※フラダリカフェでの会話後
この人はコーヒーにたっぷりのミルクを入れたり、角砂糖を3つも落としたりしないんだろうな。
私はフラダリさんに対して、そうした印象を抱いていた。
出会う度に難しい内容の言葉を並べてくれるが、私にはそれが「難しい言葉」だということしか解らない。
彼の話している内容の殆どが私には意味をなさない。それは異国の難しい言葉以上の何物でもなかった。
その音が私の中で文脈を形作ることも、何らかの訴えとして私の心を揺らすこともないのだ。
それは同時に、私も彼に何も伝えらえないということを意味する。当たり前だ。私はまだカロスの言葉に慣れていない。
慣れるための努力もせず、言葉が解らないのだと無知を公表することも出来ず、中途半端な存在のまま、酷くカロス地方に怯えている。
私はそうした人間だった。それを今までは普通のことだと思っていた。
しかし、それを酷くもどかしいと感じるのは、決まって彼を相手にした時だった。
無知は相手を修飾するための用途にはならない。私はこの人に対して何の情報も得ていない筈だった。
そして、それは彼も同じである筈だった。だから私と彼は他人であり、それ以上にはどうしても成り得ないのだと。
当たり前だ、悲しむことではない。仮に何かしらの関係に発展したり、距離が縮まったとして、私にはどうすることもできない。
私はそれを拒むための言葉も、それを受け入れるための台詞も、それを喜ぶための単語も用意できない。
つまりこの関係は袋小路であり、追い詰められた私と第三者との距離は自然と広がっていく筈だった。私がそれを望んでいたし、自然とそうなるものだと思っていた。
「コーヒーは飲めますか」
なのにどうして私は今、フラダリカフェという真っ赤な色が眩しい場所で、あろうことかその経営者とテーブルを挟んで向かい合っているのだろう。
そもそもここにやって来たのは、ホログラムメールをプラターヌ博士から受け取ったからだ。話したいことがあると言われ、その待ち合わせ場所として此処を彼は指定した。
そして何故かそこに彼の姿があった。プラターヌ博士と話すつもりが、何故か彼との会話になっていた。
いや、それは会話ですらなかった。この人が一方的に喋り倒しただけで、私は一言も声を発していない。
ただ残念なことに、それはフラダリさんとの会話においてのみ発生する現象ではなかった。私はいつだって無言を貫いていた。それは私が自分に課した約束だった。
だからその質問にも「はい」か「いいえ」で返さなければならなかった。反射的に「はい」と返事をしてしまった私は後悔した。
どうしよう、ブラックのコーヒーなんて飲めないし、付いてくる一つのミルクと一本の砂糖では到底足りない。
そもそも苦さを消す程の砂糖やミルクを加えればそれは最早コーヒーではないのだが、しかしそれでも飲み切らなければいけない気がした。
彼の前ではそうすることを強いられているような気がしたのだ。大人である彼と同じ空間を共有するには、それくらいの代償を払って然るべきだと思っていた。
ウエイターがコーヒーを一つだけ持ってきた。フラダリさんの方に置き、こちらに向けて「もう暫くお待ち下さい」と言い残して去って行った。
それにしても、この人はどうして私をこの場に誘ったのだろう。先程の話だけではまだ足りなかったのだろうか。
どうせなら私ではなく、カルム君を呼んであげればいいのにと思った。彼ならフラダリさんの言っていることが解るし、きっとその方がフラダリさんにとっても有意義だろう。
……そもそもメガシンカの権利だって、私が持っていいようなものではなかった筈だ。本当ならカルム君がメガリングを持つべきだったのだ。
身に余る処遇を受けすぎて、私はどこまでも委縮していた。私はそんな人間ではなかった筈だ。
今だって、私は彼と向かい合えるようなできた人間ではないのに。
そんなことを思っていると、とうとう彼が口を開いた。
