「大人になりたくないなあ」
その言葉に、書類仕事をしていたアオギリは顔を上げた。
いつものように、少女はアクア団のリーダーである彼の部屋に入り浸っていたのだ。
膝にプラスルを乗せ、その長い耳を触りながらクスクスと戯れていた筈の彼女だが、いつの間にかそのプラスルをボールに仕舞い、ソファに寝転んでぽつりとそう零していた。
まるで我が家のように寛いだ様子を見せる彼女だが、そうしてソファに横たわる姿さえも優雅である。
何処が、と問われればアオギリにそれを説明するだけの語彙はなかったのだが、それでも美しいとこの心が訴えているのだから、美しいのだろう。
彼女はその仕草に、声音に、視線に、美しさを宿し過ぎていた。そんな彼女の美しいソプラノで発された、将来への不満らしき呟きを、アオギリは聞き過ごすことができなかった。
「おいおい、そりゃないぜトキちゃん。大人のオレを前にして随分な言い草じゃねえか」
呆れたようにそう紡いでみせたが、しかし彼女は悪びれる様子もなく、その華奢な肩を竦めて、ソファに寝転がったままに視線をこちらへと移す。
「だって本当になりたくないんですもの。アオギリさんは、大人でよかったなあって思うことがあるんですか?」
至極真面目な表情で尋ねられてしまい、アオギリは苦笑する。
この箱入りのお嬢様は、早く大人になってあの窮屈な家から飛び出したいのだろうと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
それにしても、「子供のままでいたい」ではなく「大人になりたくない」と零すとは。アオギリは先程の彼女の言葉を思い出し、喉の奥でくつくつと笑った。
さて、そんな彼女に社会人としても手本を見せてやらねばならない。アオギリは少し考えた後で、自分が持ち得る最上の理由を語ることにした。
「自分で稼いだ金で食う飯の味は最高だぜ。労働と報酬は大人の特権だ」
すると少女は酷く驚いたような表情の後で、声を上げて笑い出した。
いいところの育ちで、指先一つ動かすことにすら優雅さを滲ませるような、圧倒的な風格を持っているにもかかわらず、全く気取らない豪快な笑い声を上げてみせる。
アオギリは少女のそう言うところを気に入っていた。
すなわち、少女の飾らない本音を、そのままに吐き出される感情を、彼は好ましく思っていたのだ。
だから少女が「大人になりたくない」と言ったとして、そのことにアオギリが気分を害することなど、あり得なかったのだ。
『おいおい、そりゃないぜトキちゃん。大人のオレを前にして随分な言い草じゃねえか。』
先程のこの言葉は、アオギリなりの相槌に過ぎない。
「なんだよ、そんなにおかしいか?」
「ええ、とてもかっこいいことを仰るものだから、つい笑いたくなってしまったんです。……アオギリさん、狡いわ」
鈍色の目がすっと細められる。その色に宿した感情を、この段階ではまだ把握することができない。
けれど彼女の感情を読み取ることができずとも、自分の中に芽生えた感情ならば手に取るように解る。
「狡いわ」と、何かを糾弾するように呟かれたその一言に、アオギリの心臓は跳ねていた。
ああ、そんな声も出せるのかと、いつもは気丈な振る舞いを見せる彼女の新たな一面を知る。彼女の新しい一面を知ることができた、そのことに喜んでいるのだ。
それは誤魔化しようのない事実だった。アオギリは自分の心に嘘を吐ける程に上品な人間ではなかった。
「ああ、やっぱり大人になりたくないなあ」
大人であるアオギリのことを「かっこいい」「狡い」と称し、それでも尚、少女はその主張を曲げない。
その頑とした姿勢にアオギリは面食らう。はて、この少女はこんなにも強情なところのある子だっただろうか。
「なんだよ、オレがそんなに駄目な人間に見えるのか?」
「いいえ、その逆です」
さらりと口にされたその言葉は、再びアオギリを沈黙させた。
「だって私は貴方のように、働くことの喜びをそんなにも眩しい笑顔で語ることも、子供の失礼な言葉を優しく笑って許すこともまだ、できそうにないんですもの」
……ああ、やはりこいつは生粋のお嬢様だ。アオギリは目を細めてそんなことを思った。
嘘吐きを自称するくせに、こうして自らの本音を吐露することに一瞬の躊躇も見せない。
普通はそうした本音を舌の上で並べたら、多かれ少なかれ、相応の恥ずかしさが伴う筈なのだが。
「私はまだ、貴方のような立派な人間にはなれないわ。だから私はまだ、大人になりたくない。生意気な子供のままでいい。
みっともなく大人になった私を見れば、アオギリさん、きっとがっかりするわ」
