A6:Overdrive

私はいつものように、彼がシェフを務めているレストランにやって来ていた。
彼がまかないの夕食を済ませ、片付けをしている姿を見ていると、ふいに彼がこちらを振り返り、こんなことを訪ねたのだ。

シェリー、貴方はいつもどのような間食を摂っているのですか?」

彼のそんな質問に私は戸惑い、本当のことを話すべきかどうか、迷った。

意外だとよく言われるが、私はスーパーやコンビニで売られているお菓子に目がない。
買うのは専らチョコレートやキャンディーだが、たまに魔が差して、大きな袋のスナック菓子を購入することだってある。
期間限定と名の付くものはどんなものでも取り敢えず買ってみる。「さつまいも味のチョコ」などという変わり種も逃さずチェックする。
最近発売されたものを除けば、私が名前を知らないお菓子はないはずだ。

しかしそんな私を、あまり他の人には、特にこの人には知られてはいけないのではないか、と思ってしまった。
だって彼は一流のレストランを任されている一流のシェフだ。そんな彼と、私はあろうことかお付き合いをしている。
その私が……私にとっては宝物のようなお菓子だけれど、彼の目にはきっと低俗なものに見えてしまうあのお菓子……を、日課のように食べていると知ったら。
彼はどんな反応をするだろう。私はそれを恐れていたのだ。
好きな人には幻滅されたくないし、呆れられたくないし、嫌われたくない。そう思うのは無理からぬことで、ごく自然なことだ。

けれどもそれと同時に、この人には嘘を吐きたくないという思いがあったことも事実である。
嫌われたくない。けれども好きな人に自分を偽ることはしたくない。そんな葛藤を私は抱えていた。この間、僅か数秒のことである。
普段は頭を働かせるようなことが苦手なくせに、自分の保身のためには驚く程に思考が高速で回転するのだ。つくづく自己本位だと思う。
そして私は、嘘を吐くことも、本当のことを話すことも選べなかった私は、狡い第三の選択肢に縋ることにした。

「チョコレートが好きなので、おやつにはそれを選んでいます」

第三の選択肢。
それは彼の質問をはぐらかし、この話題が過ぎるのを待つという、とても狡くて臆病な私らしいものだった。

「ああ、そう言えば貴方はティラミスやチョコレートクレープが好きでしたね。……いや、ティラミスのあれは厳密にはココアパウダーでしたか」

納得したように頷くが、彼は大きな誤解をしている。
私が買うのは専ら、カラフルな色の付いたチョコレートや、プリッツェルにチョコがコーティングされたもので、挙句の果てには板チョコを買ってそのまま齧ったりするのだ。
ティラミスだって、このレストランで出してくれるような、お洒落な透明のガラス容器に入れられたものではなく、よくあるプリンの容器に入ったものを常食している。
クレープだって、出店で売っている、紙に包まれたそれに上からかぶりつくタイプの方が馴染み深い。
ナイフとフォークで食べるクレープがあるなんて、このレストランで初めて知ったのだ。

私の大雑把すぎる回答に、しかし彼は満足してくれたらしい。
「少々お待ちください」そう言って立ち上がり、奥の下処理室へと姿を消した。
私は小さく溜め息を吐く。張りつめていた緊張の糸が一気に解け、身体が一気に重くなったような気がした。

一回り年が離れており、四天王とシェフを掛け持ちしながら多忙に働く立派な彼と付き合い始めて、まだ長い時間は経っていなかった。
私から手を繋ぎ、彼からキスをされた。
あらゆるところであらゆる差を見せつけられ、時に自分が惨めになった。
しかしそんな惨めな自分を彼は好きだといい、こんな私を前にして、その端正な顔を赤く染めるのだ。
私は彼が解らなかった。彼以上に、この魔法のような関係のこともまだ解らなかった。
ようやく受け入れることのできたこの関係、この思い、この恋。けれども慣れてしまえるにはまだ、私と彼が過ごした時間は少なすぎるような気がした。

私にはまだ時間が必要だった。この関係をゆっくりと噛みしめ、私を好きでいてくれる人がいるという現実を、卑屈にならずに受け止めていく必要があった。
しかし彼はそんな私よりもずっと早足で歩こうとする。私のように、現状把握と感情の消化に大量の時間を要したりはしない。
だからこそ、この間、手を繋いだだけで満足していた私にキスをしたのだろう。彼はその時は顔を赤くして慌てた様子を見せるけれど、きっと次の日には落ち着いていたのだろう。
私はあのキスを自分の頭の中で整理し、受け入れるために、3日を要したというのに。

私には、私と彼との前途は多難であるように見えた。しかし、それでも彼を好きになってしまった。
だから、逃げることが得意であるはずの私は、先程のように答えをはぐらかし、そっと遠ざかることに慣れているはずの私は、しかしこの関係からは絶対に逃げようとしない。
逃げてはいけない。ズミさんのことを好きになってしまったのだから。

