16

結論から言えば、きっと全て私が悪いのだ。

クロバットに乗り、飛び立った彼女を捕まえることができたのは奇跡と言えるだろう。
私はゼクロムの背中から手を伸ばし、家屋の屋根が見える程度の高さで彼女の腕を掴んだ。
ワカバタウンの東には海が広がっていて、真下に見える浅瀬から潮の香りが漂ってきたことを覚えている。
私の腕を振りほどこうとする彼女を必死に引き留めた。

シア、落ち着いて!」

どうすればいい、どうすればシアを落ち着かせることができるのか。
私は懸命に考えた。けれど、シアが落ち着いていないのと同じように、私も落ち着けてはいなかったらしい。
上擦った思考は何の解決策も導き出してはくれなかった。私はただひたすら、力技で彼女を引き留めるしかなかったのだ。

彼女は何を恐れているのだろう。何に焦っているのだろう。何もかもが解らなかった。
ゲーチスとアクロマの出頭、という事実を、この時の彼女はまだ知らなかったのだ。私はそのことに思い至らなかった。
自分の目の前から二人の人間が姿を消したことに、彼女は恐怖し、焦っていた。それは真実だったが、彼女の中でのその認識は大きく捻じ曲げられていたのだ。
他でもない、シア自身の「勘違い」によって。
しかし残念なことに、シアがとんでもない勘違いをしていることに、この時の私はまだ気付けなかった。
次の、彼女の言葉を聞くまでは。

「離して! アクロマさんが死んじゃう!」

「!」

「私、間違ったんだ! 正しくなんてなかったんだ! 私が間違っていたからアクロマさんが死ぬんだ! 早く行かなきゃ、死んでしまう、私が殺してしまう!」

鈍器で頭を殴られたような衝撃が走った。私はあまりの驚きに、彼女の腕を掴んでいた手の力を緩めてしまった。
その一言が、今の状況をこれ以上ない程に雄弁に語っていた。

きっとシアはこの状況を、1年前の冬の日と重ねているのだろう。
ゲーチスが突然、姿を消したあの日。死のうとしていたらしい彼を、すんでのところで引き止めたあの日。
即ちシアにとって、ゲーチスが何も言わずに姿を消すことは、即ち彼の「死」を意味していたのだ。
そして、それと時を同じくして、アクロマも姿を消してしまった。だからシアはこんなにも焦っているのだ。
アクロマさえも「死」を選ぼうとしているのだという、とんでもない思い違いをしていたのだ。

そうと分かれば話は早い。シアに事情を説明して、ゲーチスもアクロマも死んでなどいないことを伝えればいいだけの話なのだから。
シアはゲーチスに殺されかけた記憶から、冷たいものや寒い場所をトラウマとしていた時期があった。
きっと、それと同じようなものなのだろう。何の連絡もなしに忽然と姿を消すことは、彼女にとってあの日を呼び起こすトラウマとなっているに違いない。
脳に刻み込まれたその恐怖が、正常な判断を妨げているのだ。私はようやく全てを理解した。

だから私は、彼女に真実を伝える必要があったのだ。しかしそれは叶わなかった。
シアが発した言葉は私をこの上なく驚かせた。私はその驚きにより、その手を「緩めて」しまった。
力の限り振りほどいたシアは、勢い余ってぐらりとその身体を揺らし、クロバットの背から落ちていった。

「!」

私は言葉を発することができなかった。咄嗟に彼女の腕を掴むこともできなかった。
ただ、その華奢な身体が大きく後ろに倒れて、真っ逆さまに岩場へ近い方の浅瀬へと落ちていく、その一部始終をただ、見ていることしかできなかった。
長い髪は、シアの身体よりも少し遅れて宙を縦に割いていった。驚きにその青い目を見開く彼女と、ほんの一瞬だけ、目が合ったような気がした。

そこでようやく私はゼクロムに下降を命じた。既にクロバットが急降下を始めていた。
シアのクロバットなら、もしかしたら追い付くのではないかと少しだけ期待を抱いた。
しかし3階程の高さしかなかったところから落ちた彼女が、浅瀬に勢いよく叩き付けられる方が僅かに早かったのだ。
私はゼクロムが地に降り立つよりも先に飛び降りた。靴が濡れるのも構わずに走った。
膝まで足が浸かるくらいの深さに彼女は倒れていた。浅い海に沈むその身体を慌てて抱き起こすと、シアは口からこぽりと海水を吐いた。
言葉にならない小さな呻きが聞こえる。私はシアの頭を支えている手に、海水とはまた別の液体の感覚を拾ってしまった。

