「大丈夫です、コトネは来年度もホグワーツに通いますから。」
その言葉は彼の嘘だったのだろうか。疲れ果てた私にはそれすら解らなかった。
いずれにせよ、母や姉は本当に安心したように笑ってくれたので、私もそれに同調しておくことにした。
「夏はゆっくり休んでね。お家のことはクリスが全部してくれるから。」
「え、私?」
姉は困ったように笑って「仕方ないなあ」と承諾した。
年の離れた姉はとても器用だ。家事全般を難なくこなしながら、ホグワーツでも優秀な成績を収めている。
決して目立つ存在ではなかったが、上手に生きることが得意な人だ。それが今は少しだけ羨ましい。
「シルバー君も、自分の家だと思ってくつろいでくれていいからね。」
「ありがとうございます。」
そんな遣り取りを私は見つめていた。ヒビキが「二人の分だよ。」と言って、冷蔵庫からプリンを出してくれた。
シルバーはヒビキと親しげに話をしていた。私が無為に時間を重ねている間に、ヒビキには新しい友達が出来ていたらしい。
あんなに楽しそうな彼の顔は久しぶりに見た。彼の顔を直視したのも久しぶりだった。帰ってきてからは、誰の顔も見ることが出来なかったのだ。
姉が引いてくれた椅子に座った。ありがとうと言いたかったのに、まだどうしても喉の詰まる感じが消えてはくれなかった。
柔らかいプリンにスプーンを入れる。
姉の作ったプリンはとても滑らかで、カラメルのほろ苦さも、喉をつるんと通る冷たさも私は好きだった。
「おいしい。」
自然と発されたその言葉に皆は沈黙した。
シルバーが自分の分のプリンまで差し出そうとしてくれたので、私は首を振って断った。
私の好きな味を、シルバーにも食べて貰いたいと思った私の感情は、彼の言う「ままごと」の部類に入るのだろうか。それでも良い気がした。
こんなにも感情を動かしたのは久しぶりで、とても疲れていたからだ。そして、その疲労を甘受してもいたからだ。
味がしたことに気が付いたのは、全て食べ終えてからのことだった。
『良かった、コトネに彼がいてくれて。』
そう言った姉の言葉を、私は少しずつ理解し始めていた。
*
私の家の朝は、比較的のんびりとしている。
母や私、ヒビキは7時頃に起きるのだが、姉はそれよりも1時間以上早くに意識を覚醒させている。
ホグワーツの図書館の時間外利用を特例で認められている彼女は、その開館時間に間に合うように早起きの習慣を付けていたのだ。
彼女が作ってくれる夏休みの朝食は、いつもサンドイッチだった。野菜やフルーツ、チーズなどのカラフルな具材を、鼻歌を歌いながら挟んでいく。
これは彼女が昼食のお弁当に作っているものらしい。数年間作り続けたその経験値に相応しく、とても美味しい。
天気のいい日は外に出て、ゆっくりと回るワカバタウンの風車を見ながら朝食を摂った。
大きな木の木陰にレジャーシートを敷いて過ごす時間が大好きだった。どうして忘れていたのだろう。
私はようやく自分の故郷を思い出しつつあったのだ。
「ヒビキ、おいで。背負ってあげる。」
「お姉ちゃん、シルバー君がいる前で止めてよ!」
そんな姉とヒビキの遣り取りに苦笑しながら、私は玄関で靴を履いていた。
大きなバスケットを持ってスキップしていった姉を追いかけるように、ヒビキも駆け足で外に飛び出した。
あまり走っちゃ駄目よ、と母の声がキッチンから聞こえる。
私も外に出ようとして、しかしとてつもない衝撃に膝が折れた。
「わっ……。」
一気に力が抜けた。真夏の地面が肌を刺した。お気に入りの帽子が風に飛んで行った。
それを難なく捕まえたシルバーが慌てて駆け寄ってきた。
「どうした!?」
「……。」
自分でも何が起こったのか解らずに狼狽えていた。
夏の日差しが容赦なく私に照り付けていて、彼を背景に見た太陽はあまりにも眩しかった。
ああ、そういえば長らく外に出ていなかったのだ。私はそのことを唐突に思い出した。
揺れる視界の中で捉えた自分の四肢の細さに愕然とした。夏に有るまじき肌の白さだった。
それもその筈だ。ろくに食事も摂らず、眠りもせずに毎日を過ごしていた。私は生への倦怠感に溺れていた。
そんな私を責めるかのような眩しい日差しだった。激しい眩暈に襲われたのだと把握するのに数秒を要した。
「ちょっと、びっくりして。」
私は苦笑した。立ち上がろうと地面に付けようとした手を彼が掴んだ。
そっと引き上げてくれたにも関わらず、私はまだふらついていた。彼の手がそっと背中に添えられていた。
ぐるぐると回る頭で私はお礼の言葉を組み立てようと努力した。ありがとう、と言えただろうか、それすらもよく解らなかった。
これじゃあまるでヒビキみたい。そんなことを思いながら、しかし先程、駆け足で姉を追いかけた弟のことを思って虚しくなった。
彼は懸命に生きている。私は生きる振りさえもすることが出来なかった。
夏って、こんなにも眩しい季節だったんだ。
私はそんなことを思った。頬を伝う汗も、日に照らされて熱を持った帽子も、木陰に吹く優しい風も、初めからそこにあった筈なのに、見えない振りをしていた。
全てが見えていた、なんて、とんでもない思い上がりだ。私は思い上がっていたのだ。
レジャーシートの敷かれた木陰まで、シルバーが手を引いてくれた。それを見ていたヒビキに「僕みたいだね」と笑われてしまった。
違う、それは違う。私は彼よりもずっと矮小で臆病な人間なの、生きることに縋ることを忘れていた人間なのよ。貴方はこんなにも懸命に生きているというのに。
物事の優劣や価値ではなく、ただそこに在ること、生きようとすることがどんなに尊いことであるか、そして、その思いがどれだけ周りの人の力になるか。
人よりも遥かに病弱なヒビキと一緒に育った私は、その尊さを知っていた筈なのに、誰よりも知らなければいけなかった筈なのに。
ワカバタウンにいた時には忘れたことなどなかったのに、私は大切なものを此処に置き忘れていたらしい。
そして、私がここ数日、無意識に重ねてきた行動の正体を突然思い知る。
死にたかったと他でもないシルバーに呟いた、あの日のことを思い出す。
ああ、私は死にたかったのだ。こんなにも優しい人達を置いて、私は生を放棄しようとしていた。
一人は寂しいと言いながら彼等を拒絶していた。周りが見えていなかったのだ。全てが見えていた筈の私は盲目だった。そのことにようやく、気付けた。
「コトネはチーズが入っているのが好きだよね。」
ヒビキにそう言ってサンドイッチを渡された。夏の風も一緒に口の中に入ってきた。
この町の匂いだ。私は此処に帰ってきた。そのことが何故かとても嬉しかった。ぼろぼろと涙が零れた。
シルバーが苦笑しながらも、慣れた手付きで私の頬を拭ってくれた。
寝転がり、本を片手にサンドイッチをほおばっていた姉が「あらあら」と困ったように笑った。
ヒビキが「お姉ちゃん、サンドイッチにからしを入れたの?」と見当違いな質問をした。
「違うよヒビキ、あまりにも美味しくて感涙にむせび泣いているんだよ。そうでしょう?」
私は思わず笑ってしまった。そうだね、だなんて本当の言葉を紡ぎながら、2枚目のサンドイッチを食べるためにバスケットに手を伸ばした。
2014.2.17