何処を探しても見つからなかった。
Nさんに直接尋ねるのは憚られて、私は自力で目星を付け、順に巡っていった。古代の城にも足を運んだ。海底遺跡のあるサザナミにも行った。
あてが無くなると、今度はヒオウギからしらみつぶしに旅した道路や町を辿った。それでも、見つからなかった。
トウコ先輩やNさんは、私があてもなくイッシュを飛び回っていることを知っていた。
「何を探しているの?」と彼女に尋ねられたこともあったが、私はその質問に答えることをしなかった。
これ以上、彼女と彼の世界を荒らしてはいけないと思ったのだ。
彼等の世界は今、とても綺麗に穏やかに回っている。そこに余計な荒波を立てたくはなかった。私が、立たせたくなかったのだ。
図鑑を埋めるでもなくイッシュを駆け回る私に、ヒュウは怪訝な顔をする。
この前も、「元々図鑑を任されたのはお前なんだから、しっかりやれ。」と叱咤された。
ホドモエシティにある元プラズマ団の住居、そこに毎日のように足を運ぶ彼は、その目で世の中を多面的に見られるようになったらしい。
背負うものが無くなり、代わりにしっかりと前を見据えている彼の笑顔は、ライブキャスター越しでも魅力的に見えた。
彼等が前に進んでいる一方で、プラズマ団は指針を失い途方に暮れていた。
一目に付かない場所に鎮座するプラズマフリゲートにアクロマさんの姿を見つけてから、私は毎日のようにその場所に足を運んでいた。
答えなどない問題の方が多い、という魔法の言葉を口癖のように語る彼の傍は、とても落ち着いた。
ダークさん達は私の質問に何も答えてはくれない。
「月の初めには相手をしてやる」と言った彼等もまた、アクロマさんと同じように迷っているのかもしれなかった。
9月から10月、10月から11月、カレンダーを捲る度に彼等が現れることが、唯一の「彼」の存在証明になっていた。
私は毎日、プラズマフリゲートに通いながら、イッシュのあちこちを巡っていた。
ポケウッドでは何本か、主役と呼べそうな立場での出演をさせてもらえた。
畏れ多いことだと思ったけれど、私を選んでくれたことは素直に嬉しく、その選択に相応しい振る舞いをするために、演技の勉強を沢山した。
ジョインアベニューの発展は、経営の何をも知らない私には難しい課題で、蛇行運転と呼ぶべき代物であったけれど、少しずつ、あの通りにはお店が増えていった。
新しいイッシュのチャンピオンとして、ホドモエのポケモンワールドトーナメントに度々招かれていた。
ジョウト地方やホウエン地方など、遠くからジムリーダーやチャンピオンが集うこの場所はとても賑わっていた。
ロトムやダイケンキ、クロバットは、この場所で大活躍してくれた。沢山の人と出会い、バトルをし、終われば話をした。
知らない土地の、知らないポケモンに触れ、私の世界は益々広がっていた。……それでも、私のすべきことがまだ見えてこなかった。私は途方に暮れていた。
『よければまた、此処に来てください。あの頃のように、沢山、話をしましょう』
アクロマさんの傍にいられることは、きっと私にとって至上の幸福であった。
温かい時間が戻ってきたことに私は安心していたが、その揺り籠にいつまでも甘んじていることを、私の矮小な罪悪感が許さなかった。
そうして思い悩み、悔い続け、この状況を変えるべき「何か」を探し求めては疲れていく私のことを、彼は否定せず、ただ許してくれていた。
そんな彼もまた、これから何をすべきか決めかねているらしい。…その点では、他のプラズマ団員達と変わらなかった。
『貴方は自由に、思うままに生きることができるのですよ』
『シアさん、貴方はどうしたいですか?』
彼は、優しい。
私はその優しさに縋れなかった。代わりにその優しさへと甘える形で、彼の優しさを、拒んだ。
私はアクロマさんと同じ視線で世界を見たかった。同じ地面に靴底を揃えて、彼と並んで立ちたかった。
そうして初めて、私は彼を「かけがえのない存在」だと言える気がしたのだ。今の私にはまだその権利がないように思われたのだ。
彼に縋ることが許されるのは、きっと全てが終わった後だ。今はまだその時ではない。今は、何もかもがまだ終わっていない。
けれど、私は何を終わらせればいいのだろう?
私がしたことに対する責任を、どうやって取ればいいのだろう?
誰もが誰もを救うことができなかったのだとしたら、必ず誰かが苦しまなければならなかったのだとしたら、
そんな理不尽なこの世界で、私はこれからどうやって生きていけばいいのだろう?
