5◆

イッシュ地方のカノコタウンは、町の北にあるポケモン研究所の他には、特に何の見どころもない小さな町だ。
南と西を海に、東を森に囲まれている。自然豊かなこの町には、ポケモンも多く訪れる。
朝にはマメパトが、夜にはコロモリが空を駆ける。北にある一番道路に足を踏み入れれば、当然の如く、草むらからポケモンが飛び出してくる。
この町では、朝や夜を知らせるのは、人々の行き交う靴音や、明々と照らされるビルの窓ではなく、マメパトやコロモリの翼の音、もしくはその鳴き声なのだ。
そして、そんな穏やかな町を彼等は愛していた。

そんなカノコタウンの中央に位置する一軒家に、一人の少女が住んでいた。
おそらくはこの町のみならず、イッシュ地方全体においても、彼女の名を知らない者はいないだろう。
プラズマ団を解散に追い込んだ、たった一人のポケモントレーナー。
ゼクロムという黒いドラゴンポケモンを従え、イッシュの平和を守ったその姿は、まさに「英雄」と呼ぶに相応しいものであった。

しかしその肩書きを、他でもない彼女が酷く嫌っていることはあまり知られていない。
英雄として見られることを拒んだ彼女が、それ以降、この町を出ることが滅多になくなったことを、知る人間は少ない。
一つの組織を解散に追い込む程の力を持ちながら、ポケモンリーグに一度も挑戦していない理由は、そこにあったのだ。
彼女はイッシュという土地を嫌っていた。そこに住む人々を嫌っていた。彼女が守ったその場所は、他でもない彼女によって拒絶されていた。

トウコ、キミに会いたいという少年が来ているよ」

そんな彼女の部屋に通じる扉を、一人の青年がノックした。
今年で20歳になるその青年と彼女との間に、血の繋がりはない。身寄りのないその青年を、彼女が半ば無理矢理にこの家へ引き込んでから2年が経とうとしている。
彼もまた、このイッシュでは有名な人間だった。プラズマ団を率いた「王」として、白い伝説のドラゴンポケモンを従え、「ポケモンの解放」を訴えたのだ。

かつては敵として対峙していた二人が何故、一つ屋根の下で暮らしているのか。
それを説明するには今から3年前に話を戻さなければならないので略そう。
結論から言えば、彼等は互いに無くてはならない存在だったのだ。

『私の世界は私とNとを中心に回っているのよ』
気丈にもそう言い放ったその言葉が、彼女の4歳年下の後輩に深く印象付けられていることを、当人である彼女は知らなかったのだけれど。
そう、つまりはそういうことなのだ。
N。彼こそが、彼女がイッシュ全土を敵に回しても守りたい存在だったのであり、彼女は自分自身とNとを守るために、他の世界を拒絶したのだ。
彼女は広すぎるこの世界を見限り、狭い自分の世界だけを大切に守り抜くことを選んだのだ。

「追い返して。風邪を引いているとでも言っておいてよ」

そんな彼女が、知らない少年の来訪を、息をするような自然さで拒んだのは当然のことだと言えるだろう。
しかしその青年は容赦なく、トウコと呼ばれた少女の部屋に侵入し、彼女の布団を勢いよく剥ぎ取った。

「いつまで寝ているんだい」

「……N、お母さんみたいなことを言わないでよ」

トウコは苦笑してベッドから降りる。
今まで寝ていたのだと思われていたが、彼女はパジャマから着替えていた。どうやらインターホンの音を聞いてからベッドに潜り込み、寝ている振りをしていたらしい。

「名前は聞いたの?」

「ヒュウと名乗っていたよ。シアと同い年くらいで、紺色の髪に赤い目をしていた」

ヒュウ。
その名前は彼女に、ヒオウギに住む後輩のことを思い出させた。
『彼には私を殺せなかった。トウコ先輩とNさんが守ってくれたからです。私は生きています。生かされています』
自分より4歳も年下の、若干13歳の少女。旅をして、その広い世界を知りながら、そのどれもを切り捨てることのできなかった欲張りな少女。
トウコは彼女のことを大切に思っていた。少なくとも、Nの次くらいには。
けれどトウコにとって、大切であることと好きであることとは同義ではないのだ。事実として、彼女はNのことが嫌いだった。
そして、その後輩である少女のことも、同様に少しだけ苦手だった。あまりにも眩しいのだ。
その欲張りな姿勢には愚かだと蔑むことができても、その欲を叶えるために誰よりも努力を重ね、どこまでも自己犠牲を厭わないその姿には敬服せざるを得ない。

