私は彼で出来ている。それが恋というものである。
朝、目を覚ます。眠い目を擦りながらお気に入りの櫛で髪をとく。
彼が褒めてくれた長い髪、美しいものを好む彼が好きになったストロベリーブロンド。だから私も私の髪を好きになれる。丁寧に触れることができる。
顔を洗う。鏡を見る。ライトグレーの瞳はいつだって不安そうに私を見るばかりだけれど、彼に会えばこの不安が消え失せることを私はよく分かっている。
朝食を適当に食べる。あまりお腹を膨らませたくはない。お腹が膨れても嬉しくならないからだ。独りで、彼のいない場所で食べるものはどれも味気ないからだ。
こうした、日常の動作の一つ一つに彼がいる。彼の思い出が私に囁き続けている。
その記憶は毎日のように新しく更新されているから、彼の囁きが潰えることなど万が一にも在り得ない。
私は彼で出来ている。それが恋というものである。
あの人のくれた居場所が私に前を向かせる。私のことを許させる。それは恋というものの持つ魔法の力だ。
そうした意味で彼は紛うことなき魔術師であり、私はきっと今もその魔法にかけられている。
叶うなら、この魔法がずっと解けないままであればいいと思う。こんなにも満たされた気持ちを絶対に失う訳にはいかないと思う。
けれどもそうした私のエゴは、彼の魔法に何の影響も及ぼさない。私は彼のかける魔法に生かされており、彼はその魔術をいつでもやめることができる。
私を生かすのは私の意思でも私の能力でも私の実績でもない。私を支える要素は私の中に一つもない。そこに私の危うさがある。
「いつ解けるともしれない恋の魔法に生かされており、私が生きるも死ぬも魔術師である彼の意思次第だ」という状況を、私は喜んで受け入れている。
一体、それの何が問題だというのだろう?
私は私の力では前を向けない。だから彼の魔法に頼っている。彼の魔法があれば私は何だってできる。彼が、彼の魔法が、この恋がそうしてくれた。
それは「目が悪い人が眼鏡を掛けてクリアな視界を確保する」ことと何も変わらない。私には彼が、彼の魔法が必要だ、それだけのことだ。
私は彼で出来ている。それが恋というものである。
*
「シェリー、来月の1日から3日にかけて、何か予定は入っていますか?」
いつものように、閉店間際のレストランで洗い物を手伝っていると、厨房の火の元を確認して回っていた彼が足を止め、そう尋ねた。
私も洗い物の手を止めて、ほんの一瞬だけ考えた。考えたふりをしてから「いいえ、何も」と告げた。
空いていますか、などという彼の問いは本来なら愚問であり、不要なものなのだ。
旅を終えた私に大きな予定などあるはずもないし、よしんば何か予定が入っていたとしても、私はそれを強引にキャンセルしてなかったことにしただろう。
この人の口から紡がれるもの以上に大事なものなど、私にとってはないに等しかった。故に彼は私の予定を尋ねる必要など、本当に、本当になかったのだ。
それでも「空いていることを尋ねてから何かしらの計画を明かす」というのが一般的な「お誘い」のルールであり、
私はその人徳溢れるルールに則った言葉を使う彼の気持ちを尊重しなければいけなかった。
そのため「考えるふり」をする必要があった。私を生かすものが真に彼の魔法ただ一つ「だけ」であるという事実を、まだ彼には知られたくなかったのだ。
その、私の最も弱く卑怯で図々しい部分を知られてしまうのは、とても恐ろしく怖いことであるような気がしていたのだ。
知られてしまえばいよいよ、私にかけられた魔法は解けてしまうような気がした。彼は私に魔法をかけることをやめてしまうように思われた。
そうなれば、私はこの土地で生きる権利を失い、みっともない私でも受け入れてくれる寛大な友人のところへ戻る他になくなってしまうと、確信していた。
それは……できる限り避けたい事態であった。私はまだ此処で、私に恋をくれた人の傍で息をしていたかった。
何もかもを失っても尚、私にはあの子の作ってくれた居場所がある、という事実は私の気持ちをとても楽にしていたけれど、でも、それだけだった。
今の私、恋を知ってしまった私はもう「楽である」というだけでは満たされそうにない。
居場所があっても寂しくなることがあるのだと知ってしまった今となっては、知らなかったあの頃になど戻れそうにない。
「ではその3日間を貰っても? ……いえ、2泊3日なので3日間というよりは、48時間程度とした方が正確かもしれませんね」
「48時間」
「ええ、旅行です。たまには別の場所で羽を伸ばすのもいいかと思いまして」
私にはその「伸ばす羽」がないのに、などと告げて話の腰を折るようなことはしない。
「ズミさん、いつも忙しそうだから、きっとゆっくりできる時間になりますよ」と、賛成の言葉を口にするだけに留めておく。
帰宅の準備を始める彼の傍で、私は彼に聞こえないように心の内で重たい息を吐く。
洗い物で濡れた手が、まるで冷や汗をかいているように見えて、私は慌ててハンカチを取り出し強くそれを拭い取った。
