19

シアの質問には何でも答えた。旅でのこと、チャンピオンになってからのこと、鞄の中に入っていたポケモン図鑑のこと。
ただし、アクロマとゲーチスのことは全て伏せて話した。

アクロマの存在がシアを苦しめている訳では決してなかったが、彼はあまりにもゲーチスの存在と関連していた。
だから彼のことを話すということは自然と、プラズマ団のこと、そしてゲーチスのことにも触れるということになる。
もし、シアにアクロマやゲーチスのことを話したとして、それで彼女が全てを思い出したとして、そこから彼女はまた、苦しむ道を選ぶだろう。
私にはそれがもう、耐えられなかった。

いずれはきっと、彼女は全てを思い出すのだろう。それでも、どうしても私にはその記憶の復元に関する手助けをすることができなかった。
傷付いて欲しくない。これ以上、シアが傷付かなければならない理由など、何処にもない。
私の臆病な部分が顔を出し始めていた。本来の私はこうした、とても臆病な人間なのだ。それを知っている人間は、この世で数える程しかいないのだけれど。

その日の夜、私はどうしても眠れなかった。
シアが記憶を失った直接の原因は、私にはない。けれどそのきっかけを作ってしまったことは事実だった。私を責める要素は十分に揃っていた。
けれどその一方で、このような形であるとはいえ、落ち着いてくれた彼女に安堵している自分もいたのだ。

本当ならば、私がシアの空白の記憶を全て話した方がいいに決まっているのだ。
アクロマのことも、ゲーチスのことも、二人が同時にシアの前から姿を消したことも、それによって、シアが錯乱したことも、全て。
けれどそうすれば、またあの時に戻ってしまう。彼女はまた「傷付く」ことを選んでしまう。
私はこれ以上、「これはあんたの旅だから」と、彼女に彼女自身の全てを決めさせることがどうしてもできなかった。
できることなら、真綿で首を絞める方法にばかり駆け出す彼女の足を、雁字搦めにしてしまいたいといつだって思っていたのだ。

これ以上、馬鹿な選択をしなくたっていいじゃない。
そんな私の臆病な思いを断ち切ることはできそうになかった。

それでも彼女は全てを思い出すだろう。思い出して、そして同じように傷付く道を選ぶのだろう。
馬鹿な選択を繰り返して、その身に傷を増やしていくのだろう。
私には、それを止めることはできない。アクロマにだって無理だったのだ。彼女の愚行を止められる人間など、何処にもいない。
だからこそ、今、彼女を止められる術が見つからないこの現状で、彼女の記憶の蓋を取り去ることはできない。
彼女が再び愚行に走るのを許せる程、私は優しくも強くもない。

トウコちゃん、まだ起きているの?」

小さな足音を立てて、コトネが深夜のリビングに現れた。
ソファの隣にそっと腰かけ、私の方を見てふわりと微笑む。その笑顔に私を気遣う色が含まれていることは明白だったけれど、彼女は決してそれを口には出さない。
その態度に私は救われていた。全てを解っていて、それでも口を出さない彼女の姿勢は私を少しだけ安心させた。
眠りたくないのなら、眠らなくてもいい。彼女の沈黙という名の肯定はそんな許しの言葉をも包括しているように感じられたのだ。

あれから私はワカバタウンのコトネの家へと戻り、コトネとシルバー、そしてNに全てを話した。
そして「シアが思い出すまで、アクロマとゲーチスのことは伏せてほしい」とNに訴え、コトネとシルバーにも「そのように振舞ってほしい」と頭を下げた。
全ては私の我が儘だったけれど、彼等は快く了承してくれた。
シアは私の知り合いであるコトネとシルバーの家へと遊びに行く途中であの事故にあったのだと、予め考えていた設定を示し合わせた。
嘘で塗り固められた生活が始まろうとしていた。

その一方で私は、持ってきていたノートパソコンで「真実」に関する情報を集めていた。
3年前、私が旅に出た後で、国際警察のハンサムという人間が私を訪ねてきた。七賢人を見つけるために力を貸してほしいとの申し出に私は応じた。
その際に、国際警察の関係者しか入れないページのパスワードを教えてもらったのだ。
大事な場所のパスワードくらい、一年に一度くらい変えていそうなものだけれど、そのパスワードは3年が経った今も有効だったようだ。
私は「関係者」として、堂々と国際警察のページに侵入している。

