12

※この回には人徳に悖る、過激な言動が含まれます。

椅子の上に置かれていたのは膝掛けだ。それは昨日までと変わらない。
ただ一つ違うのは、そのひざ掛けの更に上に、見慣れないものが鎮座していたことだ。

「モノクロだと味気ないと言っていたでしょう」

「え、買ってくれたんですか?」

「ワタクシが色鉛筆など持っているように見えるのですか」

疑問に皮肉で返されてしまい、私は苦笑する。
寡黙な彼はこうした皮肉がとても得意なのだ。それは静かな時間の中に交わされる、本当に少ない言葉から私が見出した彼の性格だった。
私はその、金属のケースに入れられたお洒落な24色色鉛筆を手に取った。そのケースに書かれた単語に、私は思わず声をあげてしまっていた。

「水彩色鉛筆!」

水彩色鉛筆。それは絵の具無しで水彩画が描ける夢の道具だ。
絵の具のように大量の画材を必要とせず、絵筆1本と水だけで事足りてしまうため、簡単に水彩画が楽しめるらしい。
描き方は簡単、普通の色鉛筆同様に着色し、その上から水に浸した筆で、色を塗るようになぞるだけだ。
水に色が反応して、水彩画のような淡い色の広がりを見せてくれるという。
つい最近、ホウエン地方のデボンという会社が販売を始めたのは知っていたが、それが私の手元にあることが俄かには信じがたい。

「これを、使ってもいいんですか?」

「他に誰が絵など描くというのです」

ぴしゃりとそう言い放たれてしまい、私は苦笑する代わりに、その冷たい大きなケースを両手で抱き締めて笑った。

「ありがとうございます」

彼は読んでいた本から顔を上げ、その赤い目で私を一瞥した。
その顔が少しだけ微笑んでいるように感じられたのは、私の気のせいだったのかもしれない。

あれから、……私が真実を知ってしまってからも、此処での時間は何も変わらなかった。
窓から見える景色を描き、ダークさんが入れてくれたココアに口を付け、彼と取り留めのない会話をする。
ゆっくり流れていく時間を、もう彼に恐怖することのなくなったその時間を、しかし私は恐れていた。

私はいつまで彼の傍にいられるのだろう。
彼は答えてはくれなかった。ダークさん達も口を濁した。
明日かもしれない。明後日かもしれない。一年以上先のことかもしれない。……いずれにせよ、私は何も出来ない無力な子供のままだ。

それがどうしても許せなくて、無力な子供のままでいることがどうしても耐えられなくて、私はその夜、カノコタウンを訪れた。

インターホンを押した直後、ドアが乱暴に開けられた。

「!」

もう少し間があると思っていた私は驚きに目を見開く。
心構えをしないままにトウコ先輩と顔を合わせてしまった私は、紡ぐべき言葉を直ぐに探し当てられずに沈黙した。
彼女はぱちぱちと2回瞬きをした後で、私の額を軽く叩いた。

「よかった、無事で」

私は息を飲んだ。
追い返されるかとも思ったのだ。私の知っている彼女なら間違いなくそうしただろうと思った。
あんなことを言ってしまった私を、彼女は嫌っているかもしれないとまで案じていたのだ。
けれど彼女は私を見て「よかった」と紡ぐ。私が無事であることに心から安心したように微笑む。

『わたしが貴方を嫌いになったりするはずがないのですよ』
アクロマさんの言葉が脳裏を掠めた。私は私が思っているよりも、ずっと沢山の人に思われていたのだ。

「寒かったでしょう? 入りなさいよ。話があるのなら、中で聞くわ」

彼女は私を拒むことなく、中へと招き入れてくれた。
私が茫然としていると、彼女は肩を竦めて笑ってみせる。

「どうしてあんたが泣きそうな顔をしているのよ。それとも、ゲーチスが死んじゃったのかしら?」

その彼女の声音は、「死」などという物騒な単語を紡いでいるとはとても思えない程に優しいものだった。

私が彼女の家を訪れたのは、アクロマさんのアドバイスがあったからだ。
彼は私に医師の紹介こそしてくれなかったものの、とある助言をしてくれたのだ。

シアさん、貴方は旅をして、多くの人に出会ったはずです。彼を生かしたいと思うのなら、わたしだけはなく、他の人にも助けを求めてみるべきでしょうね。
わたしを一番に頼ってくれることはとても嬉しいのですが、残念なことに、わたしができることなど本当に小さなものでしかないのですよ。
貴方は自分が無力であることを知っています。しかし、それでも力を求めるのなら、誰でもいい、頼りなさい。あの時のように、愚行を勇気に変えてみせなさい』

