A11:Match of whereabouts

手作りのお菓子の入った青い紙袋を提げて、ミアレの街を歩いていた。大通りに構えられたカフェから、チョコレートらしき甘い香りが漂ってくる。
甘いものが美味しい季節になったなあ、と思う。もっとも、甘いものが美味しくない季節など、ありはしないのだけれど。

『このズミを甘く見ないでいただきたい。好きな人が作ってくれたものの味くらい、一口で判別できます』

ああ、確か1年前のバレンタインでは、彼の勤めるレストランの控え室に山積みにされたチョコレート、あれにとても醜い感情を抱いてしまっていたような気がする。
小箱や紙袋の山の中に私の作ったガトーショコラを押し込んで、逃げるように店を後にした。
あの頃の私はそうした、自分に自信はないくせに他人には一人前に嫉妬してしまうような、どうしようもなく矮小な存在だった。
あれ、それは今もあまり変わっていないかもしれない。少しだけ不安になったけれど、その懸念にいつまでも顔を曇らせることはもうしなかった。
今日という日がそうした表情をするに相応しい日ではないことを知っていたし、何より今は、ミアレシティに訪れた冬の気配を楽しんでいたかったのだ。

カロスには基本的に、四季がない。カロスの気候はその土地に依存していて、暖かい土地では一年中泳ぐことができるし、寒い場所では一年中、雪が降っている。
けれどそうしたこの地域にも、四季を感じさせる街というものが少なからず存在していて、このミアレシティもその一つだった。

8月にはノースリーブで丁度良い涼しさだと感じたこの通りも、今ではトレンチコートを羽織らなければ肌寒い程になった。
まだ吐く息は白くならないけれど、夜になれば気温が下がるから、もしかしたらあるいは、と考えながら通りを歩く。
高いヒールで少しだけ大人を装って、彼との身長差を縮めようと目論んでいるのは私だけの秘密だ。
ああ、けれどこんな私の小さな目論みなど、きっと直ぐに見抜かれてしまうのだろう。だって彼はあんなにも聡明で、私はこんなにも単純なのだから。

その差に嫌気が差していた時期も確かにあった。私のような人間が彼と一緒にいていいのかと、思い悩んだことだって一度や二度では決してなかった。
今だって、少なからず思っている。彼を立派だと思う気持ちと、それに比べて私のなんと単純で矮小なことかと思う気持ちは、きっと、ずっと消えないのだろう。
それでも私は彼の隣に在ることを今も許されているのだから、これで大丈夫なのだろう。それでもそうしたことを思い悩んでしまうのは私の性分なのだから、仕方ないのだろう。
今の私は、そう割り切ることができていた。割り切るために、2年を要した。

『ですが、貴方がその小さな身体に持て余している程の想いが、貴方を震えさせ、涙すら零させてしまう程の感情が、他でもない私に向けられていると気付いてしまった。
……貴方を愛しく思う理由としては、それだけで十分ではないでしょうか』

あれから、今日で2年が経つ。あの恐ろしい程に立派な人と、付き合うようになって2年。
14歳だった私は16歳になったけれど、私は、その重ねた年月に見合うだけの成長をこの身に、この心に宿しているのだろうか。
私に宿った、臆病で卑屈な気質はそう簡単に変わってはくれないけれど、それでも私は、この2年で確かに多くのものを得たはずだった。
そのほとんどが、今から会おうとしているその人物に与えられたものであることは、ほんの少しだけ私を不安にさせる。
私はあの人なしでは生きていけないのかもしれないと、そうした懸念が私の足取りを覚束なくさせる。
自分の矮小さに嫌気が差すことにはもう慣れたし、その鬱屈した感情を適当に処理する術も心得始めていたけれど、
こうした不安を拭うための適切な思考というものを、私はまだ得ることができずにいた。

私は誰かに不安を拭ってもらわなければ、いつまでもこうして悩み続けるのだろう。
そうしてその誰かが、本当に誰彼構わずといった意味での「誰か」ではなく、他でもないその人であることを私は知っている。
ああ、やはり私は一人では生きていかれないのだと、けれどそれは私が人である限り当然のことではないかしらと、そんな風にぐるぐると拙い思考を巡らせていた。

けれど、そのどうしようもない思考を遮ってくれる声だって、私の名前を呼ぶ、この2年間で聞きなれすぎたテノールに違いないのだ。

シェリー

大通りの街路樹、その下で彼は小さく手を挙げた。高いヒールで走る術は心得ていたため、特に何の問題もなくアスファルトを蹴って彼に駆け寄る。
まだクリスマスには早いため、街路樹に電飾は施されていない。それでもミアレの街は華やかだった。冬は心なしか、街が賑やかである気がする。

出会って直ぐに持っていた紙袋を渡せば、彼は「ありがとうございます」といつものように微笑んで受け取ってくれる。
お菓子を作り始めた当初はガトーショコラだけだった私のレパートリーは、2年の時を経て少しだけ増えた。
今日の紙袋の中には、例のガトーショコラとクッキーが入っている。素人が作ったものを、彼は今でも変わらず「美味しい」と食べてくれる。
私はもう、彼に自分の作ったお菓子を差し出すことを、躊躇わなくなった。
彼が本当にそれを喜んでくれているのだと、私の作ったお菓子を本当に美味しいと思ってくれているのだと、そう確信を得るまでにもやはり長い時間が掛かった。

