6

その日、空は抜けるように青かった。
私は乱暴にノックをする。ダークさんへの挨拶もそこそこに、廊下を慌ただしく駆け抜けた。
礼儀のなっていない子供だと呆れられただろうか。しかしそれを案じている余裕はなかったのだ。
何故ならそれは時間との戦いだったのであって、挨拶すらも惜しい一瞬のきらめきであるかもしれなかったからだ。
もう消えているかもしれない。見えないかもしれない。それでも私は走ることを止めなかった。

「ゲーチスさん!」

大声で名前を呼ぶ私に、彼は読んでいた本から顔を上げ、その左目を僅かに見開いた。
私は開け放たれた窓に駆け寄る。木々の隙間にあったそれは、まだ消えることなく鮮やかな色を空に描いていた。

「虹、虹が出ていますよ!」

大きく空に伸びたその眩しいアーチを、消えてしまう前に彼に示したかった。
私は夢中だったが、それはきっと、幼子のように単純な行動だったのだろう。後ろにいたダークさんの呆れた気配が伝わって来る。
「その為だけに俺を突き飛ばしてきたのか」と、彼の顔はマスクの下で饒舌に語っていた。

対するゲーチスさんは、そんな私の所作に動じることもなく、溜め息を吐くでもなく、ただ小さく、……本当に小さく笑い、紡いだ。

「知っていましたよ」

ぴたり。
石になったように硬直した私に、彼は今度こそ眉をひそめた。
血の気が引く。手が震える。あの瞬間の寒さが脳裏に突き刺さる。……違う、違う。……怖くない。

「……来るなって、言われるかと思っていました」

ようやく吐き出したのは、そんな言葉だった。

「ワタクシがいつそんな事を言いましたか」

「……いいんですか?」

「好きにしなさい」

身体の芯に、すうっと温かいものが注がれる心地がした。もう手は震えていない。
ようやく彼を真正面から見られるようになったことに気付いた。今までは彼の目を、真っ直ぐに見ることができずにいたのだ。
その赤い、射るような目は、私に恐怖しか与えないはずだったからだ。けれどもその色はもう、私を傷付けることはない。

彼はもう、私を殺そうとしない。その確信を、私はようやく抱くに至ったのだ。

「今日のお土産はフエンせんべいです。15枚入りですから、私も入れて1人3枚にすれば丁度いいですね」

「それはお土産とは言わないだろう」と、ダークさんの雄弁な表情が語っていた。
私は笑ってフエンせんべいが入った袋を掲げる。彼はそれを一瞥し、しかし直ぐに視線を手元の本に落とした。
それでいい気がした。

スケッチブックを定位置に置き、おそらくもう直ぐ消えてしまうであろう虹を、その一瞬の美しさを留めておきたくて、私はペンを持つ。
パキン。何処かで氷の割れる音がした。

その日から、私達の時間は少しだけ変わった。
私がいつも座る椅子に、膝掛けが置かれるようになった。
ダークさんが、彼の分のマグカップも持って来るようになった。
私のマグカップからは甘い匂いがするが、彼の手にしたそれは苦い色を放っている。
ブラックで飲むらしいコーヒーを見ながら、甘いココアに口を付ける私に、よくそんなものが飲めますねと言われた記憶はまだ新しい。

毎日のように窓から見える風景を描き、仕上がったそれを彼やダークさん達に見て貰うのが日課になった。
また来ますね、とドアを閉めても、手足が震えることがなくなった。
明日は何を持って行こう、と考えるのが楽しみになった。
彼は私の前でお土産を口にすることはなかったが、聞けば簡単な感想を口にしてくれる。たったそれだけのことに、私はどうしようもなく安堵していた。

ダークさんはその顔の大半をマスクで隠しているため、その3人の見分けが私にはつかない。
しかしその3人を全て「同じ人」だと認識することがどうしても躊躇われた私は、彼等が連れているポケモンで区別をすることにした。

