私は、プラズマフリゲートとヒオウギの西にある樹海とを往復する毎日を過ごしていた。
秋には頻繁に顔を出していた、ホドモエシティのポケモンワールドトーナメントにも、ぱたりと顔を出さなくなってしまった。
日を跨ぐ旅に、ゲーチスさんに対しての恐怖が和らいでいくことに私は心底安心していたし、ダークさん達とも徐々に打ち解けられていることが楽しかった。
アクロマさんはあれ以来、頻繁に私のことを気遣ってくれるようになった。
傍から見れば、自分を殺しかけた人間の元へ通うという私のそれはとんでもない愚行だったのだろう。
しかし彼は私を咎めない。気を付けてください、無理しないでくださいと私を気遣いながら、しかし私を引き留めることはしない。
私はそのことがとても嬉しかった。この人は私のことを見守っていてくれる。その確信が私を支えていた。
『間違っていたとしても、わたしが貴方を支えます』と彼は言ってくれたが、もう十分すぎる程に私は支えられていたのだ。
そう、この優しい人は、そんな愚かな遠回りをする私を咎めない。
優しく微笑み、待ってくれる。だから私は、その思いのままに歩き出すことができたのだろう。
*
そうした時間を続けていたとある日のこと、珍しくゲーチスさんの方から口を開いた。
「色は塗らないのですか」
何を指しているのか分からずに首を捻る。すると彼は無表情のままに、視線を私の持っていたスケッチブックに向けた。
どうやら絵のことを差しているらしい。私は描きかけのマメパトをなぞって、どうしようかな、と首を捻る。
小さい頃は、夢中で絵を描いていた。上手だとか下手だとか分からずに、ただクレヨンで手を汚しながら、真っ白い紙の上に沢山の色を落とすことが楽しかった。
お絵描きなんて、もうすることなどないと思っていたけれど、何故か旅を終えた私は、画材に手を伸ばしていた。
新しいスケッチブックを買いに走った。程よい濃さの鉛筆を選んだ。
何を書こうかと迷いながら、結局、白いページを広げることなく時間だけが過ぎていた。
……そのページを開けるために、ずっと動かなかった私の手が動いたその理由を、今の私ははっきりと理解していた。
最初は、この時間が苦しいが故に始めた行動だと思っていた。
ゲーチスさんとの間に生まれる沈黙は、苦しい。じわじわと絞め殺されているように、呼吸をそっと奪うように、重く、苦しい。
それでも、彼から逃げることはしたくなかった。彼の居場所と心を奪った私が、彼から逃げることは許されない気がしたのだ。
その為、彼と重ねる時間の、重苦しい雰囲気を紛らわせようと、私はスケッチブックを開いた。
確かに、この家の窓から見える樹海の景色はとても美しかったが、それはきっかけに過ぎない。私の手を動かしたのは、紛れもなく、この時間に対する恐怖だった。
けれど、今は違う。
もう彼等は私を傷付けない。ゲーチスさんは私を殺そうとはしない。
その確信を抱いた今でも、私はこの窓から見える風景を描くことを止めなかった。
あんなにも苦しかったこの時間が、瞬きの間にすり抜けて、その一瞬のうちに過去のものになってしまうことを、私はどうしようもなく惜しいと感じていたのだ。
スケッチブックの1ページに今日の日付を記し、同じ窓から見える同じ風景を描く。
それは日記の代わりだったのかもしれない。
あの時の恐怖に震えたペンの跡や、すらすらと描けるようになった木々や雲の形を、私はその日付と照らし合わせながら鮮明に思い出すことができた。
言葉は要らなかった。その時を示す数字と、私が刻んだモノクロの絵だけで、その時間をこの中に留めることができたのだ。
過ぎる一瞬を永遠にするために、私は今日もスケッチブックを開いている。
その時間を、昔のように、クレヨンか何かを使って、鮮やかに彩るのもいいかもしれないと、少しだけ思ったのだ。
