行だけ、青いインクでそんな言葉が書かれていた。これは、私に宛てられた手紙なのだろうか?
たった一行だけ。しかしその視覚的な情報は、私に一つの事実を確信させた。
そのたった一行が書かれた文字は、私の鞄に入っていた2通の手紙のそれに酷似していた。

「……」

もし、その言葉の送り主が、あの手紙の送り主と同じく「アクロマさん」であったとして、何故、このタイミングでそれを思い出したのだろう。
この、一気に開けた世界に眩暈がするような感覚に引きずられるようにして、私はその一文を思い出した。
「アクロマさん」はかつて私に、そのような感動をくれたことがあったのだろうか。その時も私は、一気に開けた世界に眩暈がするような感覚に襲われたのだろうか。
そうだとして、それを何故、ゲーチスさんが貸してくれた本で思い出したのだろう。どうしてゲーチスさんのことではなく、「アクロマさん」のことを思い出したのだろう。

何かが、おかしい。


私はもう、このおかしな嘘の綻びに気付いていた。けれどそこから真実を導き出すには、何かが決定的に足りなかった。きっとその真実は、私の記憶だけが知っているのだろう。


私はそのまま、本を読み進めようとした。けれど直ぐにそれを閉じることになってしまう。
仕事が終わったのだろう、彼の靴音がこちらへと近付いてきた。私はこの人の靴音を覚えていた。
お待たせしました、と彼は微笑み、天気がいいので外で話しましょうかと言って、ドアを指差した。
私は頷き、その本を返そうとしたのだが、「読み終わるまで持っていても構いませんよ」という彼の厚意に甘えることにした。
この不思議な既視感のある本には、まだ何かが隠れているのではないかと思ったからだ。

「いい風ですね」

ゲーチスさんはそう言って、眩しそうに空を見上げた。私にはそれが、見えない筈の風を見ようとしているように感じられた。
私も真似をするように空を見たけれど、その透き通る青の中に風を見ることはできなかった。

ワカバタウンには、常に穏やかな風が吹いている。「此処には始まりを告げる風が吹くの」と、コトネさんが嬉しそうに話してくれた。
この町には小さな風車が幾つもあり、それらは止まない風を証明しているかのように回り続けていた。

「わたくしと、話がしたいということで来てくださったんですよね」

「……はい」

「賢い貴方の質問にどこまで有益な答えを返せるかどうかは解りませんが、できる限りお答えするつもりでいますよ」

その言葉に私は少しだけ安心した。ありがとうございますと頭を下げてお礼を言えば、どういたしましてと微笑みながら紡いでくれた。
私の小さな歩幅に合わせるようにして、彼はゆっくりとワカバタウンの静かな町を歩いた。
コトネさんの家の前を通り過ぎると、地面が徐々に砂地へと変化していた。海に続く道だ。波の音がすぐ傍で揺れていた。

シアさん、海は嫌いですか」

ゲーチスさんのそんな質問に、私は少しだけ悩んで首を振った。
ヒオウギシティに住む私にとって、海は馴染みの薄いものだったけれど、だからといって嫌いな訳ではなかった。

「浜辺を歩きましょう。一度、貴方と二人で海に来たいと思っていたんです」

まるで大切な人を想うようなその声音に、私の胸は鋭く痛んだ。
ゲーチスさんは私を、少なくとも嫌ってはいない。それどころか、記憶を失くした私に誰よりもショックを受け、私にとても親切にしてくれた上に、そんな悲しい言葉まで紡ぐのだ。
それなのに、私はゲーチスさんのことを何も思い出せていない。こんなにも私を思ってくれる人の首を、他でもない私が締めたというその悲しい記憶だけしか、思い出せない。
あの記憶は紛れもない真実だった。それならば私はどうして、この人の首を絞めたのだろう。

「ゲーチスさんは、海が好きなんですか?」

寄せては返す波を見つめている彼にそう尋ねてみた。
すると彼はとても悲しそうに微笑み、その白い手袋を嵌めた手で私の手を強く引いたのだ。

シアさん、少し遊びましょうか」

ゲーチスさんは私の手を引いたまま、海へと歩いていった。靴が波に濡れるのも構わずに、ひたすらに海の奥へと歩を進めていた。
私は少しだけ怖くなった。彼の首を絞めた記憶が脳裏を過ぎった。ゲーチスさんを見上げると、彼はひたすらに海の向こうを見つめて歩いていた。
彼がいきなり取ったその行動は私を不安にさせたけれど、その一方で何故だか、大丈夫だと思った。この人のことは信じられたのだ。誰よりも、何よりも。

私の靴にも海の水が入り始めていた。9月の海はとても温かくて、私は思わずその心地良さに目を細めた。
この海を蹴って駆け出した感覚を、私はいつか抱いたことがある筈だった。けれどそれ以上、その思索に耽ることはできなかった。
彼はくるぶしが海に埋まるくらいのところで立ち止まり、私の手をそっと離したからだ。
そして何を思ったのか、その白い手で海を掬い、私の方へと大量に投げたのだ。
顔にまで投げられたその海はとても塩辛く、目に入った海はとても染みて、涙が出そうになった。

「わっ! ……ゲーチスさん! 何を、」

「ほら、シアさんも掬わなければ、溺れてしまいますよ?」

彼はクスクスと笑いながら私に海を投げ続けた。私はすこしだけかっとなって、望むところだと言わんばかりに勢いよく足元の海を掬い、彼へと、投げた。
ゲーチスさんも同じように私へと海を投げていた。だから私も、止めなかった。時折、そんな自分達がおかしくて、弾けるように私と彼は笑った。
ここに狂気を当て嵌めるのはとても勿体ないことのように思われた。そんな大仰な言葉は似合わなかった。これは本当に些細な、楽しい出来事である筈だったのだ。

しかしその不思議な遊びは長くは続かなかった。彼はやがて手を止め、不自然に沈黙してしまったのだ。
少しふざけすぎてしまったかもしれない。けれど始めたのはゲーチスさんの方だ。
真面目そうに見えた彼の楽しい一面は私を安心させていたけれど、次の瞬間、その安心は弾けて消えた。


彼が、泣いていた。


私は不安になって声を掛けようとした。しかしそれは叶わなかった。何故なら彼は微笑んでから、私の腕を強く引いたからだ。
海に濡れた白衣に私は顔を埋めた。彼の心臓の音がすぐ近くで聞こえた。何が起きているのか、彼が何を思っているのか、私には何も解らなかった。
けれど、こんな風に抱き締められた記憶が、私には確かに残っていた。あの時も「誰か」は泣いていて、私はこの両手を確かに「誰か」の背中に回したのだ。

「ゲーチスさん、どうしたんですか? 大丈夫ですか? 何処か、痛むところがありますか? ……ごめんなさい。私、はしゃぎすぎてしまって。本当にごめんなさい、ゲーチスさん」

「呼ばないで」

息を飲んだ。私は思わず彼から手を放し、後ずさる。

「わたしを呼ばないでください、シアさん……」

その懇願は震えていた。その懇願が示す拒絶がとても悲しいことであるように思えて、瞼の裏が火傷をしたように熱くなった。
彼の涙が海に落ちる音がした。

2015.2.21

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