探す情報は勿論、今日の朝に出頭したアクロマとゲーチスに関するものだった。
そして目に飛び込んできたその情報は、私にとって信じられない内容だったのだ。おそらくはこの情報も、私が眠れない要因として一役買っているのだろう。

『アクロマを自らの強迫下に置き、研究を強要させられていた』
シアを同じく自分の強迫下に置き、半年間、ホウエン地方に身を隠していた』

事実とは全く異なる証言ばかりがそこには並べられていた。
唯一、Nに関する証言は真実をそのまま語っただけのようだったが、アクロマとシアに関する内容は、全てが嘘で塗り固められたものだったのだ。

第一に、アクロマもシアもゲーチスに脅迫などされていない。アクロマとゲーチスは対等な立場にあった筈だし、シアに関しては全くの嘘だと断言できる。
どちらかと言えば、シアの方がゲーチスを自らの強迫下に置いていたのだ。「生きてください」というやわらかな強迫に、あいつは従い続けていた。
その結果がこれだというのだろうか。アクロマとシアに何の罪を着せることもなく、自分がやったことだとしてその全てを被ろうとしているのだろうか。
仮にそうだとして、何のために?

「……」

トウコちゃん、麦茶を置いておくから、喉が乾いたら飲んでね」

コトネは優しい声音でそう告げた。ガラスのコップになみなみと注いだ麦茶を指差して微笑み、そっとリビングを後にする。私は彼女に挨拶すら告げられずに沈黙した。
その情報を前にして「そんな筈はない」と理性が囁いていたけれど、その直感が間違っているとするための根拠が何処にもなかった。
しかしその直感をそのまま信じることもできなかった。

全てはシアのための行動だったというのだろうか。
この出頭も、嘘で塗り固めた証言も、全て、彼女のためにしたことなのだろうか。
アクロマまで庇うような証言をしたのは、彼女の大きな拠り所であるアクロマを、早々に仮釈放して彼女の元へと向かわせたかったからなのだろうか。
いずれにせよ、まっとうな世界で生きてきたシアの傍で生きるには、ゲーチスもアクロマも、一度、法の裁きを受ける必要があった。
だからこそ、二人は出頭したのだろうか。そしてゲーチスはその上で、全ての罪を被ろうとしているのだろうか。
全ては、一人の少女の為に。

まさかあの男は、シアをここまで大切に思っていたというのか。

階段を降りる小さな足音が聞こえる。コトネがまたやって来たのかと思ったが、私は振り向いてその姿を確認する気力を既に失っていた。
私の隣に腰掛けた彼女は、そっと私の肩を抱いた。心なしか、彼女の髪質が違う気がする。

トウコ

瞬間、私は反射的にその人間を蹴り飛ばした。
2階で皆が寝ているのを考慮してか、悲鳴を噛み殺してNが自分の足首をさすっている。

「ボクは180cmあるんだよ? そんな人間の足元をすくうなんて酷い」

「なんであんたがいるのよ。コトネは?」

「カノジョに呼ばれて、此処に来たんだ。トウコが眠れないみたいだから、傍にいてあげてほしいと」

コトネはその天真爛漫な表情の裏に、とても繊細な気遣いを張り巡らせている。だからこそ、私からそっと立ち去り、代わりにNを呼んだのだろう。
そういう気遣いは要らないんだけどな、と思いながら、私は「別にどうってことないわ」と気丈な笑顔でNに告げる。
しかしこれ以上、嘘を重ねることを私の心は拒んだらしい。言葉とは裏腹に零れる透明な血を、Nは苦笑しながら指でそっと拭った。

トウコは泣き虫だね」

そんなことを言われたのは初めてだったので、少しだけおかしくなって笑ってしまった。
私のことを泣き虫だなんて言うのはNだけよ、と震える声で返す。それは真実だった。私の泣き顔は目の前のこの人間しか知らないのだ。
だから、もう、いいんじゃないかなと思った。私の泣き虫であることは既に知られている。それならもう、みっともなく泣いたっていいんじゃないかな。

「大丈夫だよ、トウコ

「……」

「夜は皆が眠る時間だって、トウコが教えてくれたよね?」

考えなければいけないことは山積みだった。けれどそれらの課題に掛かろうとする手をNはそっと制止して、笑った。
いつも私がNにするように、あやすように背中を抱き、大丈夫だよと囁く。安心して、そして透明な血が止まらなくなる。
……ああ、私は何を思い上がっていたのだろう。

私とNとを中心に回っているこの世界で守られているのは、本当は私の方だったのだ。

2015.2.18

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