空を飛んでいるポケモンの背中から落ちるなんてよくあることだ。問題はこの微妙な高さにあった。
ポケモンが彼女を背中に受け止められない程に短い落下時間。故に彼女は地に叩き付けられたことになる。
けれど、此処は浅瀬だ。地面に落ちるよりは余程、幸運である筈だった。
そこまで高くない場所からの落下、しかも下には水。故に大きな怪我の心配など、していなかった。寧ろこれで彼女が落ち着いてくれれば、とさえ思っただろう。
その浅瀬に、大きな岩さえなければ。私の手に、赤い液体がべっとりと付くまでは。

「……助けて」

それは私のものだと信じられない程に弱々しく、震えていた。

「誰か! 誰か来て!」

誰でもいい。この状況を改善してくれる相手であれば、誰だっていい。
私でないのなら、誰でもいい。

コトネの家のドアを開けて飛び出してきたNは、直ぐに私の存在に気付いたらしい。
トウコ、と名前を呼んで駆けてくる彼を待つことすらできなかった。その時の私は驚く程にみっともなく、彼に助けを求めることしかできなかったのだ。

「N、助けて。シアが、お願い何とかして!」

世間知らずで箱入りのNに何もできないことなど解りきっていることの筈であった。なのに私はNに縋るのを止めなかった。
とても温かい夏の終わりの海に、シアの血がゆっくりと溶けていくのを見ながら、私は助けてと繰り返していた。
思えばそれはきっと、私が零した初めての弱音であり、私が口にした初めての懇願だったのだろう。

トウコちゃん、どうしたの?」

少し遅れてやって来たコトネは、ぐったりして動かなくなったシアを見て驚きに目を丸くしたが、その後頭部から血が出ていることに気付くと、即座に私へと指示を出した。

トウコちゃん、頭を揺らさないで。そのまま、ゆっくりゼクロムの背中に乗せてあげて。
シルバーはヒビキのいる総合病院に連絡を取って。救急車を待つよりゼクロムに連れて行ってもらった方が早いから、こちらから向かうって伝えてね。
それからNさん、私の家の引き出しからバスタオルを何枚か持ってきてくれないかな。シアの身体をくるんでおきたいから」

あまりにも的確で迅速なその指示に私は驚きながらも素直に従った。シルバーとNもそれぞれの作業のために駆け出して行った。
コトネはそれから、シアに大きな声で質問と声掛けを重ねていた。
……シア、私の声が聞こえる?頭の他に痛いところはない?大丈夫だよ、今から病院に行くからね。寒くない?もう直ぐバスタオルを持ってきてくれるからね、大丈夫。

大丈夫、大丈夫だとコトネは言い聞かせるように何度も紡いでいた。
やがて準備が整うと、私はコトネと共にシアの身体を支えながら、ゼクロムに乗ってジョウト地方で最も大きな病院へと向かうことになった。
シアは呻き声をあげながらも何とかコトネの質問に答えていた。その合間に絞り出すように紡いだ声を、私はどうしても忘れることができなかった。

「死なないで……」

この時、私が即座に彼女の言葉を否定しておけば、何かが変わったのだろうか。
その言葉にコトネは驚いた。私は驚くまでもなかった。自分の意識が曖昧になっているその最中に、彼女は自分の心配ではなく、彼等の心配をしていたのだ。
心臓を抉られる心地がした。

そんなことを呟いた彼女だが、やがて眠るように意識がなくなってしまった。
青ざめる私に、コトネはまたしても「大丈夫」と繰り返す。

「頭はね、血管が沢山通っているから、出血も派手に見えるものなんだよ」

「……助かる?」

「私はお医者さんじゃないから、助かるとも、助からないとも言えないよ」

驚く程に落ち着いているコトネはきっと、このようなことを何度も経験してきたのだろう。
彼女の双子の弟であるヒビキは、唐突に意識を失い、倒れた際に頭を打ったことがあるのだという。
そうした場合に、最適かつ迅速な処置ができるのは、最も近くにいる母親やコトネだった。おそらく、そのための知識が彼女の頭には入っているのだろう。

コトネは医者ではない。助かるとも、助からないとも断言できるはずがない。それは解る。理屈では、理解できる。
それでも私は、意味のない言葉を繰り返していた。
真っ逆さまに落下したシアと、その頭から流れる真っ赤な液体は、私の正常な思考を奪うに十分な威力を持っていたのだ。
つまるところ、私だって、シアのことを非難できないくらいに動揺し、取り乱していたのだ。

「助かるって、言ってよ。お願い……」

トウコちゃん、」

「だって私が、私が手を離したから悪いの。私が、」

コトネは少しだけ身を乗り出して、私の口をそっと塞ぎ、微笑んだ。
私より2歳も年下の彼女が、私よりもずっと冷静な態度で振る舞い、私よりもずっと毅然とした声音でその呪文を紡ぐのだ。
私はこんな時に何もできない。一番、しっかりしなければいけない時に、何一つ、適切な行動を取ることができない。

「大丈夫だよ、トウコちゃん。大丈夫だから」

私が強いなんて嘘だ。

2015.2.16

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