(関連:「連理に通る悪事」)
「君にどんな昔があったって構わないよ」
ワカバタウンの東外れ、紺色の波が穏やかに寄せたり引いたりするさまを眺めながら、私は小さな声でそう告げた。
靴が濡れないギリギリのところまで砂浜を進んだ彼は、私の声にちゃんと気付いて、振り向いてくれる。
僅かに細められた紅い目が月明かりによく映えて、いつものようにとても綺麗で、そのことにどうしようもなく安心させられる。
私の声を彼が無視したことは一度もない。私の心を彼が蔑ろにしたことも、ない。
「君が私の知らない昔に、どんな悪いことをしていたって構わない。君がその心の内に、どんな悪魔を飼っていたって構わない。
だって君も、知らないものね? 君も私の昔がどんな風だったか、私の心にどんな悪魔がいるか、全く、知らないんだものね?」
「それは、そうだろう。俺達は旅の中で、たった十数回しか会ったことがないんだ。その十数回だって、ほとんどポケモンバトルで会話をしているようなものだった」
「そうだよ。私達、互いのポケモンのことはとてもよく知っていても、互いのことはきっとまだほとんど知らないの」
研究所の前で突き飛ばされて、29番道路で戦って、それからの旅先でもずっと、彼に呼び止められたり彼を呼び止めたりして、出会う旅にポケモンバトルをして……。
そうした私達の時間はあまりにも慌ただしすぎて、沢山の知らない感情が嵐のように吹き荒れこそしたけれど、その中で彼という存在をちゃんと想うことはひどく難しかった。
この指輪を嵌めるために恋というものが必要であるのなら、きっと私はこの綺麗なリングに弾かれてしまっていたことだろう。
そういうことだった。私は彼に上手く恋をすることができなかった。今もきっとできていないのだろう。
この短い時間で彼を呼び止めるためには、彼と一緒に在ることを乞うためには、恋なんてものはあまりにもまどろっこしすぎた。
嵐のようにジョウトとカントーを走り抜けた私達には、恋の甘ったるいスピードは少し、遅すぎたのだ。
「そんな相手によくこんなものを渡せたものだな」と、薬指を月明りに弾かせるように天へとかざして笑うので、
私も駆け寄って隣に立って「君だって私の指に嵌めてくれたんだから同罪でしょ?」と、からかうように告げて笑い返してみた。
婚約紛いのやり取りを「同罪」とするなんて、随分と不謹慎だと思った。
けれども今この夜の砂浜に、その不謹慎な悪行を咎める人物はいなかったから、私は訂正する隙を見失ってしまい、そのまま、笑ってしまうことになったのだ。
私達の存在がもし連理になることが叶ったなら、きっとその木目には悪戯めいた「悪事」が通っている。
私の木が、彼のこれまでの幹を、悪魔めいているかもしれないその木目を引き取って、そして一緒に伸ばしていく。私の幹も木目も、いつか彼が引き取ってくれる。
日差しを喜び、雨を楽しみ、雪に震え、そうして咲かせる花の色さえも揃えていく。
「昔のことなんか無理して話さなくていい。君の中にいる悪魔のことを懺悔してくれなくてもいい。
私は君がどんな風であったとしても、その君の全部を抱きこんで一緒に枝を伸ばすって決めたの。だから隠し事の十や二十あったって、どうってことないよ」
「……俺の隠した悪魔とやらのせいで、お前の枝が折れたとしても?」
「折れるときは君も一緒だよ。だってもうそれ、受け取ってくれたものね。木目はもう合わさっちゃったから、私の枝だけ折れるなんてこと、在り得ないよね」
彼の手を取った。ぎゅっと強く握りしめた。大きく目を見開いた彼の紅い目に、にっこりと微笑む私が映っていた。
「残念でした!」