※クリスマス企画
ラムダ短編「紫煙を飲む飴」の数週間後にあったかもしれない話
とびきり甘い飴を一つだけポケットに入れ、早朝のコガネシティを歩いていた。
ジョウト随一の大都会と言えど、やはり朝の6時に人は殆ど見当たらない。あまりにも静かな大通りを歩きながら、私は紫煙の香りを探していた。
何処にいても、必ず見つけられる。ラムダさんの身に纏った紫煙はあまりにも濃かったのだ。
けれど今日はあの人の紫煙を拾うより先に、目の覚めるような緑色の髪を見つけてしまい、私の足は不自然に止まった。
ロケット団の幹部、と呼ばれる人達は皆、それぞれはっきりとした目立つ色の髪をしていた。
ラムダさんの紫も一度見たら忘れられない鮮やかな色だったけれど、この人のエメラルドグリーンもまた、強烈な印象をもって私の記憶に焼き付いていたのだ。
故に建物に凭れ掛かるようにして朝の霧を見つめていた男性、そこに宿る緑を視界に収めるや否や、私はその名前を大声で紡いでいた。
一瞬の躊躇いさえ挟むことなく、記憶の海はただ一つの名前だけを岸に打ちあげて寄越したのだ。
「ランスさん!」
振り返った彼は、私の姿をその目に認めると、逃げることも私に背を向けて歩き出すことも、手元のモンスターボールに手を掛けることすらせずに、
ただそのまま、アスファルトにその両足をしっかりと着けて、私が駆け寄ってくる様を、見ていた。
「何か用ですか」
「あ、えっと……」
呼び止めてからのことを何も考えていなかった私の呆れた思考はそこでフリーズする。
どうすればいいのだろう。何を言うべきなのだろう。私はどうしてこの人を呼び止めたのだろう。
暫く何の音も紡ぐことなく、困り果てたように沈黙していた私を、彼は何も言わずにじっと見ていた。私の次の行動を、待っているようにさえ思えた。
けれど私が続けた沈黙はあまりにも長かったようで、痺れを切らしたらしい彼の、やや苛立ったような鋭い声音が冷たい冬の空気を伝って私の鼓膜に突き刺さった。
「お前、家に帰らなくていいのですか」
「どうしてですか?」
「今日が何の日か、忘れている訳ではないのでしょう。幸運にも、生温い家庭の温度に触れられるのですから、そのぬるま湯にふやけていればいい。
そして、いる筈のない神の生誕を、めでたく祝っていればいい」
クリスマスのことを指しているのだと、気付けない程に愚鈍な訳ではなかった。
けれど、「だから此処に来たんです。飴を待ってくれている人がいますから」と答えることは少しだけ躊躇われた。
代わりに「ランスさんは、神様を信じていないんですか?」と尋ねれば、彼は以前に纏っていたあの「R」のロゴの黒服を思い出させるような、射るような鋭い笑みを浮かべた。
そこに軽侮と憎悪の色を見るのは驚く程に簡単だった。
ああ、この人はそうしたものを信じていないどころか、憎んでさえいるのだと、容易に察することができたのだ。
「神などいません。もしいるならば、我々のような人間がこのような寒空の下で、帰る場所すらなく裏路地を歩く道理などない筈なのですから」
「……でも、」
「あんなものはお前のような子供の、めでたい頭の中にだけ生きていればいいんです。都合のいい存在に付いて議論するだけ、時間の無駄ですよ」
饒舌だ、と思った。ランスさんという人は、こんなにも饒舌に自分の考えを話す人だったのだと、今更、知って背筋を冷たいものが走った。
憤りさえ滲ませたその声音は、私にだけ向けられたものではきっとない。彼はきっと、もっと大きなものが許せないのだ。
その大きなものから自分を救い出してくれない神を、信ずる価値などないのだと、彼はきっとそう言いたいのだ。
でも、私の信じる神様は、そういう神様ではなかったから、私は彼の神経を逆撫ですることになると解っていながら、それでも、口を開かずにはいられなかった。
「神様は意地悪で私達を助けないんじゃなくて、助けることができないんだと思います。助ける訳には、いかないんだと思います」
彼の整った眉があからさまに不愉快だ、と言わんばかりに歪められて、その露骨な表情に私は一瞬だけ怯んだ。
けれど、どうしても言わなければいけない気がした。
私は神様を厚く信仰している訳ではないけれど、それでも、誰であっても、このように言いたい放題に軽蔑され、なかったことにされてしまう道理など、きっとない。
たとえそれが、本当に存在しているのか定かではない神様というものであったとしても、それでも、一方的に糾弾されるなんて、おかしい。
私はそうした、どうしようもなく拙い、彼の言葉を借りるなら「めでたい」信念に従って、口を開いた。
「神様は私達に、自由に動ける手足と、自由にものを考える頭を与えてくれたから。私達が自由に動くことを許してくれたから。
……だから、その人がどう動こうとも、何をしようとも、神様はその人の自由に触れて、助けることはできないんだと思います。それは私達の自由を奪うことになってしまうから」
彼は、私から目を逸らさなかった。
彼は私の言葉を馬鹿にしない。くだらない、と一笑に付さない。そのことが酷く恐ろしく、けれどそのことに酷く安堵してもいた。
「私達はもう十分に、神様から貰っているから、……だからこれ以上、欲張っちゃいけないんだと思います」
「……では、」
だから神様を憎まないでください、と言外に集約されたそれを、きっと大人である彼は直ぐに拾い上げたのだろう。
だからこそ、いよいよ侮蔑的に笑い、私に更なる問い掛けをしてみせたのだろう。
「もしそうだとして、私が神を憎むのは間違っているのだとして、では誰を恨めばいいのですか?この矛先を誰に向ければいいのですか?