彼はいつだって、私と一緒にいてくれた。
私の手を強く引いて、大きな歩幅で駆け上がっていった。私が息切れを起こせばスピードを緩めてくれた。私の恐れを尊重して、歩を戻したことさえあったのかもしれない。
二人の歩む速度には大きな差があったけれど、それでも彼が私を置いて行ったことなどただの一度もなかった。

今日だってそうだ。待ち合わせの時間にはまだ2分ほど早いけれど、彼はこうして此処にいてくれる。私を待ってくれている。歩みを揃えるための準備をしてくれている。
だから何も不安に思うことなどないのではないかと、恋というものが生む特有の魔法めいた、麻薬めいた安心感に浸ることだってできた。
彼に会えたというこの昂揚感に乗じて、先程の懸念を忘れてしまうことだって、きっとできた。
けれど彼は、そうした私の顔に落ちた一点の曇りをいとも容易く見抜いてしまう。

「また何か考え事をしていたのですか」

この人は聡明なだけではなく、恐ろしい程に人の心を読むのだ。
それは人の顔色を日常的に読んで生きてきたはずの私でさえ、驚かせされてしまう程の正確さで働く勘であり、私はその勘によって幾度となく私の醜い部分を暴かれてきた。
けれど彼と付き合って、2年になる。だからもう、慣れてしまった。故に私の口は躊躇うことなく正直に、先程の懸念を紡いだ。

「私はこの2年間で多くのものを得て、成長したつもりでいるけれど、そのほとんどが他でもない、ズミさんに貰ったものだって、気付いたんです。
私は貴方がいないと生きていけないんだと思うと、自分がやっぱり情けないし、同時に、貴方を失うことが怖いと、思って」

彼はその青い目を見開き、けれど直ぐに小さく微笑んで、困ったように首を少しだけ傾げてみせた。
「……私を失う予定があるのですか?」と躊躇いがちに尋ねられたその言葉に、間髪入れずに首を振れば、彼は少しだけ楽しそうに目を細める。

「ええ、私もです。貴方を生きていけなくさせる訳にはいかない」

そう、彼は臆病で卑屈な私を責めない。矮小な思考を巡らせてばかりの私を糾弾しない。
私が私に対して下す評価はいつだって覚束なくて、頼りないのだ。私はそうした下向きな評価しか自分に下してこなかったのだ。
だからこそ、第三者がそうした私の一面を目の当たりにした時、私と同じように呆れ、嫌悪し、そして私を見限るのだろうと勝手に想定し、怯えていた。

けれど彼は、そうしない。その理由はやはり、頭の良くない私には分からない。
それでも、そうして彼が私に紡ぐ言葉で、私がどれだけ救われているかということくらいは解るのだ。彼のその言葉に冗談の響きが含まれていないことだって、分かっているのだ。

「ではシェリー、手を出してください」

言われるがままに差し出した手に、彼はポケットから取り出した小さな何かを落とした。
金属特有の冷たい質感が手のひらに染み入る。鍵だ、と判断するや否や、私は手の平に落とした視線を硬直させ、瞬きすら忘れて息を止めた。
何の鍵であるかということに思い至れない程、私は鈍くはできていない。彼がこれを私に渡そうとしているその意図を推し量れない程、子供でもない。
彼は小さく咳払いをした後で、続けた。

「貴方を生きていけなくさせる訳にはいかないから、これからも貴方から離れるつもりはありません」

「……」

「今ならまだ、私にそれを突き返すことができますよ。言い換えると、シェリー、貴方がこれを受け取ってしまえば、もう貴方は私から逃げることができなくなる。
私も、貴方を逃がすことができなくなる。ですからよく考えて、決めてください」

止めていた息をゆっくりと吐く。忘れていた瞬きを2回、3回と繰り返して、私は彼の言葉をゆっくりと咀嚼する。
そうしたぎこちない動作を繰り返す私を、彼はやはり、待ってくれる。待たなくてもいいと言ったはずなのに、それでも、待ってくれている。

もう、待たせる訳にはいかない。

私は手の平に落とされた銀色の鍵を強く握り締めた。真っ直ぐに彼を見上げて、心が決まった旨を伝えようとしたにもかかわらず、私の口はつまらないことばかり紡いだ。
家事なんてろくにしたことがないし、まだ働いてすらいないし、料理だってズミさんのほうがずっと上手で、その癖、こんな風に口だけは勢いよく卑屈に回るし。
早口であれこれを紡ぎ続ける私を、彼は笑って許した。
ええ、分かっています。一つ懸念を紡ぐごとにそう頷いて私の頭を撫でる彼は、しかし10個目を紡いだ頃にとうとう堪え切れなくなったのか、声を上げて笑い始めた。

「そんなこと、全部知っていますよ! どれだけの間、私が貴方を見てきたと思っているんですか」

その言葉に目の奥が熱くなったけれど、染み入る冬の冷たい風が目元を冷やしてくれたから、泣かずに済んだ。
こんな日くらい、笑っていたかった。至極楽しそうな笑みを湛える彼と同じように、笑いたかったのだ。
強く握り締めた鍵は、もうすっかり温かくなってしまっていた。

2015.12.8
(お揃いの居場所)

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