確かに私は、旅をして、多くの人に出会った。
彼等を頼れば、大勢の人に助けを求めれば、新しい案が浮かぶのかもしれない。
けれどもそれは同時に、ゲーチスさんの存在を第三者に知らせてしまうことにも繋がる。
彼のしたことを知る人間なら、きっと彼を警察に突き出すだろう。
それが正しい行動だと知っていながら、しかし私はどうしてもその「正しいこと」に則ることができなかった。
今にも死んでしまいそうな彼の、死の淵に立っているらしい彼の処遇を、私の振りかざした正義にもう一度当て嵌めることが、私はどうしてもできなかった。
だってその正義が、私が振りかざしたその正義が、彼から全てを奪ってしまったのだから。

だからこそ、その懇願は、私のよく知る、私が最も信頼する人間でなければならなかった。

「ゲーチスさんを、死なせたくないんです」

単刀直入に切り出したその言葉を、しかしトウコ先輩は一笑に付すことはしなかった。
ただ、その目の温度をさっと落として、暗い声音を湛え、口を開く。

「そう。……それで? 私に何か協力を仰ごうとしているの?
前にも言ったわよね、私はあいつが大嫌いなの。Nの人生をめちゃくちゃにしたあいつのことを、私は絶対に許さないわ。
そんな私に、ゲーチスを助ける手伝いをしろって? シア、冗談が上手くなったのね」

「冗談じゃ、ありません」

「じゃあ何? あんたはあいつのことを許せるの? イッシュを滅茶苦茶にして、あんたを殺そうとしたあいつのことを、あんたは許しているっていうの?」

彼を、許しているのか。
尖った声音で紡がれたその問いは、私の心を大きく揺らした。

彼を許してなどいない。許せる訳がない。
私は彼に殺されかけたあの日の恐怖を忘れてなどいない。彼がポケモンと人とを再び切り離そうとしたことを忘れてなどいない。
私は彼を許せない。けれど。

「でも、私は生きています」

私は微笑んだ。彼女は虚を衝かれたように黙り込んでしまった。

「彼には私を殺せなかった。トウコ先輩とNさんが守ってくれたからです。私は生きています。生かされています
だから今度は、彼を生かしたい。彼に、生きてほしい」

「……」

「彼のしたことは私も許せません。彼のしたことを、忘れた訳じゃありません。
だからこそ、このまま死んでしまうなんて許せない。彼には、逃げてほしくない。彼はまだ、死んじゃいけない」

私は自分で紡いだ言葉にはっとする。そして、ようやく気付かされる。
そうだ、自分はあの人が許せなかったのだ。

私は彼を許せない。イッシュを危険に陥れ、Nさんを道具のように利用し、私を殺そうとした彼のことを、許せない、許せるはずがない。
それなのに、彼は彼のしたことに対する責任を取らないままに、生きることを止めようとしている。
それは、私がそうしてしまったのかもしれない。ダークさんの言う通り、私が彼の何もかもを奪ってしまったから、彼は死のうとしているのかもしれない。
だからこそ、私は彼を見限ることができなかった。このままにしておくことができなかった。

これは、私が振りかざした正義に対する責任を取ることであると同時に、彼に責任を取らせるための一歩を踏むことでもあったのだ。
このまま逃げるなんて許さない。彼はまだ、死んではいけない。あの悲しい人を、悲しいままで終わらせてはいけない。

トウコ、ボクからもお願いするよ」

ずっと今までの話を聞いていたのだろうか、階段から下りてきたNさんが、そっとトウコ先輩に紡ぐ。
彼女はその言葉に目を見開き、困ったように肩を竦めて笑った。

「どうかしているわ。あんたも、Nも、……きっと、私も」

2012.11.25
2014.12.14(修正)

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