「!」

そんな思考をぐるぐると巡らせていた私は息を飲んだ。
現れたズミさんの片手に、とても見慣れたものがあったからだ。

「そのポッキー、どうしたんですか?」

「ポッキー? ……ああ、このチョコレート菓子の名前ですか」

その瞬間の、叫び出したくなるような後悔を、果たしてどう表現するべきだったのだろう。どんな表現にせよ、それは大失敗だった。それだけは確かだった。
このお菓子の名前を彼に教えてしまうなんて、常食者だと言っているようなものだ。数分前のあの葛藤は何だったのだろう。
私は弁明しようとした。必死に思考を巡らせた。けれどもう、ここからの状況を打開する術を考えるだけの術は残されていないようだった。
私は聡明ではないし、狡猾にもなれない。故に最初から正直者になるしか、きっと道は残されていなかったのだ。

「知り合いに貰ったのですが、私は食べたことがないものですから」

ほら、彼はこういうお菓子を常食しないのだ。彼はそういう人ではないのだ。
私は泣きそうになりながら必死に笑顔を作ろうと務めたが、次の彼の言葉でそのぎこちない笑顔すら硬直した。

「貴方と一緒に食べたら美味しいだろうと思って、取っておいたんです」

……私は自分のことばかりで、保身のための策謀ばかり上手になっていく。そうした酷い人間だから、たまに忘れてしまう。
私が彼を好きになってしまったのと同じように、彼も私を好きになってしまったのだということを。
恋を受け入れているのは、私だけではないのだということを。

彼はその長い指で箱を開け、中に見える二つある小袋のうち、一つを取り出して、開けた。
それはいつも私がしている動作のはずなのに、彼がしているというただそれだけで、何故かとても神聖なものに思えたのだ。
彼はその袋から不思議そうに1本を取り出し、それを私に渡してくれた。期間限定でも変わった味でもない、ありふれた普通のそれを受け取り、口に運んだ。
歯を立てれば、軽快な音を立ててそれが折れた。私にとっては安心できるいつもの甘さが舌を転がった。

「美味しいですか?」

「はい。でもズミさんには少し、甘すぎるかもしれません」

市販のチョコレート特有の濃い甘さを私は気に入っていたが、きっとこうしたものを食べ慣れていない彼にしてみれば、きっと甘すぎると感じるはずだ。
すると彼は「そうですか」と小さく呟き、何を思ったのかその手を、二口目をくわえたばかりの私の顔に伸ばした。

「え、」

「動かないで」

彼の左手が私の頬に添えられ、私は否応なく硬直してしまう。
少しだけ強い力で私の顔を上へと向けた彼は、右手の人差し指で私がくわえたままのポッキーをそっと上へと持ち上げ、その端を静かにくわえて、軽快に折って、食べ去った。
しかし、ポッキーの末端は、手で持つことができるようにチョコレートがコーティングされていない。今の彼の口には、プリッツェルの部分しか入っていない。
故に彼が二口目を求めたのは当然だと言えよう。当然だったのだ。
チョコレート菓子なのだから、チョコの部分を食べたいと思うのは当然のことだ。当然の、こと、だけれど。

「……確かに、甘いですね」

ポッキーのチョコ部分に触れてしまったために、人差し指についたチョコレートを、彼はぺろりと舐めてからそう紡いで笑った。

『では今、考えてください』
あの日の彼の言葉が想起されてしまった。全く同じ表情をした彼を眼前にして、私の心臓は弾け飛んでしまいそうだった。

これは、あまりにも酷い。あまりにも、酷くありませんか、ズミさん。
だって、一緒に食べる、というのがこういうことである、なんて、貴方はさっき何も言ってくれなかった!

「どうしました?」

「……その、急に、こんなこと、」

「急ではありませんよ、私はずっと考えていました。この箱を頂いてからというもの、どうやって貴方と一緒にこれを食べたものかと、そればかり」

彼はこうやって、あまりにも早足で私の知らないところへ行ってしまう。あまりにも早足で恋を駆け上がってしまう。
そんな彼が私の手をしっかり握っているものだから、私も彼と同じ速度で駆け上がらずを得ない。
足を止めて振り返ってくれることもあるけれど、少なくとも今は違う。今の彼は止まらない。止まらないから私は、この感情をどう片付ければいいのか分からない。

私は慌てて、残ったチョコレート菓子を口の中に押し込んだ。
もう要りませんと、ごちそうさまでしたと、後は貴方が食べてくださいと、そうしたことをまくし立ててから深く俯いた。
口の中に残るいつもの味は、もう「いつもの味」ではなくなっていた。いつも食べているこれはこんなにも甘くない。こんなにも、熱くない。

しかし幸いなことに、あまりにも早足で恋を駆け上がる彼は、たまにこうして足を止めて、振り返ってくれる。
ゆっくりのペースでしか進めない私を、あまりの速度に息切れを起こす私を、ほんの少しだけ待ってくれるのだ。
その証拠に、彼は楽しそうに笑いつつ、私の頭を少しだけ乱暴に撫でてから、触れるだけのキスをした。

2014.11.11(2019.2.17 修正)
ポッキーは商品名ですから本当は「チョコプリッツェル」とすべきなのですが……今日だけは許してください。
(過熱状態)

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