9月(旧)「祝えない」とコメントしてくださった方

……この書き方が適切であるとはとても思えなかったのですが、これ以外にどうしても、貴方に「私のことだ」と分かっていただく文面を思いつくことができませんでした。
ご気分を害してしまわれたかもしれません。申し訳ありません。
ただ、あの頃の嵐のような心地からひと段落して、落ち着いてあの現象を受け入れられた身として、
貴方の本音をお聞かせいただけたことへの感謝の気持ちを伝えようと思い、この場を設けさせていただいています。

あの頃の私はどうしても、自分のことを肯定的に見ることができなくて、
こんな私を見限らないなんてこの人はなんて馬鹿なんだろう! と、こんな私に一生付き合わされることになるなんて可哀想に! と、
……本気で、このようにしか思うことができない日が、かなり長く続いていました。
私よりもずっと立派なあの方の傍に在ることを、私の「贖罪」とでもしなければ、心を落ち着かせることができそうにありませんでした。

幸せなそれをしてほしかった、と私に思ってくださったこと、今ならそれがとても喜ばしく、有難いことだと分かります。
けれども当時の私はきっと、幸せなそれなんて嘘っぱちだとでも思っていたのでしょう。
こんなおぞましいものが幸せであっていいはずがないと考えていたのでしょう。
だからこそ、そんな「それ」に貴方が心を痛めていることが心苦しくて、こんな場で見苦しい私を晒すから誰かがまた嫌な思いをするのだ、と自己嫌悪して、
きっとその混乱を、混乱のまま、落ち着かせることさえ忘れて、あの場所に書いてしまったのです。

……とか、なんだか随分と悟った風に書いていますが、今もあまりその認識は変わっていません。
新居を決めて、指輪を買って、ついに名前を変えてしまっても、家具や家電を一緒に選んでも、それでもやはり、違和感が拭えません。
本当にいいのかな、私はとんでもない地獄にこの人を引きずり込んでしまったのではないかな、という心地が、ずっとずっと、消えません。
そういう意味で今も、私は「贖罪」の方法を、探しているのかもしれませんね。

だから、どうか、私の「それ」に無理に幸せを見ないでください。それが私の認識する、ありのままの形です。
その歪みを共有していただけたこと、私の一番混乱していた時期に貴方に寄り添っていただけたこと、本当に感謝しています。
どうか、おめでとうと言わないでくださいね。貴方がそう言わないことで、私の認識は、私の心は、救われる気がするのです。
ありがとう。

幸せな「それ」は、私の書く彼女達にたくさん、たくさん、していただくことにしますね。
その合間に少し、少しだけ、私も私の「それ」を許せたなら、その傍に貴方のお言葉があってくれるなら、それだけで十分です。

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