「君は、何に怯えているのですか」
それは私でも解る言葉だった。しかしそんな言葉を彼が操ること自体が異常だった。
彼の言葉は解らないものだと思い込んでいただけに、その音が私にも理解できたことが衝撃だった。
それは今まで私が立てていた常識を覆す言葉だった。だから私も、何らかの形で自分の殻から脱さなければならなかった。
「全てに」
「……そうですか。気付いてあげられずに申し訳ない。辛かったでしょう」
その言葉もちゃんと私の耳に届いた。更に信じられないことに、彼はそっと微笑んだのだ。
この完璧な大人の笑顔は、私が想像していたよりもまったく高圧的ではなく、寧ろ穏やかで優しかった。
そしてその笑顔は、何処か困っているようにも見受けられた。
「わたしのことも、怖いですか」
その言葉に私は、よく考えた後で、頷いてしまった。
彼のことを思うのなら頷くべきではなかった。しかし「いいえ、違います」と否定するのはどうしても躊躇われたのだ。
それは先程の発言と矛盾するし、この人には嘘を吐きたくなかった。
いつも難しいことばかりをいう彼が、私にも解る簡易な言葉を操ってくれているのだ。その意味を私は正しく理解しなければならなかった。
今の私に求められているものは、その場限りの繕いではなく、真摯な対応と正直な言葉だと思った。
そして、それ以上のことを彼に伝えられないことを酷くもどかしいと思った。
悔しい。私は彼に何も伝えられない。
「ありがとう」
しかし彼はそんなことを言ったのだ。私は驚きに目を丸くした。
「君はわたしに嘘を吐かないのですね」
「あ……」
「それが君の、わたしへの精一杯の甘えだと受け取っても?」
途端に難易度が上がった言葉に私は血の気が引いたが、何とかその内容を咀嚼して、ゆっくりと頷いた。
彼はほっとしたように微笑んだ。
「!」
「シェリー、また此処で会いましょう。待っていますよ」
彼は私の分のコーヒーが運ばれてくる前に席を立った。
今ほど自分の無知と臆病がもどかしいと思ったことはなかった。どうしてもっと言えなかったのだろう。どうしてもっと言葉を紡げなかったのだろう。
彼は最初から気付いていたのだ。私が何もかもに怯えていたこと、だから謝る必要などなかったのに、彼は困ったような笑顔で申し訳ないと言ったのだ。
私は本当に僅かな単語と、頷きしか彼に伝えられなかったのに、彼はそこからとても多くのことを拾い上げてくれたのだ。
取り零すことなく全てを掬い、私に差し出して微笑んだのだ。どうして私がその善意を拒むことが出来ただろう。
私の心の機微を拾ってくれてありがとう。上手く話せなくてごめんなさい。貴方のことを嫌っている訳ではないんです。おかげで少し楽になりました。
そうしたことが伝えられないもどかしさが、私の胸の奥でくすぶっていた。悔しかった。ただひたすらに悔しかった。
それでもいいと、彼が笑ってくれたのだ。私は自分の世界が広がるのを感じていた。
しかしまだ、私は何も解っていなかったのだ。
「お待たせしました」
ウエイターが運んできたカップの中身が、甘い。
『コーヒーは飲めますか。』
彼は私の顔色をちゃんと見ていたのだ。反射的に「はい」と答えてしまった私の後悔を、彼はちゃんと拾い上げてくれていた。
彼が注文する時の声を、私は意味のある言葉として聞き取ることが出来なかったが、あの時既に、彼はこれを注文していたのだ。
同じコーヒーを注文した筈なのに、フラダリさんの方にだけ先にコーヒーがやって来たのはそういうことだったのだ。
つまり、私はどこまでも彼に見抜かれていたのだ。
私はそっとカップに口を付けた。甘いチョコレートが舌を撫でる。
何故だか涙が止まらなかった。悔しさと嬉しさとが混合していた。また此処で会いましょう、と言った彼の言葉に甘える日はそう遠くないらしい。
2013.12.19
25万ヒット感謝企画作品。
うずらさん、お待たせしました!