23.5◆

殴ろうと振りかぶった腕を後ろから掴まれた。振りほどこうとしたが、相手は非力ではあってもれっきとした年上の男だ。その力に私が敵う筈がなかった。
私の前に立ち、何もかもを諦めたように微笑むアクロマに苛立ちが募る。

「どうしてあんたがそんな顔をしているのよ! あんたまで諦めたりしないでよ!」

トウコ、落ち着いて」

Nがいつもより少しだけ低い声で私を咎める。けれど私は知ったことではなかった。
非力な癖に高身長なNの身体を押しのけるようにしてまくし立てる。恐ろしい程に膨れ上がった悔しさと憎悪とを持て余していたにもかかわらず、涙は出なかった。

「あんたしかいなかったのよ! 私じゃ駄目だったの、私は代わりになれなかったの!
だからあんたが戻って来るのをずっと待っていたの。それなのにどうして、あんたまでシアを騙すような真似をするのよ!」

幼い子供の用に地団駄を踏みたい気分だった。アクロマを非難する言葉がどうしても止まらなかった。
私は彼に懸けていたのだ。シアは少しずつ記憶を取り戻し始めている。全てを思い出し、その傍に寄り添ってあげられるのは、私ではない、彼なのだと確信していた。
だからこそ、彼がシアに再会するまでは「思い出しませんように」と祈り続けていたのだ。
そしてあれから3日後、ようやくアクロマは戻ってきた。けれどそれは、私の望んだ彼の姿ではなかった。

彼は「自分はゲーチスという人間である」という、大きすぎる嘘を吐いた。そして記憶を持たないシアにとって、その嘘は真実になったのだ。
あの瞬間、彼女の中から「アクロマ」という存在は消えてしまった。

全ての嘘がシアを中心に回り始めていた。

「お願いだから、これ以上、狡いことをしないでよ……」

「……」

「私は狡い大人が大嫌いよ。でもあんたのことは信頼していたの。シアが誰よりも慕ったあんたのことを、私だって信じていたの。
お願いだからこれ以上、シアや私を裏切るような真似をしないで」

それは懇願だった。自分がこんなにもみっともなく喚き立てられる人間だとは思っていなかったが、どうしても止められなかった。
アクロマはしばらく黙っていたが、やがて肩を竦めるようにしてその端正な顔に微笑みの表情を貼り付けた。

その、何処か達観した諦念を引っ提げている彼がどうしても解せなかった。
シアが過去一年半分の記憶を失ったというその事実は、誰よりもこの男に衝撃を与え、狼狽し、絶望せしめるものだと思っていたからだ。
事実、シアの「何処かでお会いしましたか?」という言葉に、彼は愕然とした表情を浮かべたのだ。
にもかかわらず、彼は嘘を吐いた。私にはその理由が理解できなかった。

「何を言っているのですか?」

しかし彼はその微笑みのままに、とんでもない言葉を紡いだのだ。
かっと私の頭に血が上って、再び振り上げそうになった手を私は強く握り締めることで耐えた。代わりに彼を睨み上げた。強い憎悪と落胆とをもってその視線で彼を射抜いた。
彼はその視線にも素知らぬ風で肩を竦め、私を宥めるような声音で続きを話そうと口を開いた。

「あの子に必要なのは、アクロマではないのですよ」

鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。私はいよいよ泣きそうになって、益々彼を睨み上げた。
この男は、この、何処までもシアに似ている、誠実で一途なこの男は、あろうことか、とんでもないことを思い違えている。
シアの勘違いを更に上回る酷さのそれが、今の彼の一言に集約されていた。彼の目に映された諦めの色の正体を、私はようやく知るに至ったのだ。

「あの子が求めているのはわたくしではない。ゲーチスです」

「違うの、アクロマさん」

シアさんが全てを忘れたのなら寧ろ都合がいいと思いました。その方が、わたくしは彼の「代わり」になりきれる」

「違うのよ!」

私は声を張り上げた。つまりはそういうことだったのだと、認めた瞬間、喉元から熱いものが目蓋へとせり上がってきた。私は両手を更に強く握り締めて涙を堪えた。
この男は、シアが最も慕っていたこの男は、シアのことを誰よりも大切に思っていた筈のこの男は、とんでもない勘違いをしていたのだ。
シアの「かけがえのない存在」が、ゲーチスと重ねた時間の中で、自分からゲーチスにすり替わってしまったのだと、思っている。そんな、勘違いをしている。