しかし、彼女はそうした少女を咎め続けている。
あんたがそんなに苦しまなければいけない理由はどこにもないと、諭し続けている。もっと楽な生き方があるのだと、言い聞かせている。
けれど彼女は聞く耳を持たない。酷く強情なところは、もしかしたら先輩であるトウコに似てしまったのかもしれなかった。

彼女は玄関へと足を運び、その少年を視界に収める。
彼の赤い目は真っ直ぐにトウコを見ていた。そこに憤りの色を見た彼女は肩を竦める。

「私に何を聞きに来たの?」

シアのことだ。お前は知っていたんだろう。どうして止めなかったんだ!」

「……初対面の人間にお前呼ばわりされる筋合いはないわ。説教をされる道理もない。これ以上煩く騒ぎ立てるなら、その口を縫い付けるわよ」

トウコはその据わった目で真っ直ぐに、ヒュウと名乗った青年を睨みつけた。
この子供はきっと、そんな欲張りな彼女が諦めざるを得なかった、数少ない対象の一人だ。
ヒュウは最後の言葉に一瞬だけ怯んだものの、再びその赤い目で彼女を睨み上げた。トウコはその目に、大嫌いな憎むべき人物の姿を重ねて苦笑した。

「つまり、自称「シアの友人」であるあんたは、今頃、シアがゲーチスの元へ通っていることを知って、慌てて彼女を咎めたものの全く聞き入れられなくて、
今度は力技で言うことを聞かせようとしたけれど、あのシアにポケモンバトルで敵う筈がなくて返り討ちに遭った。……こういうことでいいのかしら?」

「……そうだ。あいつにバトルで勝てる奴なんて、そういない。でもお前ならできるんだろう?」

「まあ、私は強いからね。でも私は賢い人間でもあるの。何処かの組織や何処かの馬鹿のように、力技で言うことを聞かせるような野蛮な真似はしないわ」

その言葉にかっと血が上ったのか、彼は大声でまくし立てた。
この少年がプラズマ団を憎んでいることを、トウコシアから聞いて知っていた。知っていたからこそ、そのような挑発の文句を投げたのだ。

「俺とプラズマ団とを一緒にするな!」

「同じでしょ? 言葉が通じないから実力行使に出るところも、正義面をしているところも、そのお面の下に薄汚い本音を隠しているところも、そっくりだわ」

ねえ、そうでしょう?彼女が笑顔でそう問いかければ、彼の顔は見事に歪んだ。トウコは薄い笑いを浮かべながら考える。
彼がかつて振りかざそうとしたその正義の下には、妹のポケモンを奪われた憎しみが深く根付いていた。
今も、シアのためだ、正義のためだと大口を叩いておきながら、その本音はもっと利己的な理由である筈だった。
そう、例えば、この少年がシアに好意を持っていたとしたら。そんな彼女が、よりによってプラズマ団のボスと毎日のように会っていると、彼が知ってしまったら。

トウコが思うに、純粋な正義感なんてものは、この世界にはないのだろう。
彼女がかつてしたことを、イッシュの人々は正義だとしたが、その行動は彼女の利己的な欲望によって支えられていたのだ。
Nに会いたい。ポケモンと一緒にいたい。そうした単純な願いの元に彼女は動いていた。そしてそれは、2年後に同じ動きを見せた後輩にも同じことが言えたのだ。
トウコより4つ年下の彼女が、今も尚、ゲーチスに寄り添っているその理由も、決して正義の名の下に為されていることではない。
彼を死なせたくないから。死んでしまったら、私にはどうすることもできないから。

トウコシアも、世間が彼女達に見出した「正義」に相応しくない、どこまでも利己的な人間だったのだ。
そしてそれは、彼女達に限ったことではない。

シアのことが信じられないの?」

「……あいつは、危なっかしい奴だったから。それにシアのことを信じられたとしても、ゲーチスは信用できない。だから俺が、」

「大丈夫、心配しなくていいわ」

その言葉にヒュウは目を見開く。

「だって、シアなんかよりも、あんたの方がずっと危なっかしいんだもの。あんたが手を出さない方が、きっと事は穏便に運ぶわ」

少年の顔が一瞬にして歪んだ。彼女は楽しくなって笑った。
沢山悩んで、沢山傷付けばいい。シアの苦悩の半分でもいいから、沢山、沢山悩めばいい。


でも、正義を唱えながらそれを振りかざす力を持たず、挙句、私に縋ってくるような狡い人間を、私は絶対に許さない。


トウコは勢いよくドアを閉め、鍵をかけた。脳裏を燃える炎の色をした、大嫌いな髪が過ぎった気がした。
皆、大嫌いだ。

2013.4.10
2015.1.20(修正)

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