まだ、まだ怖い。まだ私を曝け出す訳にはいかない。
私に「伸ばす羽」がないこと、その開示を受け入れても尚、笑って私を好きだと言ってくれる人物など、あの底なしの海の色を置いて他にいるはずもない。
そして私は、この恋の相手があの海に似ていないことを祈っている。あの海のようないっそ畏れ多い寛大さを、どうか私に向けないでとさえ思っている。
あの底なしの海をただの「親友」だとするには、今の私はいろいろと鬱屈しすぎているからだ。
優しさが過ぎると、私は何故だかその相手に正しく感謝することができなくなってしまうからだ。
貴方は、そうならないでほしい。貴方には、あの子に抱くような強烈な感情を、憧憬と友愛と尊敬と嫉妬をかき混ぜた鉛のような混沌を、向けてしまいたくはない。
私が、優しい相手によくない感情を持ってしまう人間であることを、貴方には知られたくない。
よしんば知られたとしても、貴方はあの子のようにそれを許したりしないでほしい。「この知れ者が」と怒鳴ってほしい。私を叱ってほしい。
「行き先はまだ決めていないのですが、希望はありますか?」
「……カロスでない場所なら、何処でも」
私は青ざめた。これは失言だった。間違えてしまった。
目の前にいるのは彼なのに、此処にはいないイッシュの親友のことを考えてしまったから、つい、本音を隠すことを忘れてしまったのだ。
この言葉を撤回するための何か気の利いた言葉を、私は必死になって探した。けれども私の頭ではそれらを上手く組み立てることができそうになかった。
彼の顔を見ることがどうにも恐ろしくて、私はさっと顔を背けて俯こうとした。
「それもそうですね、日常を忘れて羽を伸ばすには、この場所はあまりにも日常で在り過ぎている」
けれども私がそうした気の利いた言葉を言えずとも、彼がその続きを引き取って、それを、彼自身が納得するための言葉としてくれる。
だから私は下を向きかけていた顔を再び彼の方へと戻して、そうなんです、別の場所の方が息抜きしやすいと思って、と、付け足して笑う。
これもまた、彼の魔法の一部である。私が組み立てることのできない文章を、言い訳を、思いの丈を、彼は鮮やかに言語化してみせてくれる。
だから彼の前での私の沈黙は、あまり「沈黙」の形をしていない。
彼に会う前と変わらぬ寡黙を貫きながらも、その実、私の心は彼の魔法のおかげでどこまでも雄弁に羽ばたけてしまうのだ。
「ではジョウト地方に行きましょう。何度か料理のコンテストに赴いたことがあるので、ある程度の地理は把握しています」
「……楽しみです、とても」
よかった、と彼は小さく呟いて私の手を引いた。つい先程まで洗い物をしていた私の手は冷たく、彼は「おや」と声に出してから強く握った。
電気を消し、厨房を出る直前、彼は空いた方の手で私の顎をそっと掬い上げる。私は目を閉じる。ささやかなキスが降ってくる。今日は、噛み付かれなかった。
『では今、考えてください』
『どうやって貴方と一緒にこれを食べたものかと、そればかり』
『参考のために聞かせてください。貴方はこれに、何を入れたのですか?』
『貴方が怖くなくなるまで、続けます』
彼は、大人だ。彼は、恋という階段を早足で駆け上がっているようなところのある人だ。
私は大人である彼に、一段飛ばしを繰り返す彼に、付いていくことで精いっぱいだった。そんな頃が長く、具体的には1年ほど、続いた。
けれど、もう彼は駆け上がらない。もう彼は、彼の足が踏める全ての階段を踏み尽くしている。
だから今の私は、彼の一挙手一投足に心臓を持っていかれそうになったりしない。思考が弾け飛んでしまいそうな程に恥ずかしくなったりもしない。
大胆な人だとは思う。変わらず私を好きでいてくれるという事実を示し続けてくれることは、いつだって私を舞い上がらせる。
けれども、それだけだ。それだけにすることができたのだ。付き合い始めて直ぐの頃に私を襲い続けていた数多の混乱は、もうすっかり影を潜めていた。
そうして訪れた平穏の中で、私はとても狡いことを考え始めてしまう。
この恋こそが私の居場所なのだと、貴方という魔術師の確かな魔法が私を生かしているのだと、貴方を失えば私はいよいよ此処で生きられなくなってしまうと、
そうした破滅的な真理を私の頭の中で構築しては、益々、彼のことを好きになっていく。
恋の奈落は果てが知れない。私はどこまでも行ける。落ちていける。
この真理は間違っているのかもしれない。このような恋を歪に誇ることは許されないのかもしれない。
けれど「そんなこと」はちっとも怖くない。私はもう「間違うこと」「許されないこと」を恐れない。
この勇気だって、恋がくれたものに違いなかった。私はきっと、彼に出会うために旅をしてきたのだ。
不安と恐怖の連続であったあの旅における苦痛も、けれども彼に出会えたことで全部帳消しになった。彼の魔法が全てなかったことにしてくれたのだ。
私は彼で出来ている。それが恋というものである。
2019.2.27