「確かに、今のままじゃ少し味気ないですね」
そう零しながら、私はスケッチブックを閉じる前に、パラパラと無造作に捲った。
モノクロの風景、同じ部屋の同じ椅子に座って描いた風景を、コマ送りのように見比べる。
同じ風景を描いているはずなのに、その日の気分やそれまでの経験を加味して、私の絵は比を跨ぐごとに大きく変わった。
「これは昨日と同じ絵なのか」と、アキルダーのダークさんに首を傾げながら尋ねられたことは記憶に新しい。
人に見て貰えることの有り難さを、私は最近切に感じるようになった。
上達は二倍嬉しいし、失敗は二倍恥ずかしい。
お粗末なものを見て欲しくないという思いと、ゲーチスさんやダークさんの反応が見たいという思いが、ペンを持つ手に力を入れる。
昔はクレヨンで絵を描いていたが、あの頃と同じではどうにも味気ない。
絵の具を買おうかな、と思いながら、私はスケッチブックを閉じて鞄に仕舞った。
今日はイッシュ地方の全体に黒い雨雲が差している。今にも降り出しそうな雨に、素早く帰路に着くことを決めた私は立ち上がった。
「それじゃあ、また明日来ますね」
そう言い残して扉を開けると、ジュペッタを連れたダークさんが一緒に部屋を出る。
私はもう一度、彼の方を振り向く。その赤い目と視線が交わり、思わず微笑んでしまった。
彼は何も言わずに、素早く瞬きをした後にその目を手元の本に伏せた。
パタン、と扉を閉めた後で、私はダークさんにそっと尋ねてみる。
「ゲーチスさん、どこか具合が悪いんですよね」
「何故、そう思う」
「健康な人は、あんなに青白い顔をしていませんから」
ジュペッタが空中でケタケタと笑いながら、私のサイドテールの片方を引っ張っている。
私はそんな彼に反応を返すことも忘れて、ダークさんの目をじっと見据えた。
彼の衰弱は日増しに酷くなっているように感じられたのだ。その腕は驚く程に細く、顔色はいつ見ても悪い。こけた頬が作る影は、濃いままだった。
それは私の思い過ごしだろうか。思い過ごしであればいいと願いながら、しかし不安は消えない。
別の恐怖が顔を出し始めていた。しかし確信が得られない今では、それは不安という形をとって覚束なく宙を漂うしかなかったのだ。
「病院には、行っていないんですか? お薬とか、」
「お前が気にすることではない」
ぴしゃりと冷たく言い放たれ、私はそれ以上追及できなくなってしまった。
訪れた沈黙は、ジュペッタの乾いた笑い声が埋めてくれた。
彼の淡い緑色の髪が、脳裏を僅かに掠めて、直ぐに消えた。その感情の正体を、それに付けるべき名前を、私はまだ見つけられずにいたのだ。
どうして、彼はあんなにも悲しいのだろう。
「傘は持っていないのか」
「私はそんな、用心深い人間じゃありませんから」
肩を竦めてそう返事をする。真っ暗な空は、今が昼であることを疑わせる程の重苦しさを湛えていた。
雲が空から外れて、落ちてきそうだ。そんなことを考えながら、その黒い空を見上げていた私の背中を、ジュペッタのダークさんが軽く押す。
「風邪を引くのは勝手だが、ゲーチス様に移してくれるなよ」
彼は僅かに笑ってそう言った。
ゲーチスさんに風邪を移すな、と命じることはしても、風邪が治るまで此処に来るな、とは言わない。
それは何故なのだろう、と私は考えたが、今はまだその答えに辿り着けそうもなかった。
ダークさん達が私に何を見出してくれたのか、どうして私に彼の居場所を教えてくれたのか、何を思って私の訪問を許してくれたのか、全てが分からないままだったのだ。
そんなダークさんと別れ、私は駆け出す。
ぽつり、と雨が降り出し、慌ててクロバットの入ったボールを取り出そうとしたその瞬間、私は立ち止まることになる。
「シア、久し振りだね」
Nさんが立っていた。
2012.11.24
2014.12.13(修正)