星結び

※50万ヒット感謝企画、参考曲「小さきもの」
「紫煙を飲む飴」「貴方の神になる」の少し後にあったかもしれない話

「小さい頃、朝顔の種を貰って、友達と一緒に育てていたことがあるんです」

陽はとうに沈んでしまっていた。
コガネシティでは星がよく見えないからと、少女は強引かつ乱暴に男の手を引く。小柄な少女の力でさえ簡単に動かせてしまう程に今の彼は軽く、一切の抵抗を見せなかった。
赤いギャラドスの背に彼を乗せ、コガネシティの南に広がる道路から海に出た。静かな浜辺に慣れた様子で足を下ろした。
潮風に湿った砂が服に貼り付くことを厭わず、彼女はコロンと仰向けに寝転がった。
此処まで来ると星がよく見えますよ、と彼女は星に目の焦点を当てたまま男を呼ぶ。
彼の中に生じた一瞬の躊躇いは、しかし「アポロさん」と彼を呼ぶ声がすぐさま掻き消してしまった。

溜め息を吐く。隣に腰を下ろす。首を大きく傾げて見上げれば、キラキラとささやかな煌めきが彼の目にも飛び込んでくる。
コガネに降る夜の星はあまりにも賑やかで、眩しい。けれど本来、空に降りる星とは眩しいものなどではなかったのだ。
こうして見上げなければ気付くことさえできない程の、些末で儚い光しか我々の下には届かないのだと、男は理解した。それだけだった。他には何の感慨も沸かなかった。

「プランターを人数分だけ並べて、一緒に、いつ芽が出るか楽しみにしていたんですよ」

唐突に幼少期の記憶を語り始めた少女の瞳は、しかし些末な星の光を一身に受けて煌めいているようにさえ見えた。

彼女の語る朝顔とやらが、夏に咲く花の一種であること、花というものは種を土に埋めれば然るべき季節に芽吹くものであること。
それらを知識として男は知っていた。しかし、それだけだった。
ただそれだけのことを至極幸福な記憶であるように語る彼女の横顔を、どうにも解することができずにただ、「そうですか」と、下手な相槌を打つ他になかったのだ。

「皆の芽は同じくらいに出てきたのに、私の種だけなかなか芽を出さなかったんです。どんどん伸びていく友達の芽を見て、私、焦っていたんですよ」

「……本当に種は埋められていたのですか」

「あはは、私もその時、そう疑いました。茶色い土だけしかないプランターを毎日覗き込んで、本当にここに埋めたのかなって、土の中で死んでしまったのかなって、
……そんなことをいつまでも考えて、どうしようもなく不安になったことを、覚えています」

困ったようにクスクスと笑う。少女の象徴である短いツインテールが潮風に揺れる。
この少女に「過去」などないように思えた。振り返るべき思い出など何もないのではないかと思わせる程に少女は若く、幼かった。
けれど彼女はこうして幼少期の思い出を語る。懐かしむように、愛おしむように記憶を紡ぐ。
思い出というのは苦痛と後悔だけをその身に残していくものなのではなかったかと、しかし男はどうしても尋ねることができなかった。

「それで、芽は出たのですか」

自分の話に興味を示してくれたことがこの上なく嬉しい、といった、あまりにも朗らかで歓喜に満ちた笑みをぱっと咲かせる。
「そうなんです!」と彼女の茶色い目が真っ直ぐに男を見上げる。星の光を吸い込んだそれは、琥珀のようにも、深い太陽のようにも見える。

「皆よりもずっと後に、やっと芽が出たんです。どんどんツルを伸ばしていって、皆より少し遅れて蕾を作りました。鮮やかなピンク色の、とても綺麗な、宝石みたいな花でした。
皆の朝顔が枯れてしまってからも、私の花だけ、ずっと長く咲いていたんですよ」

「……それは、よかったですね」

何が良かったというのだろう。芽が出ることがこの少女にとってどれ程の喜びだったというのだろう。
男には推し量る術がない。その歓喜を、高揚を、幸福を、知りようもない。
花とは道端にひっそりとその色を主張している植物であり、それ以上でも以下でもない筈だった。
たったそれだけのことにここまで心を動かすことのできるこの少女というのは、酷くめでたい、幸福な生き方をしているのだろう。

「だから、とうとう咲かなくなった時、泣いちゃったんです」
「もうピンク色の花におはようって言えないんだなって。私よりもずっと早起きだったこの花が、私よりも先に起きて私を待っていてくれることはもう二度とないんだって」
「命の終わりを見たのはあれが初めてだったと思います」
「私、そのプランターにずっと触ることができなかったんです。綺麗に咲いていても直ぐに枯れてしまう、そんな花のことがずっと、怖くて」

適当な相槌さえ打つことを忘れた男の隣で、少女はあまりにも饒舌に語った。
朝顔が少女に与えた恐怖と絶望のこと。生き物の死というものを間近に見た瞬間のこと。鮮やかさを失った命を直視し続けることは、途方もない勇気を要するのだということ。
「でも!」と少女は叫ぶように続けて身体を起こした。先程から彼女が延々と続ける話に何の感慨も沸かない男に、彼女の情動は果たしてどれ程伝わっていたのだろうか。

