28

彼が腰かけているベッドの隣に座る。そっと、肩に触れる。不自然に丸みを帯びたその先には、ある筈のものがない。
右側と左側で身体の重さが違うと、バランスを取るのが大変そうだ。そもそも右手のない状態で、今までどうやって過ごしてきたのだろうか。
元々、疾患を抱えていて思うように動かせなかったという右腕の代わりに、彼の左腕は倍以上の働きをしてきたのだ。
それでも両手を使わなければできないことは沢山あるように思われた。

「……」

壊死した身体の一部は切断しなければならない。その知識がなかった私はあの時、青ざめるしかなかった。
帰ってから少しだけ調べてみると、その切断は壊死した組織からの拡大や感染を防ぐために必要な措置だということが解った。
痛かったのだろうか。手術に麻酔なしで挑む筈がないと知っていながら、私はそんなことを思った。
けれど彼は生きている。嘗ては自分の配下としたポケモンに右腕を奪われたことが、彼にとってどれ程の屈辱だったのかは想像に難くない。
けれど私は、嬉しかった。

「何をしている」

そんなことを考えていた私の額を、ゲーチスさんは左手でやや強く叩いた。私は思わず怯んで、彼の右肩に触れていた手を引っ込める。

「一応、肩の感覚は残っています。そう執拗に触られると流石に不愉快だ」

そう言った彼に、私は少しだけ言い返してみたくなった。
昨日の一件で私の度胸は更に培われたのだろうか。彼への恐れはもうなくなってしまったのだろうか。
後者はあり得ないと思いながら、しかしそれでも私は、彼の皮肉めいた言い回しに大人しく閉口することができなかった。

「それならそう言ってください。咎める前に手を出しちゃいけませんよ」

「お前がそれを言うのですか」

……しかし、見事に上げ足を取られる。
確かにそうだ、私は昨日、まくし立てた彼に問答無用で暴力なるものを振るったのだ。そして恐ろしいことに、そんな暴力は昨日の一件に限ったことではない。
あの冬の日も、彼に平手打ちを食らわせた。冷たい浅瀬の上に押し倒し、勝手に死なないでくださいと懇願した。
私はこんなに血の気が多い人間だったかしら。私はヒュウやトウコ先輩のことを思った。

彼等は「かけがえのない存在」を持つが故に、その存在が脅かされた時、盲目となる。
ヒュウにとっての妹のチョロネコや、トウコ先輩にとってのNさんは、彼等にとって「かけがえのない存在」だった。
だからこそ、彼等はかけがえのない存在に対して、その存在を守るために必死になり、時に凄まじい怒りを生む。
ヒュウが持っていたプラズマ団に対する敵意や、Nさんを馬鹿にした人間に対してトウコ先輩が振るいかけた暴力は、きっとそれ故の憤りだったのだろう。
私が彼に対して振るった数多の暴言、過激な行動は、彼等のそれに似ている気がした。

では、ゲーチスさんは私にとって、「かけがえのない存在」なのだろうか?
それは違う。私は彼を好きな訳でも、彼のことが誰よりも大切な訳でもない。
それらに相当する人は、また別にいるのだ。私は私の目に海を見た彼のことを思った。

私の「かけがえのない存在」がいるとするならば、それは間違いなく、その金色の目をした彼のことだ。

それなら何故、私は彼に対してここまで鋭利な感情を向け、時に暴力に近いものを振るいながらも必死に言葉を紡いでいたのだろう。
簡単なことだ、私は彼に死んでほしくなかった。
この悲しい人をこのまま死なせてしまってはいけない。彼がしたことへの責任を取らないままに、全てを捨てていなくなってしまうことはどうしても許せない。
トウコ先輩やヒュウは、そのかけがえのない存在を脅かした相手に対して怒りを露わにしていたけれど、私は彼自身に憤っていた。彼のことがどうしても許せなかった。
だから、私は此処へ通い続けている。彼を許さないために、彼を忘れないために、彼の生を繋ぎ止めるために。