何もかもが分からなかった。限りない自由を手にしたはずの私の思考は、袋小路になっていたのだ。
できる限り、沢山のことをした。私の力を求めてくれる人の想いには、できる限り応えようとしていた。
私は、確実に前へと進んでいるはずだった。にもかかわらず私は息苦しかった。走っても、走っても、変わっていかない景色に首を絞められ続けていた。
そうした息苦しさの中で、繰り返し見る夢がある。
迫ってくる冷気、逃がすまいと私の周りにそびえたつ氷の壁。自分の腹部に突き刺さる鋭利な刃物。
氷の向こうにあの人がいる。杖の先を私に向けて高らかに笑っている。射るような鋭い赤い目が歓喜に細められている。
その透明な刃物、確かな悪意と憎悪の込められた鋭い刃が、あのポケモンが繰り出した氷の塊であると私は気付く。
ああ、これがあの人の本懐なのだと、私は「そう」するべきだったのかもしれないと、そう思った瞬間に目が覚める。
目を覚まして、そして震えが止まらなくなる。お腹に手を当てて、そこに氷が刺さっていないことを確かめて、吐き出す安堵の息はみっともなく震えている。
本物の「殺意」を向けられたあの瞬間の出来事を思い出す度に、私はこうなる。「忘れるな」とこの夢が私を責め続けている。
殺されることは怖いことだ。けれども私が死ぬことで喜ぶ存在があることも確かだった。
寒いことは怖いことだ。けれども寒さに震えることこそが生きている私への罰であることも心得ていた。
季節が冬に向かい、肌を冷たい風が撫でるようになった頃から、私は厚着をするようになった。
「まだダッフルコートを着るには暑いでしょう」とトウコ先輩は眉をひそめたけれど、私はどうしてもコートを手放せなかった。
あの時は気丈でいられたのに、と、恐怖に心が折れそうになっている今の自分を不甲斐ないと思った。
「寒い」という感覚は、即座にあの死の瞬間を呼び起こし、私に大きすぎる恐怖を与えた。
そして、そんな恐怖に苛まれながらも、私は、私にそんな死の恐怖を与えた当人である「あの人」の姿を探し続けていた。
どんなに多くの期待に応えようと足掻いても、どんなに速く確かな未来へと駆けても、私の息苦しさはなくならなかった。
前に進んで行けるはずの私は、その権利を勝ち取ったはずの私は、そうしていつまでも、身動きが取れずにいたのだ。
……だからこそ、私はあの人に会おうとしているのかもしれなかった。
『此処はお前の選んだ世界だろう。お前が願った、ポケモンと人が共に生きる世界だろう。捨てるな、見届けるんだ』
私の死を望んでいるはずの彼。私が死ぬことを喜んでくれるはずの彼。それでも死ぬことの叶わない私。彼の期待にだけは応えられない私。応えてはいけない私。
私とあの人はどう足掻いても相容れない。私はどう足掻いてもあの人の期待に応えられない。だからこそ、彼に会わなければならなかった。
走っても、走っても、私の世界は変わらない。
彼との再会を、その世界を変革する契機としたかった。これまでの「走り方」が通用しないあの人と、今度こそちゃんと向き合いたかった。
そう思いながら、秋を過ごした。走りながら、夢を見ながら、寒さに震えながら、秋という季節を押し流した。
そうして、冬が来た。
*
まだ日が昇らない朝の5時過ぎ、私は自分の腹部に手を添えていた。
ここに氷はない。そのことにひどく安堵し、またしても安眠を奪われたことに愕然としていた。
繰り返し見る悪夢により、私は慢性的な寝不足になっていた。とろんとした目でプラズマフリゲートを訪れる私のことを、アクロマさんは心配してくれた。
「紅茶にもカフェインが入っていますから、控えたほうが良いかもしれませんね」と困ったように笑っていた彼の横顔の記憶は、まだ新しい。
代わりに彼は、温かいココアを用意してくれるようになった。カフェインが少ないものを、わざわざ取り寄せてくれたらしい。
眠れないのは私であり、彼ではない。故に彼がいつも飲んでいる紅茶を絶やす必要など、何処にもない。
にもかかわらず、私にココアを出してくれるようになってからというもの、彼はティーセットを棚の奥へと仕舞い込み、コーヒーばかり飲むようになったのだ。
「たまには甘いものも飲みたくなるんですよ」と言って、一緒にココアを飲んでくれることさえあった。
そんなことをする必要なんてないのに、と思う。彼の楽しみを奪うつもりなどなかったのに、とも思う。
けれどもそうした私の想いを、彼は「そういう気分だったのですよ」「一人で飲む紅茶は味気ないので」と、柔らかく否定して笑うのだ。
どこまでも優しかった。その優しさに甘える形で彼との平穏を拒んだのは他でもない私だけれど、
それでもそうしたささやかな時間が私を支え続けてくれていることもまた、事実であった。
そんなことを考えていると、部屋の窓が小さくノックされた。
私は立ち上がり、椅子に掛けていたいつもの青いダッフルコートを羽織る。
カーテンを少しだけ開けて外を窺うと、ガラス越しにダークさんの不機嫌そうな顔を見つけた。
私は慌てて窓を開ける。吹きすさぶ冬の強い風はとても冷たい。冷たいことは恐ろしいことだけれど、他者の前では気丈になれた。
フラッシュバックする夢の光景をなかったことにしたくて私は笑う。笑いながら言葉を探す。
大丈夫だ。怖くない。この冷たい風は刃ではない。この冬は、あの人ではない。
「おはようございます。えっと、どうしたんですか?」
確か、ダークさん達とは昨日、セッカシティでバトルをしたはずだ。何か言い忘れたことがあるのだろうか?