例えば、いつもゲーチスさんの傍についているダークさんのモンスターボールには、アブソルが入っている。
ドアを開けて私を出迎え、外まで見送り、自分のことを「俺」と呼ぶダークさんは、ジュペッタを連れている。
お土産の感想を私に伝えてくれるのは、アキルダーのダークさんだ。彼は他のダークさんとは異なり、マスクの下で楽しそうに笑う素振りを見せてくれることがある。
私はそうした覚え方をしていた。見た目で違いが判らないからこそ、その違いを焼き付けようと少しだけ躍起になっていたのだ。

私が彼等を区別して呼び始めるのと同時期に、ジュペッタのダークさんが、ボールからジュペッタを出して連れ歩くようになった。
ケタケタと笑いながら彼の後をついて回るジュペッタはとても悪戯好きで、私の髪をよく引っ張る。
どうしてボールから出すようになったんですか?と尋ねれば、彼は呆れたように私を見下ろし、

「お前が俺を区別して呼ぶと言ったのだろう。違うか?」

私のそうした拙い意志を汲んでくれる彼は、その鋭い目付きとは裏腹に、とても優しい人だったのだと、知る。
『これに懲りたなら、もうプラズマ団を深追いしないことだ』
プラズマフリゲートで私の身体の自由を奪い、とてつもない恐怖を与えたあの頃のダークさんの面影を、今の彼に見つけることは難しいように感じられた。

もうここに恐怖は存在しないのだと、私は言い聞かせ続けている。
きっともう直ぐ、自然に笑えるようになるのだろう。もう少し、もう少し時間を重ねれば、あの恐ろしい記憶を忘れてしまえるのだろう。
そうして初めて、私は彼等に向き合うことが許されるのだ。
だからもう少し、もう少しだけ、この人達のところへ通い続けていたかった。
許せない人達と重ね続けた時間が、彼等を許してくれると信じていたかったのだ。

しかし、そのことを誰よりも許されたかった相手に、私は泣きそうな顔をされてしまったのだ。

「……」

アクロマさんはその金色の目を見開き、手元のカップをそっとソーサーに置いた。
彼らしくない、不安に苛まれたような揺れる目をして、困ったように私を見て笑う。
彼が泣いているところなど見たことはないのに、泣きそうな顔をしていると思わせる程の弱々しさがそこにはあった。

私は、彼等に会ってはいけなかったのだろうか。

しかし「ごめんなさい」と紡ぐことはどうしても躊躇われた。
何が間違っているのかを、今の私は理解できなかったからだ。何に対して謝ればいいのか、今の私には分からなかったからだ。

……しかし、本当は分かっているのかもしれない。
私はプラズマ団のしたことが許せなくて彼等と対峙した。そんな彼等の元へ通うことは、倫理ではなく、きっと世間体に悖っているのだろう。
それは世界を救った私自身への冒涜だったのかもしれない。それでも私は、彼の元へ通うことを止められなかった。
私に危害を加えた相手の元へ、私を殺しかけた相手の元へ、私は足を運んでいる。
もう少し時間を重ねれば、何が変わるかもしれないと信じ続けている。

けれど、そうした私の愚かな行動を、私が救った世界を、ともすれば裏切りかねないその行動を、彼は咎めない。叱らない。
しかし肯定もせずに、ただとても悲しそうな顔をして「そうですか」と小さく紡ぐのだ。

『貴方は、信じれば何もかもが上手くいくと、本気で思っているのですか?』
いつか、彼が咎めたそんな言葉が脳裏を掠めた。
私は間違っているのだろうか。彼等のことを、ゲーチスさんのことを、私は許せないままにしておくべきなのだろうか。
あの恐怖を、あの絶望を、全てを救えなかった私への呵責を、私は時間という麻薬に溶かして徐々に忘れていくしかなかったのだろうか。

「大丈夫ですよ」

「!」

「大丈夫です、シアさん。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます。だから、不安にならなくていいんですよ」

じゃあ、どうして、そんな顔をしているんですか?

喉まで出かかったその言葉を、しかし私は音にすることができなかった。

2014.12.13

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