「腕がないことがそんなに珍しいですか」

いいえ、そうじゃないんです。私はそう付け足して、しかしもう躊躇わなかった。
この人は相変わらず、恐ろしい面を確かに持っていた。けれどそれはもう、私の言葉を飲み込ませる程の威力を持ってはいなかったのだ。

「だって、嬉しいから」

「……は?」

「ゲーチスさんに右腕がないことが、嬉しいから」

きっと、キュレムが彼を攻撃したのは、自らを苦しめた相手への復讐をするためであると同時に、イッシュを脅かした相手への鉄槌を下すためであったのだろう。
イッシュの土地を、人やポケモンを脅かしたプラズマ団を、その組織を束ねていた彼のことを、人々は許さなかったけれど、それはポケモンにも言えたことだったのだ。
ゲーチスさんは、キュレムによって右腕を失った。それは彼が既に「裁かれていた」ことを意味していた。
彼は既に、自らの犯した罪に対する罰を受けていた。だからこその屈辱がそこにあり、彼はずっとそれを引きずっていたのだ。

その屈辱に苛まれた日々は想像に難くない。プライドの高そうな彼にとっては、とても苦しい時間だったのだろうと、私が推し量ることは容易い。
けれど私は、嬉しかった。彼の右腕が動かないことと、彼の右腕がないことでは、天と地程の差があるのだ。
彼の傍で重ねた時間、その分だけ積み重なった数多の逡巡、鉛のように重い罪悪感、それら全てが丸ごと削ぎ落とされたような、そんな開放感に満ち溢れていた。

「私、酷い人なんです。ゲーチスさんの右腕がないことに喜ぶ、どうしようもない人間なんです」

キュレムは彼を許さなかった。彼は既に裁かれていたのだ。
だから、何も要らない。彼がこれ以上苦しむべき理由はきっと、何もない。何故なら彼はもう、日向で生きる為の代償を払っているから。

「私はゲーチスさんを守ってもいいんです」

私はずっと迷っていた。彼には迷うことを許さず、生きてくださいとひたすらに懇願していながら、私はずっと揺らいでいた。
私が彼に寄り添い、彼に生きてくださいと訴えることは、私が守ることを選んだ世界への裏切りに相当するのではないかと悩んでいたのだ。
もし私が彼ともう一度対峙する時があるとすれば、それは世界を危機に陥れた彼に正義の鉄槌を下す時でなければならなかったのかもしれない。
けれどその役目は、キュレムが担ってくれていた。私はそうしてやっと、敵としてではなく、一人の人間として、彼を見据えることができたのだ。

彼を貶めるもの全てから、彼を傷付けるもの全てから、彼を守ることが私には許されていた。
殺がれた彼の片翼が、それを許してくれた。

「……お前のような子供に守られる程、私は落ちぶれてはいませんよ」

ゲーチスさんはそれだけ紡いだ。その表情から彼の真意は汲み取れない。私が理解できたのは、彼が吐いた小さな溜め息だけだった。
呆れられているのだろう。馬鹿なことをと蔑まれているのだろう。それでもいい気がした。
どのみち私の思いと彼の思いは交わらなくて、私達は何処までも似ていなくて、それでもこうして隣に在ることが許されているのだから。
落とされた長い沈黙はただ優しかった。

廊下を誰かが歩く音がする。その特徴的な靴音は、病院に勤めるスタッフのものではなかった。
私は弾かれたように立ち上がる。脳裏でとある人物の名前が弾き出される。まさか、と思った。
静かにドアが開く。朗らかに微笑み軽く会釈をするその姿と、見覚えのある青いコートに目眩がする。

「お久しぶりです、レディ」

「……アダンさん」

彼はコートのポケットから何かを取り出す。
その写真の中で、今よりもずっと顔色のいい彼が、大勢の人に向けて演説を行っていた。

「後ろで座っている彼と話がしたい。通して頂けますかな?」

心臓が大きな音を立てて揺れ始めていた。私の覚悟が問われようとしていた。

2012.1.8
2015.1.15(修正)

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