そう考えて、しかし私は即座にその可能性を否定した。
彼等の側から口を開いたことはない。彼等という個人が、私に伝えるべき言葉などきっとない。
私達は言葉を交わすべき関係ではない。私達はただ、挑まれる者と挑む者でありさえすればいい。そうでなければいけない。
……私達は「あの日」に嘘を吐いていた。ダークさん達はあの人に「あの日」のことを明かさず、私も「あの日」のことを誰にも話さなかった。
私が息苦しさから一度はこの世界を諦めようとしたこと、あの人の望みを叶えるために自ら殺されようとしたこと、
それをダークさん達に拒まれてしまったこと、諦めるなと諭されたこと、私が今も変わらない景色の中を駆け続けられているのは、彼等のおかげであるということ。
私にとっては世界への謀反であり、彼等にとってはあの人への謀反となり得るその秘密は、まだ誰にも知られておらず、きっとこれからも知る人は現れないだろう。
あの場にいた全員がその秘密を守り通しさえすれば、そうした「あの日」の会話などなかったことになった。
けれども今、一人のダークさんが此処にいる。早朝の、人目の付かない時間帯を見計らって、私の部屋の窓を叩き私を呼び出している。
何のために? 私がダークさんに呼ばれる理由など、あっただろうか?
首を捻りながら私は彼の言葉を待った。けれども彼は饒舌に言葉を紡ぐことはせず、ただ「付いて来い」とだけ告げて私に背を向けるのみであった。
彼を見失わないように、私は「待って、靴を履いてきます」と呼び止め、玄関から靴を持ってきて、窓から外に投げた。
トウコ先輩の家のように、自室が2階にあったならこうはいかなかっただろう。
しかし幸いにも私の部屋は1階にある。そのため、さっと窓から飛び降り、靴を履いて駆け出すことができた。
静まり返った夜明け前の町に、覚束ない一人分の靴音が響く。二人で歩いているにもかかわらず、ダークさんの足音が聞こえることはなかった。
「あの、何処に行くんですか?」
彼は高台への階段に足を掛けた。私もそれに続く。肌を突き刺す寒さにまた一つ「寒くない」と心の中で嘘を吐いて、階段を駆け上がる。
ヒオウギシティの高台。私がミジュマルをベルさんから受け取った場所。
ポケモントレーナーの始まりを告げたのはアクロマさんに託されたロトムの卵だったけれど、きっと旅の始まりはこの場所であった。
ミジュマルの入ったモンスターボールを握り締めて、高台から見える景色に目を細めて……。
「お前はまだ、ゲーチス様の居場所を知りたいと思っているのか」
「!」
「もしそうなら、こちらにはお前を案内する用意がある」
しかし私が再び口を開く前に、ダークさんは黙って高台から見える景色を指差した。
北の広大なそれではなく、西に生い茂る木々の方を。
しかし夜明け前の暗闇の中では、彼がその木々の中の何を指しているのか判別できない。首を傾げた私に、彼は私のポケットの中のボールに視線を落とした。
「少し飛べば、屋根が見えるはずだ」
遠くで、海の砕ける音を聞いた気がした。
2012.11.22(初期)
2014.12.8(修正)