(「どうして貴方は貴方なの?」の続き)
ヒビキと話をしている最中に、ノックもなしに部屋へと駆け込んできて来たあいつは、何を思ったのか俺の手を取り、指に紐を巻きつけてきた。
痛い? と尋ねてきたので、何をやっているんだ、というとびきりの軽蔑の視線を向けつつ、少しな、と返した。
すると僅かに紐を緩めて、それじゃあこれはと更に訊いてきたので、俺は問い詰めることさえ忘れて、痛くないと答えた。
よかった、と笑ったあいつは、その奇行の理由を説明することもなく部屋を出ていった。
気味の悪い謎をこの部屋に落としていかれたことへの不満をヒビキに零せば、彼は膝元に置いた植物図鑑のページを捲りつつ、
コトネはいつもああして楽しそうなことを直ぐにやろうとするんだよ、と、寧ろあの行動力を羨むような言葉を返した。
「あいつのようになるのはお勧めしないが、お前だって、やりたいことくらい自由にやってみればいいじゃないか」
「そうだね、そうできればいいと思うよ」
「なんだよ、できないのか? なら俺が手を貸してやるよ。どんなことでもいいさ、俺を道連れにしてみろ。友達ってそういうものだろう」
……随分と、大きなことが言えたものだと思う。友達、と呼べる人物など、俺のこれまでに居たかどうかも定かではないくせに。
それでも俺は何故だか、この同い年の、体の弱い子供に対して、そうした思い上がった言葉を紡ぐことを躊躇わなかった。
もしかしたら俺の口が語る「友達」は、普通のそれとは少し意味合いがズレているのかもしれなかった。
それでもよかった。もしこれから俺とこいつが友達になれたとして、その関係を評価する奴なんかこの場所にはいやしないのだ。
唯一、それを評価する権利のある人物であるヒビキは、驚きか喜びか戸惑いかは分からないが、やや声を上ずらせつつ、
「ありがとう、嬉しいよ」と答えて、ほら、俺のこの悪事が誰にも迷惑をかける代物でないことを証明してくれたのだから、もう十分すぎる程だ。
確固たる定義を知らずとも、定義など自分で作ってしまえばいい。それが間違っていたとしても、それくらいの「悪事」など恐れるに足らない。
今までずっと、憎しみと反抗心だけを糧に、もっと悪いことを沢山してきたのだ。こんなことに今更怯むなんて馬鹿げている。
俺は、これを「悪事」だとしていたい。そう考えてしまった方が幾分か呼吸が楽になるからだ。
これを勇気とか親しみとかいう、正しく眩しく情に溢れた言葉へと言い換えるのはどうにも気恥ずかしく、また俺らしくないと思えたのだ。
その30分後、息を切らせて部屋へと駆け込んできた彼女は、勝手に俺の指を飾り立てるという「悪事」をやってのけた。
「!」
見たことのないような美しい光沢を放つリングは、俺の薬指であまりにも眩しく光っていて、ずっとその手に握っていたからだろう、金属のくせに随分と生温かくて、
それでいて、全く同じシンプルなデザインのものを俺の掌にのせて、俺の指をそっと畳んで握らせて、らしくない、泣きそうな、随分と弱気な笑みで、
「君と生きるために必要だって聞いたから用意したの」
とか、そんな、あまりにも滑稽であまりにも卑怯な「悪事」の誘いを、その震える声音の内に俺へと持ち掛けるものだから。
つい30分程前の、紐を俺の指に巻きつける奇行は、このサイズを測るためのものだったのだと気付いてしまった、ものだから。
「やっと見つかったよ。君を表す言葉、君と私の間に置きたい言葉!
私、君とずっと一緒に生き続けたい。どんな幸福もどんな栄誉も、隣で君が「よかったな」って言ってくれなきゃ意味がない」
「……随分、熱烈な口説き文句だな。何をそんなに焦っているんだ?」
「口説いているんじゃない、縛っているんだよ。また君が何処かへ行ってしまう前に、此処を……ううん、私を、君の帰る場所にしてしまいたいの」
口説く、という眩しい言葉ではなく、縛る、という悪い言葉に言い換える。そうした俺の十八番は、いつの間にかこいつのものにさえなっていた。
……いや、もしかしたらこうした言い換えはもともとこいつの所有物で、それを俺が勝手に、俺のものにしてしまっただけなのだろうか?
分からなかった。もう、分かりようがなかったのだ。もう随分と前から、俺は俺の元の形を忘れてしまっていた。
俺はこの土地での旅の間、お前を探しながら旅をしていた。お前に会う度に書き換えられていく自身のことが、もうずっと前から誇らしかった。
もう、どちらの言葉であったのか、どちらの想いであったのか分からない。
だから、……随分と狡い思考であるのかもしれないが、こいつが「私を、君の帰る場所にしてしまいたい」と告げたとき、俺も全く、同じことを思ったのだ。
もし俺に帰る場所が与えられるのなら、それが「彼女」であるのなら、俺にその幸福を受け取る権利があるのなら。
「連理の木」
手元の分厚い植物図鑑を捲りながら、ヒビキが静かに声を発した。
「比翼連理、は聞いたことがあるよね? 仲睦まじい夫婦を表す言葉だ。けれど「連理」とは元々、別々の木が枝を伸ばして、一つに合わさる現象を指す単語なんだよ。
果実の効率的な栽培のためにする「接ぎ木」が自然界で起こったもの、と考えた方が分かりやすいかな。
枝の傷を修復するための再生の時に、別の木へと木目を通すんだ。とても珍しい現象なんだよ、奇跡と言ってもいいくらい」
「……」
「コトネ、君はシルバーと木目を揃えたいんだね。……いや、もしかしたら二人はもうとっくに連理の木になっていて、その証明のために指輪が必要だったのかな?」
歯の浮くような恥ずかしい言葉を、まるで本を読み聞かせるかのような穏やかさでヒビキは流暢に紡いでみせた。
息を飲む音があいつの指先から伝わってきたので、はっと我に返ったように慌てて振り向けば、……なんてことだ。彼女は顔を真っ赤にしているではないか。
図星なのだ。つまりはそういうことなのだ。
「連理の木」などという洒落た言い回しではなかったかもしれないが、こいつが「やっと見つかった」と言っていた言葉は、それに匹敵する類のものだったのだ。
こいつは俺を「連理」にしようとしている。いや、きっとヒビキが言うように、俺達はどこかもう「そうなって」しまっている。
そこまで認めて、俺は笑った。ここまで分かってしまえばもう、俺がその指輪をこいつの指に通さない理由など、在るはずもなかったのだ。
「左手を出してくれ」