「美味しいですか?」
「はい、とても!」
今でこそ、同じソファに腰掛け、左の肩をズミに預け、頬を綻ばせながらティラミスを口に運ぶ彼女だが、出会ってすぐの頃はろくに笑わず、目を合わせることも極端に少なかった。
半ば強引に恋仲へと引き込んだことから始まったこの関係が、もう2年も続いていることに、少女は勿論のこと、彼もかなり驚いていた。
20代半ばにしてようやく始まった初恋は、自分でも笑ってしまう程に滑稽に、愚直に、少しずつ進んでいった。
男はワインを持っていない方の手で少女の頭をそっと撫でた。ストロベリーブロンドの美しい髪は、驚く程の滑らかさで男の指を通す。
ああ、この髪はあの頃と何も変わっていない。ズミは小さく微笑んで、2年前のあの頃を探すために記憶の海を泳ぎ始める。
*
フレア団を解散に追い込んだ少女。ズミが持っていた前知識はそれだけだった。
フラダリラボはカロスで名の知らぬ者がいない程の大きな会社で、それを束ねるフラダリという男を打ち負かしたらしいその少女に、彼は随分と勝手な想像をしていた。
すなわち、とても強気で気丈で、権力のある大人や強大な力にも屈することなく、一人で何もかもをこなしてしまう超人、という予測を立ててしまっていたのだ。
おそらく、自分はその少女に敵わないであろうと思った。それだけの力を持った子なのだ。チャンピオンになることくらい容易いのだろう。そう確信していた。
それ故に、水門の間へとやって来た少女の、何もかもに怯えるような態度と、消え入るようなか細い声に、ズミは衝撃のあまり絶句することとなった。
人違いかもしれないと思った。しかし「シェリー」という名前が、カロスを救った英雄と同じだったため、ズミはいよいよ確信せざるを得なくなってしまったのだ。
そして、その臆病を具現化したような態度と声音に反して、ポケモンバトルは恐ろしい程に強かった。
サーナイトだけでズミの持つ4匹のポケモン達を戦闘不能に追い込んだ、その圧倒的な力に彼は感服した。
『臆さずに、迷わずに進みなさい。貴方は必ずその手に最上の勝利を掴むことでしょう。このズミが保証します』
あまりに逃げ腰であるその態度に、ズミは思わず口出しをしてしまっていた。
赤い帽子を目深に被った少女は、最後まで男と目を合わせることをしなかったけれど、その最後の瞬間、帽子の影に隠れた口元がやわらかく綻んだのだ。
『はい、必ず』
その消え入りそうなソプラノに、しかし彼は少女の圧倒的な矜持を感じたのだ。
臆病を具現化したかのような態度を取る彼女だが、その実、その身に宿した意志は、フレア団を打ち負かすに相応しい強さを秘めているのではないかと思ったのだ。
思ったのだが、それだけだ。ズミにとって少女は、数多いる挑戦者の一人に過ぎないはずだった。
自分を打ち負かすトレーナーは少女が初めてではなかった。それ故にズミは、時が経つにつれ、その、酷く歪な強さと弱さを併せ持つ少女のことを忘れていくはずだった。
自分の気紛れな言葉は、あの少女の背中を押すだけの力を持っていたのだと、そう思い、微笑むだけの記憶であるはずだったのだ。
けれど、そんなズミの予測に反して、少女はそれ以降、何度もポケモンリーグを訪れた。
既にチャンピオンに勝利した彼女は、しかしその座を放棄し、こうして挑戦者としての位置に留まることを選んだ。
その選択にどういった意図があったのか、無口な彼女から聞きだすことはできなかったが、それでもズミは不快には思わなかった。
むしろ、自分よりも遥かに高い実力を持つ彼女が、こうして定期的にリーグを訪れ、四天王であるズミに刺激を与えてくれることを、彼は心から嬉しく思っていたのだ。
彼女の存在はズミに、ポケモントレーナーとして向上し続けていたいという強い意志を芽生えさせていた。
そうして何度か、水門の間でポケモンバトルを重ねている内に、ズミはおかしなことに気付いた。
少女の人見知りとも呼べるその臆病な態度が、酷くなっているのだ。
ただ頷いたり、沈黙を貫いたりすることが随分と多くなってしまった。以前はこちらが話し掛ければ、それに応じた言葉を短く返してくれていたはずなのだが。
加えて、帽子を目深に被ったその顔は、いつも下を向いているのだ。ポケモンに指示を出している時ですらも、彼女はその顔を上げることをしなかった。
視線を合わせないのは以前からのことだったが、今は目というよりも顔全体を、こちらに見せまいとしているようにさえ感じられた。
そんな彼女が積極的に紡ぐものと言えば「ごめんなさい」という謝罪だけだった。そのことを疑問に思ったが、特に追及することはしなかった。というより、できなかった。
少しでも傷付ける言葉を投げれば、彼女は泣き出してしまいそうに見えたからだ。
何が彼女から表情を、言葉を奪ったのだろう。
それでも彼女はポケモンリーグへと足を運んだ。
人と目を合わせることのできない彼女が、こうして人と話をしなければならない場所に自ら足を運ぶその様は、まるで自身を痛めつけているかのようだった。
ズミにできることは何もなかった。ただいつものように水門の間で、彼女を迎え続けていた。