私だって、シアが記憶を失う前まではそうだと思っていた。シアの最も大切な存在が、ゲーチスにすり替わってしまったのだと思っていた。
けれど、「先輩」である私が見抜けなかったとしても、他でもないアクロマは、その真実を見抜かなければいけないのではなかったか。
愛の意味が解っていない彼女の、彼女自身ですら解っていない愛の行方を、貴方だけは揺らぐことなく受け止めてあげるべきではなかったか。

私の「違う」という叫びに、アクロマは驚く事すらしなかった。ただ同じように微笑んで、首を振る。

「違わないんですよ、トウコさん」

彼の金色の目は、やわらかな諦めを映していた。私はどうすることもできずに立ち尽くすしかなかった。
違う、違うの。そう繰り返しながら、しかしその言葉がアクロマに届くことはないと知っていたのだ。
この全てを諦めた目をした人間には、何を言っても通じない。私はそれを知っていたのだ。
諦めという名の覚悟を抱き続けた人間を、私はとてもよく知っていた。他でもない私自身の強情さは、そうした諦めによって培われたものだったからだ。
私もまた、彼によく似た諦めによって世界を拒絶した人間の一人だったからだ。

けれどアクロマさん。違う、違うのだ。真実はそうではない。
シアが本当に心から想っていたのは、ゲーチスではない。

もし仮にそうだとして、シアがゲーチスのことをアクロマよりも大切に思っていたとして、それならば、あのタイミングで記憶を失くすことはあり得ないのだ。
その記憶の退行が精神性のものだとして、あの事故はきっかけに過ぎないのだとして、彼女が大切な人の「死」を意味するその失踪に耐えきれなくなって記憶を失くしたのだとして、
それならばその記憶の消去は、ゲーチスがいなくなったその瞬間に行われていなければならないからだ。
あの空になった病室に彼女が戻り、泣き疲れて茫然と項垂れていたあの時に失われていなければいけなかった。
しかしそうではなかった。彼女の記憶はもっと後に失われた。

シアがどうして、一年半前から先の記憶を忘れたのか、あんたに解る?」

そう、ゲーチスに関する記憶を忘れるためであれば、一年半前の春にまで遡る必要などなかった。
彼女がゲーチスと最初に出会ったのは、去年の夏、7月の終わりである筈だったのだから。
しかし彼女の記憶はそれ以前のものまで失われていた。彼女がポケモントレーナーとなって夏にヒオウギを旅立つ、その日よりも3ヵ月の前からの記憶が、なくなっていた。
彼女の絶望は、記憶を押し込めてしまわなければならない程の絶望は、ゲーチスによってもたらされたものではなかったのだ。

では、彼女にそれ以上の絶望を突き付けたものは一体、「何」だったのか?彼女は、本当は「誰」を忘れようとしていたのか?

私はその正体に辿り着いていた。シアが旅立つ3か月前の春に出会った人物の名前を、シアが心から想っていた人物の名前を、私は知っていた。
けれど彼はその真実を見ようとしない。私ですら辿り着いたその結論に、彼は辿り着こうとはしてくれない。
彼はシアを見てはくれない。だからひたすらに悔しかった。
どうして気付いてくれないのだろう。どうして、シアがその想いを向けた張本人である彼が、その想いを信じることをしてくれないのだろう。

シアが想う相手は、あんたに出会った時からずっと変わっていなかったのよ、アクロマさん」

しかしその真実を、彼は受け入れてはくれない。

「それは少なくとも、わたくしのことではありませんね」

「……アクロマさん、」

トウコさん。「アクロマさん」はもう、此処にはいないのですよ」

彼はそう言って優しく微笑んだ。それは全てを拒絶する、悲しい笑顔だった。彼がそっと私に背を向けた、その瞬間、ぐらりと視界が透明な血で揺れた。
私の肩にそっと回されたNの腕に縋り付いて、声をあげて泣いた。アクロマの靴音が遠ざかる。小さくなったその音は私の泣き声に掻き消された。

今なら私の嫌った「狡い大人」の気持ちが、少しだけ解るような気がした。
力のないものは、頼ることしかできないのだ。それがどんなにみっともない行為だとしても、そうする他になかったのだ。
だから私は、その大嫌いな大人がとった行動に、今だけはあやかることにしたのだ。

誰でもいい、助けてほしい。私でないのなら、誰でもいい。
この嘘を暴いてほしい。それが無理なら、彼女に「全て」を思い出させてほしい。助けてください、助けてください。
彼等の心を、救ってください。

2015.2.20

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