いつもの丁寧な言葉を取り払って紡ぐそれが、紛れもない真実の言葉であると、アオギリは知っていた。
生粋のお嬢様である彼女は、目上の者への言葉遣いを心得ている。
だからこそアオギリに対しても、先程のように「仰る」という言葉で尊んでみたり、敬語を使って丁寧に話題を切り出したりする。
しかしそうした、あまりにも丁寧な言葉ほどには、彼女はアオギリのことを尊んでいないことをアオギリは知っていた。
目上の者に丁寧な言葉を遣うという最低限の礼儀こそ自然に紡がれているものの、先程のような「仰る」などの更に程度の高い敬語は、彼女の言葉に纏わせた装甲に過ぎない。
そこに彼を尊ぶ心が付随していないにもかかわらず、敢えてそうした言葉を彼女は選ぶ。
その理由をアオギリは知っていた。彼女は嘘を吐くために、自分の本音を誤魔化すために、そうした装甲を自らの言葉に纏わせているのだ。
『ええ、とてもかっこいいことを仰るものだから、つい笑いたくなってしまったんです。』
あれは嘘だ。彼女はアオギリの発言に「かっこよさ」を見出したから、笑い出したのでは決してない。
『みっともなく大人になった私を見れば、アオギリさん、きっとがっかりするわ。』
寧ろ、彼女の本音はこちらにあるのだ。敬語も丁寧な言葉も、その装甲の何もかもを取り払った彼女の、彼女らしくない言葉こそ、紛うことなき彼女の本音なのだと知っていた。
彼女は、アオギリのかっこよさに驚いて笑い出したのではない。
そんな立派なことを紡いでみせた彼のようになれる自信がなくて、圧倒的な大人の姿を見せつけられたことが悔しくて、「狡いわ」と零したのだ。
アオギリのような大人になれそうにないと不安になり、「きっとがっかりするわ」と告げて笑っているのだ。
アオギリは、そこまで解っていた。解っていたのだ。
けれど「解っている」ことを彼女に悟られないように、解っていても解っていなくても紡ぎ得る言葉だけを選んだ。
それは、彼女の複雑で狡猾な心を肯定するための、彼なりの誠意の形だった。
アオギリは彼女の気取らないところを最も気に入っていたが、しかし嘘と本音を巧妙に入り混ぜる彼女を嫌っている訳では決してない。
寧ろそれも彼女の一部だと思える。その程度の尊さだったのだ、アオギリにとって、彼女の存在というのは。
「なるほどなあ、しかしトキちゃん、オレだって初めから出来た大人だった訳じゃねえよ。いや、今だってそんな褒められたような人間じゃねえか」
「いいえ。こんなに素敵な人、きっと他にいないわ」
……アオギリを見上げて紡がれたその言葉には、敬語も丁寧な言葉も含まれていなかった。
だからそれを彼女の「本音」だと捉えることは簡単にできた。彼女とそれなりの長さの時間を重ねてきたアオギリには、彼女の嘘と本音を見抜くことなど容易いことだった。
それなのに、その言葉が彼女の本音なのだと、直ぐには受け止めることができなかった。
果たして自分はその言葉を受け取ってもいいのだろうかと迷ってしまう程には、彼女のその声音は美しすぎた。眩しすぎたのだ。
「……そうかい。なら、ちゃんとオレの背中を見ときな。そんで、オレなんかよりもっとかっこいい大人になってくれ」
けれどアオギリは迷った末に、彼女に相応しい言葉を用意した。少女はとても嬉しそうに微笑み、ソファの上でころんと寝返りを打つ。
だってこいつは遅かれ早かれ大人になるのだ。時間というものは誰にも等しく訪れるのだ。
それなら、ちゃんと導いてやった方がいいだろう?
たとえ自分が、この少女の背中を押すに相応しくない人間であったとしても、今この場には自分と彼女しかいないのだから。
……だから、みっともない大人の姿でも、見せないよりはずっとマシだろう?
「ああ、でも、やっぱり大人にはなりたくないなあ」
「こいつ、まだ言うか」
「だって大人になったら今までのように、アオギリさんのところに遊びに来られないじゃないですか」
満足そうに微笑んでいた少女の顔が再び不満気に歪められたと思ったら、今度はそんな年相応の可愛らしい言葉を吐き出してみせるのだ。
果たして、それは彼女の冗談だろうか。それとも本音だったのだろうか。
その言葉だけではどうにも判別しがたいと思ったアオギリは、判断材料をもう一つ増やすためにとある提案をしてみせる。
「なんだ、そんなことを気にしていやがったのか。それならいっそ、恋人にでもなっておくか?」
そんな戯言を贈れば、少女はその頬にぱっと歓喜の色を宿す。先程の言葉の真偽は、推して知るべしと言ったところだろう。
2015.8.20