彼が彼女に干渉できる僅かな時間で、彼女を苦しめている何かを突き止めることなど不可能だった。
1週間に2回か3回ほど、彼女はポケモンリーグを訪れていたけれど、その曜日も、時間も、全く決まっていなかった。
それ故に、ズミは今か今かと彼女の訪問を待つようになった。
勿論、常に彼女のことを考えていた訳では決してない。
しかし「挑戦者」の知らせが入ると同時に、「彼女ではないか」と推測してしまう程度には、彼の心に彼女の存在はしっかりと根を下ろしていたのだ。
彼は、待つことしかできなかった。そうして時間は確実に流れていった。
そんな時間が突如として変化したのは、とある日の夕方のことだった。
いつものようにバトルを終え、いつものように数少ない言葉を紡いでいたズミは、距離を取って彼の話を聞いている、彼女の両手が不自然に震えていることに気付いたのだ。
『シェリー、どうかしましたか?』
その震えの正体に辿り着くことのできなかった彼は、その驚きのままに彼女に駆け寄ってしまったのだ。
掴んだ彼女の腕は女性のそれに違わず華奢で、冷たかった。
そうして聞こえた、いつもの「ごめんなさい」という言葉と、鈴を引きずるような苦しげな嗚咽に、ズミは絶句した。
この少女に、恐れられている。
その事実はズミの心を鋭く抉った。何故、たったそれだけのことにこれ程までに傷付いているのか、自分でもよく分かっていなかった。
それでも、今のこの場には、少女とズミしかいなかった。
彼女の嗚咽を止められる人間が自分しかいないことに思い至った彼は、直ぐにホロキャスターを取り出して、チャンピオンに偽りの連絡を入れた。
少女の頬に押し当てていたハンカチをポケットに仕舞おうと握り直せば、彼女の涙が布に濃い色を落としていた。
こうして、挑戦者と四天王という関係では決して得られることのなかった長い時間を、ようやくズミは手に入れることが叶ったのだ。
『人と話すことが苦手だ』と語った少女に、ズミは相槌を打ちながら、やはりそうか、と心の中で大きく頷いていた。
それでも、そうした苦手意識は、人と関われば関わる程に薄れていくものだと思っていただけに、悪化の様相を呈した彼女のそれを、彼はまだ理解することができずにいた。
けれど、少女の臆病がそうした苦手意識によるものであるならば、自分が協力できることもあるのではないかと思った。
それ故に『私で練習してみますか?』と紡いだその提案を、しかし少女はあらん限りの大声で拒んだのだ。
『ズミさんじゃ、駄目なんです。……ごめんなさい』
その瞬間、一つの可能性がズミの脳裏でぱちんと弾けるように現れた。
この、小さな身体に大きすぎる力を宿した少女は、その強さに似合わずとても臆病な少女は、まさか。
その言葉の意味と、悪化を重ねる少女の臆病な態度を、ズミは自分の都合のいいように解釈するという賭けに出た。
心臓が煩くその存在を主張していた。
やっと、やっとこうして会話をする時間を手に入れたのだ。
何もできないまま、待ち続けていたこの数週間の果てに、ようやく変化が訪れようとしているのだ。この機会を逃せば、次はいつ訪れるのか知れなかった。
だからこそ、ズミは自惚れた発言を取ることを選んだ。躊躇いなどという殊勝なものは、この水門の間に打ち付ける大量の水が押し流してしまったのだろう。
『幾つか、質問をしても宜しいでしょうか』
そうして、ズミは人生で初めての告白を紡ぐに至ったのだ。
*
ズミさん、と呼ばれた声に、男はようやく我に返った。
「そろそろ眠らないと明日が辛いですよ」と苦笑しながら時計を指す、その少女の指を追えば、時計の短針はもうすぐ2を指そうとしていた。
成る程、このふわふわとした眠気は、ワインだけを原因とするものではなかったらしい。
空になったグラスと皿をキッチンに運び、片付けと歯磨きを済ませてから寝室へと向かう。
当然のように隣に倒れ込んだ少女の頭をもう一度撫でれば、少女はクスクスと笑いながら眠そうな声音で呟いた。
「今日は沢山、頭を撫でられたような気がします」
「ええ、そうですね。今日はとても嬉しいことがありましたから」
そうなんですか? と尋ねたその次の瞬間、返事を待たずに規則正しく聞こえ始めた寝息にズミは苦笑する。
随分と長い間、付き合わせてしまったから無理もないことだと思いながら、彼は飽きることなく少女の滑らかなストロベリーブロンドを指に絡める。
知らなくていいと思った。自分が、ティラミスに手を伸ばした少女の姿にこんなにも浮かれていることなど、知らなくていい。知られない方がいい。
待つことしかできなかったあの頃のズミの気持ちなど、この少女には理解し得ぬことだと思っていた。
けれど少女は、ズミの帰りを待ち続けるため、眠ってしまわないようにするため、冷蔵庫の中にある甘味へと手を伸ばした。
待つ時間の長さと、待ちたいという意思、それらを共有できていたという事実が、途轍もなく嬉しいと思えてしまう。
「明日は私の分のティラミスも買っておいてください。貴方の待つ時間に寄り添ったあの味を、貴方と一緒に楽しんでみたい」
聞こえるはずのない言葉を囁いて、彼も夢の中へと意識を落とす。
2015.8.17