お前はそこまでの答えを用意できるのですか?」
いけないことを言ってしまったのだと、愚かな私はようやく気付く。
彼は意地悪で神を憎んでいたのでは決してない。
よくない境遇に追い込まれた彼は、そうした存在を信じまいと頑なになり、憎むことでなんとか心のバランスを保っていたのだ。
そしてあろうことか私が、帰るべき場所を持つ恵まれた私が、その絶妙なバランスで積み上げられた彼の心を揺らしてしまったのだ。その心にひびを入れてしまったのだ。
だから私が、つまらない信念をもって彼に考えを説くことなど、決してしてはいけなかったのだ。
まだ子供である私が彼の苦悩に干渉しようなんて、思い上がりにも程がある話だ。
私では無理だ。私ではこの人を傷付けることしかできない。私はこの人の絶望を紐解けない。
彼はそうした、愚かで無力な私を見抜いている。……にもかかわらず、彼は手元のモンスターボールに手を掛けることも、この場から立ち去ることもしない。
ロケット団の幹部であった頃の彼は、ポケモンバトルで、その力でもって私の道を阻もうとしていたのに、彼はもうその力を使わない。
代わりに言葉でもって私を糾弾し、叱責している。「お前に何が解る」と。
「私を、」
「!」
だから私は、もう一度だけ言葉を紡ぐチャンスを与えてくれた彼に、償いをしなければいけないと思ったのだ。
「……私を、憎んでください」
それが子供っぽい思い上がりであったとしても、愚かで無力な私の延長に過ぎなかったとしても、それでもこれが、今の私の紡ぎ得る最大の誠意だった。
それに、間違ったことは言っていないつもりだった。ロケット団を解散に追い込み、彼等を路頭に迷わせたのは、他でもない私である筈だったのだから。
だから彼が神様を恨むよりもずっと、彼が私を恨むことは道理に叶っているのだ。だから、構わない。
「私はお前のような生温い人間ではありません。私の憎悪はそのまま、お前への殺意になる。この意味が解りますか?」
さっと血の気が引いたけれど、私の身体が震え始めるより先に、彼が至極楽しそうに眉を上げて笑った。
ああ、この人も笑うのだと、向けられるかもしれない殺意への恐怖が、その笑顔への驚きで塗り替えられてしまった。
「……何を怖がっているのです、冗談ですよ。お前のようなめでたい子供に、私の憎悪など惜しくて向けていられない」
代わりにこれを頂きましょう、と告げて、彼は私の隣をすっと通り過ぎた。
強く香った「いつも」の香りにはっと振り返れば、彼は私に背を向けたまま、左手に持ったものを掲げてみせる。
「!」
時が、止まった気がした。
勿論、そんなことは全くなくて、彼は私の止まってしまった時に構うことなくアスファルトを踏みしめて、遠く小さく霧の向こうに消え始めている。
彼は私を手に掛けない。彼は私を憎まない。彼は私の言葉を一笑に付さない。
その意味を考えようとしたけれど、それは私のような子供にだって解る、とても簡単なことで、思考する必要さえきっとなかったのだろう。
だって、どうして貴方は私がポケットの中に飴を入れていることを知っていたの?
煙草やライターを持っていなかった貴方から、ラムダさんと同じ紫煙の香りが強く香ったのは何故?
貴方は此処で、何をしていたの?誰を、待っていたの?
「それはラムダさんの分です!」
「知っていますよ、そんなこと!」
霧の向こうで飴を握った手を掲げ、少年のように笑う彼がいた。
2015.12.25