「次の夏にまた、その土から芽が出てきたんです!去年と全く同じ、ピンク色の花で私に会いに来てくれたんです!」

「……」

「だから、寂しく思う必要なんてなかったんです。だって朝顔はそれからも毎年、あの土から芽を出してくれるから。
命はそうやって巡るんだって、私、あの花に教えてもらったから」

歌うように少女は語る。ソプラノの声音が男の胸を静かに満たしていく。
しかしそれらの言葉は、彼女の口から放たれた時の温かさをもう宿していない。彼はそのエピソードを「温かい」ものであることをどうにも理解できない。理解しようがない。

男は少女のように、花を育てたことなど一度もなかった。
初めて手の中に収まった「ポケモン」という命は、しかしロケット団に属する彼にとって、己の居場所と上司の指示を守るための道具にしかなり得なかった。
勿論、使い続けていれば道具は己の手に馴染む。使い勝手のいいものには愛着が沸く。
けれどそれはどうにも、この少女の語るような「命への愛情」とはあまりにも捻れた位置にあるように思われてならなかったのだ。
そうして彼の尽くしてきた組織が解散に追い込まれた今、愛着の沸いた道具さえその使い所を失くしてしまった今、どのような意味が彼の明日に残されていたというのだろう?

「人の命も同じように巡っているのでしょうか」

「……私は、そうだと思っています」

しかしそんな、どこまでも相容れない位置に生きる筈のこの少女は、何故だか酷く男を慕う。男には理解し得ない、焦燥と不安が常に彼女の瞳に宿っている。
この子供は何を焦っているというのだろう。自分をどうしようというのだろう。

何もかもが男には解らなかった。対極の位置に生きる、幸福でめでたい頭をした子供のことなど、解る筈がなかった。
そしてそれ以前の問題として、男は疲れすぎていた。憎むことに、悔やむことに、そして何より、生きることに。

「だから、死なないでくださいね、アポロさん」

自らの思考を読んだかのようなタイミングで発せられたその言葉に男は驚いた。しかしやはり、それだけだったのだ。
それこそが、彼女のエピソードを経て彼女自身が最も訴えたかったことなのだと、彼女の焦燥と恐怖とは、ただそのことにこそ向けられていたのだと、
しかし男は理解しない。受け入れることができない。

「花の命は一年で巡るけれど、貴方が此処で死んでしまったら、次はいつ貴方に会えるか解らないから。
もし貴方の命が巡ってきたとして、きっとその時にはもう私は生きていないから。……朝顔が冬を越せないのと同じように、私の命にだって、限りはあるから」

男はどうしても、少女の語る「朝顔」の指す姿を上手く思い浮かべることができない。

少女は死にたくなかった。男は自分の生きる意味を奪ったこの少女を殺したかった。
少女は男を死なせたくなかった。男は生きる意味の潰えたこの世界から早々に消えてしまいたかった。

二人の隔絶はあまりにも大きく、二人の言葉が交わることは二度とないように思われた。
少女の星は彼女の目の中に在ったが、男の星があったとして、それはこの空の遥か遠くに密やかに瞬いているものでしかなかったのだろう。
二つの輝きはそうやって、互いに互いを忘れていく筈であった。もしくは片方がもう片方によって消し去られる筈だった。そう在らなければと心得ていた。

しかし幸いなことに、男は疲れすぎていた。
生きる意味を探すことに、この少女を憎むことに、再び指導者として仲間を募ることに、彼の守り続けた組織で再びかの男を待つことに、そして何より、生きることに。
彼がその疲弊により手放しかけた命は、手に留めておくことすら疲れてしまったその心は、しかし皮肉にも、その少女の強い言葉に揺らぎ始めていた。拒むことすら疲れてしまった。
だから、このような世迷い事を口にしたのだろうと思う。

「私がその種を埋めても、ちゃんと芽は出てくるのでしょうか?」

「!」

少女は雷に打たれたかのような衝撃の表情を見せ、しかし次の瞬間、弾かれたようにはっと我に返り、聞き取ることが困難な程の早口で声高に告げた。
星が照らした琥珀の色が、安堵と歓喜の色に変わる瞬間を、男は確かに見た。

「それじゃあ、一緒に育てましょう!今年はアポロさんの分のプランターも用意しますから」

貴方の何にだってなります。幸福な記憶にだって、巡る命の教え手にだって、貴方の命を繋ぎ止めるための楔にだってなってみせます。
だから、死なないでください。もう二度と会えない所へ行ってしまわないでください。

しかし朗らかな声音の裏にそう懇願する少女とは対照的に、男は全く別のところを、それでいておそらくはようやく結ぶことの叶うところに、自らの思考を置いていたのだ。

死のう、と思った。
自分が植えた朝顔の種がもし芽吹くことをしなかったなら、その時はこの少女への侮蔑と糾弾の意を示すために命を絶とう。
それまでの楔なら甘んじて受け入れようと思った。それくらいの諦めなら許されるのではないかと思った。
そうして何もかもに疲れ果てた男は少女の手を取った。彼女の懇願を、聞き入れてしまった。

彼等の行く末は、空に降りる星でさえ知らない。
だがおそらくその種は芽吹くだろう。そして花が枯れてしまっても、男はまた巡る命を思うのだろう。彼の命はそうしてようやく、彼だけのものになっていくのだろう。

2016.3.11
papiさん、素敵な曲のご紹介、並びに企画へのご参加、ありがとうございました!

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